第10話:酒場の攻防、魂の残滓

「……あの男、『影喰らい』の“残滓(ざんし)”に侵されている!」


 ゼフィルさんの絶叫と、街全体を揺るがす地響きに、酒場は一瞬にしてパニックに陥った。


「な、なんだ!」「外を見ろ! 西の空が……!」


 冒険者たちが窓際に殺到する。だが、俺たち四人だけは、その場から動けなかった。 俺たちの目の前で、グレゴールさんが、紫色の禍々しい魔力を体から放ちながら、苦悶の声を上げていたからだ。


「ぐ……ああ……あああああっ!」


「グレゴール! おい、正気に戻れ!」


 イグニスさんが、大剣の腹で暴れるグレゴールさんを押さえ込もうとする。 だが、今のグレゴールさんの怪力は異常だった。巨漢のイグニスさんが、ジリジリと後ろへ押されていく。 周囲のテーブルがなぎ倒され、ジョッキが砕け散る。 今の俺は、祝宴のために装備を外したただの丸腰だ。巻き込まれれば、一撃で即死する。


「くっ、馬鹿力だ……! こいつ、肉体の枷(かせ)が外れてやがる!」


「イグニス、離れろ! 私が障壁で隔離する!」


 ゼフィルさんが杖を構え、他の客を巻き込まないよう空間を区切ろうとする。


「待ってください!」


 俺は叫んで、イグニスさんの背後へ回り込もうとした。 だが、近づいた瞬間。

 キィィィィィィン……!


「……っ、ぐ……!」


 激しい耳鳴りが、鼓膜ではなく脳髄を直接揺さぶった。 頭痛とは違う。ひどい船酔いのような、世界がぐにゃりと曲がるような生理的な不快感。 まるで、壊れかけたスピーカーのノイズが、頭の中で大音量で再生されているようだ。


 なんだ、これ……! 気持ち悪い……!


 俺は思わず口元を押さえ、その場に膝をつきそうになった。 これは、グレゴールさんから発せられている。あの「影喰らい」と対峙した時に感じた、世界の「歪み」そのものが、不協和音となって俺の神経を逆撫でしているのだ。


 ふと見ると、イグニスさんとゼフィルさんは、グレゴールさんの暴走には警戒しているものの、この「ノイズ」には全く気づいていないようだった。


 俺だけか……? 俺だけが、この『エラー音』を聞いているのか……?


 脂汗で見開いた俺の視界の中で、グレゴールさんの胸の中心から、陽炎のような赤黒い「ノイズ」が噴き出しているのが見えた。 理屈じゃない。あそこが「悪い」と、本能が警鐘を鳴らしている。


「ダメだ、イグニスさん! 攻撃しないでください! あれはグレゴールさん本人じゃない、体内に残った“異物”が彼を操っているだけです!」


「異物だあ? 何言ってやがる!」


「説明は後です! あの『歪み』の核を叩き出さないと、彼は死にます!」


「だが、どうする! このままでは彼自身が自壊するぞ!」


 ゼフィルさんが叫ぶ。


「イグニスさんは大剣の腹で彼の動きを止めてください! ゼフィルさんは援護を! リリアさん……! あなたの『浄化魔法(ピュリファイ)』が必要です!」


 俺は、吐き気をこらえて指さした。


「あそこです! あの胸のノイズに、あなたの祈りを叩き込んでください!」


「は、はい! やってみます!」


 リリアさんが、アレンさんの悲痛な声を信じ、覚悟を決めて杖を握りしめる。


 作戦は、即座に実行された。


「うおおおっ!」


 グレゴールさんが、獣のような咆哮を上げて襲いかかってくる。


「チッ、暴れるんじゃねえよ!」


 イグニスさんが、Cランク冒険者の剛腕を、大剣の腹で必死に受け止める。火花が散り、イグニスさんの足が床板を削る。


「リリアさん、まだか!」


「詠唱が……!」


 リリアさんの詠唱が間に合わない。 グレゴールさんがイグニスさんを強引に振り払い、狙いを定めたかのように、詠唱中のリリアさんに向かって突進した。


 まずい! あれ(奇跡)を使うか……? いや、ダメだ。残り二回。ここで使ってしまえば、本当に必要な時に仲間を守れない!


