第3話 決断の時
「もうママなんか大嫌いだ!」
その言葉は、リビングの空気を一瞬で凍りつかせた。
幸太郎はランドセルを床に叩きつけると、涙をこらえながら母を睨みつける。
夕方の光の中、彼の瞳には憎しみのような色が浮かんでいた。
「…どうしたの、幸太郎」
美優は震える声で問いかけた。
「どうしたもこうしたもないよ!ママなんか、僕のこと嫌いなくせに!」
美優は言葉を失った。
その言い回しは、まるで誰かが吹き込んだような響きだった。
優しく、正直なはずの息子の口からそんな言葉が出るとは思わなかった。
「そんなこと、言わないで。ママは——」
「うるさい!」幸太郎が叫ぶ。
「パパだって言ってた!ママは僕のこと甘やかしてるだけだって!
ほんとは僕のこと、ちゃんと見てないって!」
その瞬間、美優の胸の奥に鋭い痛みが走る。
——蓮が、そんなことを。
信じていた夫の何気ない言葉が、息子の中で刃に変わっている。
幸太郎は続けざまに言葉を投げつける。
「パパの方が優しいし、ちゃんとしてる!ママなんかキライ!いらない!」
その叫びに、美優はもう涙をこらえきれなかった。
「幸太郎…ママはね、あなたのことをずっと——」
「うるさいって言ってるだろ!」
小さな体が震え、拳を握りしめて母を睨む。
その表情には、6歳の子どもが持つはずのない怒りと恐怖が混ざっていた。
——誰が、こんなふうに変えてしまったのだろう。
美優の中に、ミサの顔が浮かぶ。
あの女が、息子の心を少しずつ歪めていったのだ。
そう確信しても、証拠は何もない。蓮に訴えても、彼はきっと笑って流すだろう。
夕食の時間になっても、幸太郎は口をきかない。
テレビを見ながら不満げにため息をつき、箸を投げるようにして食事を終える。
「ママの作るごはん、まずい。ミサお姉ちゃんの方が上手だよ」
その名前が出た瞬間、美優の手が止まった。
——やはり。
「ミサお姉ちゃんって、誰?」
「パパの友達。僕、この前一緒に遊んだよ。ママの悪口、いっぱい言ってた」
「どんなことを?」
「ママは怒ってばっかりで、僕のことかわいくないって。
パパがかわいそうだって」
その言葉に、美優は完全に打ちのめされた。
血の気が引き、視界がかすむ。
蓮は仕事だと言っていたその日、ミサと幸太郎を会わせていたのだ。
夜、蓮が帰宅すると、美優は静かに立ち上がった。
「ねえ、話があるの」
「どうした?」
「幸太郎が…“ミサお姉ちゃん”って言ってた。あなた、息子を会わせたの?」
蓮は一瞬だけ目を逸らした。その沈黙が、すべての答えだった。
「違う、たまたまだ。俺が悪いわけじゃ——」
「黙って!」
美優の叫びは、いつになく鋭く響いた。
「あなた、自分の欲のために、息子を利用したの?私を壊すために?」
蓮は反射的に声を荒げる。
「お前だって完璧じゃないだろ!俺ばかり責めるな!」
「私は、家族を守りたかっただけ!」
「守る?笑わせるなよ。お前のその“正しさ”が、俺を息苦しくさせたんだ!」
その夜、二人の声が静まり返ったリビングに響き続けた。
幸太郎は隣の部屋で怯えたように布団を被り、目を閉じた。
翌朝。
美優は冷めたコーヒーを前に、ぼんやりと外を見つめていた。
小鳥の鳴き声が遠くで聞こえる。
幸太郎は食卓につかず、リビングの隅でふてくされた顔をしている。
もう、母の呼びかけにも返事をしない。
——このままでは、壊れる。
自分も、息子も。
昼過ぎ、美優は静かに書類を取り出した。
白い紙に印刷された文字。
「離婚届」
手が震える。だが、その震えの中には、確かな覚悟もあった。
愛していた。
裏切られた。
でも、これ以上、自分を踏みにじらせるわけにはいかない。
玄関で蓮を迎えるとき、美優の顔には、涙の跡があった。
「…蓮、これ、出しておいた」
「何だよ、いきなり——」
「離婚届。もう無理なの。私、もうあなたは…信じられない」
蓮は驚きと怒りの入り混じった表情で美優を睨む。
「ふざけるなよ!幸太郎はどうするんだ!」
「あなたが連れていっていいわ」
その言葉に、蓮は一瞬息を呑んだ。
「私が一緒にいても、あの子は私を憎むだけ。
あなたが望むなら、あなたと暮らせばいい。ミサって女と一緒になればいい!」
そう言い残し、美優はリビングを出て、玄関の扉を開けた。
外は雨だった。
細い雨粒が頬を濡らす。
だがその冷たさは、不思議と心を少しだけ軽くした。
——愛していた。けれど、もう終わりにしよう。
誰かのせいではなく、自分の未来のために。
その夜、蓮は書類を見つめたまま動けなかった。
幸太郎は母の姿のない寝室で、泣き疲れて眠っていた。
そして翌朝、家には二人分の食器だけが並んでいた。
蓮と幸太郎の、静かな朝食。
美優の姿は、もうそこにはなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます