第2話、薊

「ここだ。座れ」


 男がカウンターを指した。そういえば、喫茶と書いてあったなと思い出す。それでも座るところは五席ほどしかなかった。


 結局、一番奥の席に座った。腰かけると、思わずため息がもれる。私、どうなってるんだろ……。体は確かにあるのに、どことも繋がっていないような感覚だった。


 カウンターのなかにはかまどがあって、男は小さな釜でお湯を沸かし始めた。ゆらめく火を見ていると、目からも暖かくなるようだ。


「まず、白湯を飲んで体を温めろ」

「あ、ありがとうございます。あなたは……?」

「俺はあざみ。もちろん、本当の名前を教えるような馬鹿じゃない」


 どういう意味だろう。鏡に名前を教えるような馬鹿だと言われた気がする。


いみなを聞いてくれるなよ、とって喰っちまうぞ」

「えっ」

「冗談だ、半分くらいはな。……そら、さっさと飲め。白湯を飲むとおまえの心が形になる」


 出てきたのは、湯気の立つ白湯だった。手に収まるほどの湯呑みは、透かし模様のある白い磁器だ。持ってみるとほんのり温かく、じわじわと手に温度が沁みてくる。優しい温かさに、どうしてか、ほっとした。


「おい、早くそいつを斬らせろよ」

赤華あかばな、うるさい。……今、やる」


 なんだかヘンな感じがする。背骨の上、心臓の裏側あたりが急に熱を帯び、じんわりと熱くなっていった。やがてその熱が凝縮し、肌の下から滲み出るように、外に抜けていく。


「動くなよ」


 カウンターの向こう、目の前であざみが刃物を持っている。刀身は私に狙いを定めていた。薊の手が伸ばされる。こわばった体はひくりとしただけだった。心臓が打ち損ねたように跳ねる。声を出したいのに喉の奥が渇いて音が出ない! 言葉にならない形に口が動こうとしたとき、その刃物が振りかざされ、私は思わず目をつぶってしまう。


「ひゃっ……!?」


 シュッと頭の上で空気を切った音だけが残った。




「え……?」


 痛みはない。恐る恐る目を開けると、あざみは一本の植物を手にしていた。薄くもやがかかっているような、ぼんやりとした白い花と葉が、うなだれるように垂れ下がっていた。切られた茎の断面からは、ポツリポツリと涙のように雫が落ちる。その薄気味悪さとは真逆に、私の肩はすっきり軽くなったような気がする。


 あざみ赤華丸せっかまると銘のある刃物をおろし、言った。


「ふん。まあ、こんなものか。これはおまえの悩み……心の澱みだな」


 どういうことだろう。ここ……普通の店じゃない? 


「こいつ、見えるのか?」

「見えてなければ、ここには入るまいよ」


 混乱していると、赤橙色の刃物が口を出した。刃物が……喋ってる!? 


「鏡だって喋るんだ、オレが喋ったっていいだろ」


 あざみ赤華丸せっかまるを脇に置くと、その刃物はつんとして答える。よけいにわからない。なんだかマジックを見せられている気分だ。それとも狐や狸に化かされているのか。ひょっとして、あの鏡のことも――。


 カウンターのむこうであざみは、植物から葉をむしり、花を摘みとっていた。それを水でよく洗う。水道ではなく、水瓶から水を汲んでいた。洗った葉の水気を切り、布巾ふきんで拭き取る。すると葉がツヤツヤとした緑に変わった。花の色も、鮮やかな白色でみずみずしさにあふれている。それは自分にないはずの、きれいな色だった。


「まだ『心』が残っていてよかったな、これなら戻れそうだ」


 葉と茎をザクザクと赤華丸せっかまるで細かく刻んだ。その手つきは驚くほど滑らかで、まるで手のひらのなかで操っているかのように見える。刃物を扱う動作も一切無駄がなく、鋭さと柔らかさが同居していた。その手に見とれていると、あざみは粗雑に言い放った。


「お茶を淹れる。飲んだら、少しは思い出せるだろ」

「え、あ……その、それはどういう……?」




 あざみは土の色をした陶器の急須に葉を入れる。白い花も一緒にだ。それから沸かしたお湯をひしゃくにとった。急須に注いで、蓋をする。カタンと硬い音が鳴った。


「この火は現世のものだから、飲んでも大丈夫だぞ」


 赤華あかばなが安心させるように言う。いったい、何が大丈夫なんだろうと思ったが、聞けなかった。


「しばらく待つといい」


 そう言ってあざみはカップの並ぶ棚を見ている。私もつられて周りを見てみた。壁には全面に棚があり、ガラス瓶や陶器の壺が並んでいた。それぞれにラベルが貼られている。中身は……乾燥させた植物だろうか。漢方で使われるタンスのようなものもある。横には山茶花さざんかの花が生けられていた。それを綺麗だと思う余裕はなかったけれど。