 考えろ! 奇跡に頼るな! 知恵を使え! 俺にできることはなんだ!


 俺の脳が高速で回転する。 丸腰の俺が飛び込んでも、犬死にするだけだ。物理的な力じゃ止められない。 グレゴールさんの重心は前のめりだ。床は酒で濡れている。


「ゼフィルさん、奴の足元です!」


 俺は叫んだ。


「足を固めるんじゃありません! 床を凍らせて、滑らせてください!」


「……滑らせる……? なるほど、摩擦を消すということか!」


 ゼフィルさんは一瞬眉をひそめたが、即座に俺の意図を魔術的な解釈へと翻訳した。


「『アイス・スリック』!」


 彼が放ったのは、拘束魔法ではなく、ただ床を鏡のように平滑に凍らせるだけの初級魔法。 だが、その効果は劇的だった。


「ッ!?」


 全力で踏み込んだグレゴールさんの足が、ツルリと滑る。 勢いがついていた分、彼の体勢は無様に崩れ、仰向けにひっくり返る形で宙に浮いた。


 完全に無防備な背中が、床に叩きつけられる。 その衝撃で、一瞬動きが止まった。


「今です! リリアさん!」


「核は胸の中心!」


 アレンの叫びに応え、リリアさんが杖を突き出す。


「邪なるものよ、去りなさい! 『ホーリー・ピュリファイ』!」


 純白の光が、グレゴールさんの胸に吸い込まれる。


「ギィィィィィィアアアアアッ!」


 グレゴールさんの口から、人間のものではないおぞましい金切り声が響き渡る。 俺の頭の中で響いていたノイズが、断末魔のようにキーンと高音になり――やがて、プツンと途切れた。


 彼の体から、紫色の煙が吹き出し、浄化の光に焼かれて消滅していく。 煙が完全に晴れると、グレゴールさんは糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。


「……はぁ……はぁ……」


 イグニスさんが、大剣を下ろして荒い息をつく。リリアさんも、魔力を使い果たし、その場にへたり込んだ。 これで、ひとまずの危機は去った。


「……助かった、ぜ……」


 意識を取り戻したグレゴールさんが、イグニスさんに抱え起こされながら、おぼろげな記憶を語り始めた。


「……影に喰われた時、頭の中に声が響いたんだ。『これで“準備”が整った』と……。俺は……ただの捨て駒にされたのか……?」


 グレゴールさんの言葉に、俺とゼフィルさんが顔を見合わせる。


「……奴らは、グレゴールさんを街中で暴走させるための『時限爆弾』として、わざと残滓を残したのか」


 俺の推測に、ゼフィルさんが苦々しい顔で頷く。


「極めて悪質だ。人の命を、ただの道具としてしか見ていない」


 敵の非道さを改めて噛み締めた、その時だった。


 ガタンッ!


 今度は酒場ではなく、ギルドの入り口の扉が勢いよく開く音が響いた。 ギルドマスターが、血相を変えて駆け込んでくる。


「おい、お前ら! ここにいたか!」


「マスター、どうしたんですか。そんなに慌てて」


 イグニスさんが問うと、マスターは絶望に顔を歪めて叫んだ。


「大変だ! 西の空から、山のような巨人が……!」


「……巨人?」


「ああ! 影喰らいが湧いていた西の鉱山、あの地下の古代遺跡からだ! あの化け物が、まっすぐこのアークライトに向かってきてるぞ!」


 グレゴールという目の前の問題は解決した。 だが、休む間もなく、街全体が次なる絶望に直面する。


 ゼフィルさんが、西の窓に歩み寄り、震える声で呟いた。


「……山のような巨人だと? まさか……『世界の理(ことわり)』が、我々という『異物』を排除するために、本格的な『自浄作用(粛清)』を開始したというのか……!?」

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