第2話、薊
「ここだ。座れ」
男がカウンターを指した。そういえば、喫茶と書いてあったなと思い出す。それでも座るところは五席ほどしかなかった。
結局、一番奥の席に座った。腰かけると、思わずため息がもれる。私、どうなってるんだろ……。体は確かにあるのに、どことも繋がっていないような感覚だった。
カウンターのなかにはかまどがあって、男は小さな釜でお湯を沸かし始めた。ゆらめく火を見ていると、目からも暖かくなるようだ。
「まず、白湯を飲んで体を温めろ」
「あ、ありがとうございます。あなたは……?」
「俺は
どういう意味だろう。鏡に名前を教えるような馬鹿だと言われた気がする。
「
「えっ」
「冗談だ、半分くらいはな。……そら、さっさと飲め。白湯を飲むとおまえの心が形になる」
出てきたのは、湯気の立つ白湯だった。手に収まるほどの湯呑みは、透かし模様のある白い磁器だ。持ってみるとほんのり温かく、じわじわと手に温度が沁みてくる。優しい温かさに、どうしてか、ほっとした。
「おい、早くそいつを斬らせろよ」
「
なんだかヘンな感じがする。背骨の上、心臓の裏側あたりが急に熱を帯び、じんわりと熱くなっていった。やがてその熱が凝縮し、肌の下から滲み出るように、外に抜けていく。
「動くなよ」
カウンターの向こう、目の前で
「ひゃっ……!?」
シュッと頭の上で空気を切った音だけが残った。
「え……?」
痛みはない。恐る恐る目を開けると、
「ふん。まあ、こんなものか。これはおまえの悩み……心の澱みだな」
どういうことだろう。ここ……普通の店じゃない?
「こいつ、見えるのか?」
「見えてなければ、ここには入るまいよ」
混乱していると、赤橙色の刃物が口を出した。刃物が……喋ってる!?
「鏡だって喋るんだ、オレが喋ったっていいだろ」
カウンターのむこうで
「まだ『心』が残っていてよかったな、これなら戻れそうだ」
葉と茎をザクザクと
「お茶を淹れる。飲んだら、少しは思い出せるだろ」
「え、あ……その、それはどういう……?」
「この火は現世のものだから、飲んでも大丈夫だぞ」
「しばらく待つといい」
そう言って
「おまえ自身が薄いから、こんなもんだろ。とりあえず、飲め」
器に触れると、ざらりと肌に吸いついた。少しを口にして、私は思わず口を曲げる。
「味がない……」
「そうか。もっと飲め」
仕方なく二口目を飲もうとした時、今まで感じたことのない香りが鼻をくすぐった。濃い紅茶のような、渋みと苦味がある香りだ。そのまま口に運び込む。苦味が喉に落ちると、ほぅ……と息がもれた。胸の奥がすうっと静まりかえる。苦いのに後味は澄み渡っていた。心のざわめきが遠のいていく。
「あ……」
肩の力がすっと抜けていき、目の奥がゆるむ。泣いてしまいそうになり、私はむりに口端をあげた。
「美味しい……かも」
「それはよかった」
三口目、柔らかな香りが広がった。清らかな花をイメージさせる。口に含むと、さっきの苦さをあまり感じなかった。そのかわり、香りとともにほのかな甘さが口の中を満たす。その甘さをよく味わって飲み込めば、豊かな土のような香りが残った。嫌な匂いではなく、ほっと落ち着く香りが鼻を抜けていく。地にようやく足がついたような、安心の味だ。
「ふう……」
心のざわつきをなだめるように、心臓がゆっくりと動いているのを感じる。今は、ちゃんと肺の底から息がはけた気がした。息を最後まで吐くと、今度は吸うのと一緒に優しい香りが入ってくる。胸の奥の硬かった部分がほぐれていくようだ。
「美味しい」
カップに残るぬくもりを余さず手で受け取る。残ったぬるいお茶が喉に落ちていく。
「全部飲み込めたな、なら大丈夫だ」
「……私」
最後の温かさが腹に落ちた瞬間、私は自分が何者かを思い出していた。
そうだ、私は。
「私の名前は……」
やっと思い出せた! どっと安堵が胸に広がり、目の前の男にそれを伝えようとした。しかし
「いいのか? ここでそれを言ってしまって」
くっくっと
残ったお茶の温かさがするっと逃げていくようだった。――あの熱は嘘だったんじゃないか。
「え?」
「ここは化け狐の店だ。そんなところで不用意に名乗ってしまっていいのかなあ?」
胸がぐしゃりと潰された気がして、呼吸を忘れた。震える足が勝手に動いて逃げようとする。思考が追いつかないまま、体だけが恐怖にとらわれている。喉から漏れたのは、内臓を引き絞ったような音だけだった。
狐の影が壁一面に広がり、私を飲み込もうとしている!
「ひ……っ!」
「あの鏡に聞かれたくなければ、言わないほうがいい」
赤紫の目がすっと細められる。その言葉は聞こえていなかった。私は思わず立ち上がり、転がるように店を飛び出していた。
その背中に
「……名も姿もなくせば、そのうち心も失ってしまう。さて」
その言葉だけが、夜の空気にかすれて消えていった。
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