第2話 特別留年
その日から、ツバサの生活はさらに過酷を極めた。
印ひとつ結べなかった少年が、
よりによって禁忌の術を暴発させたのだ。
「呪印が目を覚ました」
「英雄の子は呪われていたんだ」
「やっぱりあいつが里の災いを呼んだ」
そんな声が、灰隠の通りに満ちていた。
ツバサが通りを歩けば、人々は遠巻きに避け、
子どもたちは石を投げた。
「触ると呪われるぞ!」
「無印のくせに“禁印”持ってるなんて気味悪ぃ」
笑いと恐怖が混ざった声が、背中を刺した。
ツバサは何も言い返せなかった。
怒りも悲しみも、もう通り過ぎて、
ただ、空っぽだった。
アカデミーにも居場所はなかった。
卒業試験の記録にはこう刻まれた。
【受験者ツバサ:試験中に印暴発。結果、落第。危険指定。】
教官たちは口を揃えて言った。
「印術を制御できない者は、印術師ではない」
それがこの里の絶対の掟だった。
ハガネ先生だけが、ツバサの部屋に通った。
けれど、扉の向こうから返事はなかった。
部屋の中、ツバサはひとり膝を抱えていた。
右の瞳だけが、まだ淡く赤く光っていた。
その色を見るたびに、心臓が焼けるように痛む。
「俺は……呪いなんかじゃねぇ……」
絞り出すような声は、誰にも届かない。
だが、胸の奥で、確かに何かが脈打っていた。
まるで――彼自身が、焔印に問われているように。
『ツバサ、お前は“選ばれた”のか、それとも“抗う者”なのか』
その問いの答えを、
ツバサはまだ知らなかった。
「ツバサ、いい加減出てこんか!」
怒鳴り声が、狭い家の中に響いた。
しかし中からは、物音ひとつもしない。
外はもう夕暮れ、灰色の風が吹いていた。
あの日の暴発から、ツバサは家に閉じこもったままだった。
「おい……ツバサ……」
ハガネは戸を軽く叩く。
返事はない。
しばらくの沈黙のあと、
「こうなったら強引にこじ開けるぞ! 印を使うぞ!」
とわざと大声で言ってみる。
すると――
キィ……と小さな音を立てて、扉がゆっくり開いた。
「……先生」
姿を現したツバサの顔は、やつれていた。
髪は乱れ、目の下には深い影。
それでも右目の焔色だけが、かすかに灯っていた。
「ツバサ……心配したんだぞ」
ハガネの声は怒りよりも、安堵に近かった。
けれどツバサは目を合わせようともしない。
「……ごめん」
それだけを絞り出すように言った。
いつもの強がりも、皮肉もなかった。
まるで心の火が消えかけているようだった。
ハガネは少し黙り、
深く息を吐いてから言った。
「……飯、食いに行くぞ」
「……え?」
「いいから来い。人間、腹が減ってる時はロクな考え方しねぇ」
「今夜くらい、印も試験も忘れろ」
ツバサはしばらく俯いたままだったが、
やがて小さくうなずいた。
「……分かった」
靴を履き、外に出る。
灰隠の里はいつも通り、
夕暮れの風と人々の声が混ざっていた。
だがそのすべてが、どこか遠く感じた。
ハガネはツバサの背を軽く叩いた。
「お前はまだ終わっちゃいねぇ。
“印”が暴れたくらいで、人生まで壊れるもんか」
ツバサは顔を上げず、ただ前を見た。
けれどその目の奥で、
焔のような光がほんの少しだけ――戻っていた
灰隠の夕暮れ。
赤提灯が揺れる小さな屋台通り。
その一角に、古びた暖簾を掲げたラーメン屋があった。
「旦那、チャーシューメン二丁!」
暖簾をくぐるなり、ハガネが威勢よく声を張る。
「おう、ハガネ先生。いつもありがとうねぇ!」
厨房の奥から、店主の丸い顔が笑顔を見せる。
「ここのラーメンより美味しいところ、俺は知らないからな」
「嬉しいこと言ってくれるじゃないか。先生、またツケとくかい?」
「バカ言え、今日はちゃんと払うよ。弟子の前で恥かかせんな」
店主が豪快に笑い、湯切りの音が響いた。
ほどなくして、香ばしい匂いが立ちこめる。
「はい、お待ち! チャーシューメン二丁!」
湯気の向こうに現れたのは、澄んだ琥珀色のスープ。
分厚いチャーシューが器いっぱいに並び、湯気がほのかに甘い。
「うわ……いい匂い……」
ツバサが思わずつぶやく。
「だろ? 世の中、嫌なことばっかでもな……
飯の湯気だけは、どんな時でも人を救ってくれる」
ハガネは湯気を吸い込みながら、ゆっくりと箸を割った。
ツバサもおそるおそる箸を手に取る。
一口。
熱いスープが舌を打ち、体の奥まで染み渡る。
「……あちっ!」
ツバサが思わず顔をしかめると、
ハガネが声を出して笑った。
「ははっ、お前、前も同じこと言ってたな」
「うるせぇ……熱いもんは熱いんだよ」
(……湯気って、泣き顔ごまかせるんだな)
ツバサはぶっきらぼうに言いながらも、
ほんの少しだけ口元がゆるんでいた。
ハガネはそんな彼を見て、湯気の向こうで静かに笑った。
この子がもう一度前を向けるなら――
焔でも呪いでも構わねぇ。
湯気がゆるやかに立ちのぼる中、
ハガネはどこか遠くを見ていた。
器の中のスープが、ゆらりと揺れる。
――本当は言いたくなかった。
だが、もう目をそらすわけにはいかない。
「ツバサ」
その声に、ツバサは顔を上げた。
ハガネの表情は、いつものような穏やかさではなかった。
「お前の力はな……“禁忌の術”なんだ」
ツバサの箸が止まった。
店の喧騒が、遠くにかすんでいく。
「……禁忌?」
「そうだ。十年前――封印戦争の原因になった力。
“根印(こんいん)”と呼ばれる九つの印の一つ。
お前の中にある〈焔印(ほのおのしるし)〉は……
その、世界を焼き尽くしかけた“焔”そのものだ」
ツバサは椅子をきしませ、顔を歪めた。
「なんで……なんで俺にそんな力があるんだよ!