 あざみは急須と同じ色味のコップを出してくる。釉薬うわぐすりもかけていない、土の色そのままの陶器だ。急須を傾け、そのコップにお茶を注ぐ。ほとんど透明に近い色をしたお茶だ。ふわりと青みのある甘い香りがたちのぼる。


「おまえ自身が薄いから、こんなもんだろ。とりあえず、飲め」


 器に触れると、ざらりと肌に吸いついた。少しを口にして、私は思わず口を曲げる。


「味がない……」

「そうか。もっと飲め」


 仕方なく二口目を飲もうとした時、今まで感じたことのない香りが鼻をくすぐった。濃い紅茶のような、渋みと苦味がある香りだ。そのまま口に運び込む。苦味が喉に落ちると、ほぅ……と息がもれた。胸の奥がすうっと静まりかえる。苦いのに後味は澄み渡っていた。心のざわめきが遠のいていく。


「あ……」


 肩の力がすっと抜けていき、目の奥がゆるむ。泣いてしまいそうになり、私はむりに口端をあげた。


「美味しい……かも」

「それはよかった」


 三口目、柔らかな香りが広がった。清らかな花をイメージさせる。口に含むと、さっきの苦さをあまり感じなかった。そのかわり、香りとともにほのかな甘さが口の中を満たす。その甘さをよく味わって飲み込めば、豊かな土のような香りが残った。嫌な匂いではなく、ほっと落ち着く香りが鼻を抜けていく。地にようやく足がついたような、安心の味だ。


「ふう……」


 心のざわつきをなだめるように、心臓がゆっくりと動いているのを感じる。今は、ちゃんと肺の底から息がはけた気がした。息を最後まで吐くと、今度は吸うのと一緒に優しい香りが入ってくる。胸の奥の硬かった部分がほぐれていくようだ。


「美味しい」


 カップに残るぬくもりを余さず手で受け取る。残ったぬるいお茶が喉に落ちていく。


「全部飲み込めたな、なら大丈夫だ」

「……私」


 最後の温かさが腹に落ちた瞬間、私は自分が何者かを思い出していた。




 そうだ、私は。坂井さかい弥尋みひろという名とともに、それに紐づけられた記憶が戻ってくる。


「私の名前は……」


 やっと思い出せた! どっと安堵が胸に広がり、目の前の男にそれを伝えようとした。しかしあざみは唇を歪めただけだった。それどころか意地悪そうににやにやとして、私の顔を見つめている。ぺろりと赤い舌を見せ、こう問いかける。


「いいのか? ここでそれを言ってしまって」


 くっくっとあざみが笑った。薄暗いなかに、その目だけが明明と灯っている。いまさらながら、その目が恐ろしいと思えた。助けてくれた優しい人ではない、人ですらないナニカ。ぞわっと怖気が背筋を這いのぼる。彼の影が、灯りに揺らいだ。


 残ったお茶の温かさがするっと逃げていくようだった。――あの熱は嘘だったんじゃないか。


「え?」

「ここは化け狐の店だ。そんなところで不用意に名乗ってしまっていいのかなあ?」


 あざみの口がカパッと開き、赤い肉の色がのぞく。薄明かりに、壁にうつる影がぐにゃりと形を変えた。ぞわぞわと寒気が肌を刺す。ひゅっと息が詰まる。その影には大きな耳があり、尾があり……どう見ても人ではない、化け物の姿をしていた。


 胸がぐしゃりと潰された気がして、呼吸を忘れた。震える足が勝手に動いて逃げようとする。思考が追いつかないまま、体だけが恐怖にとらわれている。喉から漏れたのは、内臓を引き絞ったような音だけだった。


 狐の影が壁一面に広がり、私を飲み込もうとしている!


「ひ……っ!」

「あの鏡に聞かれたくなければ、言わないほうがいい」


 赤紫の目がすっと細められる。その言葉は聞こえていなかった。私は思わず立ち上がり、転がるように店を飛び出していた。




 その背中にあざみの声を聞いた気がする。


「……名も姿もなくせば、そのうち心も失ってしまう。さて」


 その言葉だけが、夜の空気にかすれて消えていった。

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