俺はただ……印を使えるようになりたかっただけなのに!」
声が震えていた。
怒りか、悲しみか、自分でもわからない。
ただ、胸の奥が焼けるように熱い。
ハガネは静かにスープをすする。
その手が、わずかに震えていた。
「……それは、まだ“知るところ”じゃない」
ツバサが息を呑む。
「なにそれ、どういう意味だよ……!」
「だがな、ツバサ――」
ハガネはツバサの目をまっすぐに見た。
右の焔色の瞳が、湯気の向こうでゆらめく。
「その力を恐れるな。
あれは呪いでも、罰でもない。
お前がどう生きるかで、印の意味は変わる」
ツバサは拳を握りしめた。
震える唇から、かすれた声が漏れる。
「……そんなの、信じられねぇよ」
ハガネは笑わなかった。
ただ、目の奥に“信じてる”という光だけを残して言った。
「なら、自分で確かめろ。
――お前の焔が、何を照らすのかを」
その言葉が、
ツバサの胸の奥に、ゆっくりと沈んでいった。
「ツバサ、もう一年やってみよう」
ハガネの低い声が、静かに響いた。
壁にかかった時計の音がやけにうるさい。
「……は? 無印の俺がか?」
ツバサは思わず笑い飛ばそうとした。
だが、その笑いはすぐに喉の奥で消えた。
ハガネは真剣な目でツバサの肩を掴む。
ごつごつとした掌の重みが、まっすぐに伝わってきた。
「この一年で――〈焔印〉を使えるようにしろ」
「それが卒業の条件だ。無理だと思う前に、やってみろ」
その言葉に、ツバサは息を呑んだ。
ハガネの顔には、怒りも、哀れみもない。
ただ、“信じる”という一点だけが宿っていた。
「……本気で言ってんのかよ」
「ああ。お前が諦めるより、俺が信じてる方が気持ちいいからな」
ツバサは目を逸らし、
それでも小さく頷いた。
⸻
翌朝。
ツバサは印術アカデミーの古びた教室へと足を踏み入れた。
いつもの扉――ではない。
新しい生徒たちが使う正面の入口を避け、
いちばん後ろの、古い木の扉を開ける。
ギィ……という軋んだ音が、
教室のざわめきを一瞬止めた。
十数人の新入生が一斉にこちらを向く。
彼らの視線が突き刺さる。
「見て……呪印の人がいる」
「ほんとに特別留年で残るんだって」
「マジ怖いんだけど……」
ひそひそとした声が飛び交う。
ツバサは、何も言わずに歩いた。
後ろの扉から、一番後ろの席へ。
椅子を引く音だけが、静まり返った空気を裂く。
机の上には、以前のままの焦げ跡が残っていた。
あの日、暴発した焔の痕。
ツバサはその跡にそっと指を当てた。
熱はもうない。
けれど、指先がわずかに震える。
(……まだ、燃えてる)
そう思った瞬間、
右目の奥がかすかに熱を帯びた。
見えない焔が、心の底で揺れていた。
口角だけ引きつった笑顔で、
「ひつぎツバサです! よろしくお願いしまーす!」
教室の空気が、ピンと張り詰めた。
明るく響いたその声のあとに、すぐに小さなざわめきが続く。
ひそひそとした声が波のように広がっていく。
ツバサは立ったまま、わずかに拳を握った。
笑ってみせようとしたけれど、喉の奥が妙に重い。
そのとき――
ガラガラッ、と後ろの扉が勢いよく開いた。
教室の視線が一斉にそちらへ向く。
「今年度の担任の、こうまハガネだ。よろしく」
低く落ち着いた声。
灰色の髪に刻まれた傷、片腕の袖が空を切るように揺れる。
教壇に立つだけで、空気が変わった。
「君たちには印術を覚えて、卒業して、立派な印術師になってもらいたい」
静かな声だが、胸に響く重みがあった。
ツバサは机の上で手を握りしめる。
その言葉が、まるで自分だけに向けられたような気がして。
――そこは、影でできていた。
月も届かない裏路地。
灰隠の喧騒から遠く離れた廃れた倉庫の中、
湿った空気と古い鉄の匂いが充満している。
地面には、いくつもの黒い人影がゆらめいていた。
まるで光そのものが拒まれているかのように、
その場だけは、世界から切り離されている。
「おい、焔印のガキがいるらしいぞ」
低い声が響いた。
どこからか聞こえるその声に、他の影がわずかにざわめく。
「どうする、攫うか?」
もうひとつの声が応える。
空気が凍りついた。
影の一つが人の形をとり、月のない天井を見上げる。
その目は光を持たない。
だが確かに“何かを見ている”。
「……あの印が本物なら、“王”の封印も近い」
その囁きに、
周囲の影たちがゆっくりと頭を垂れる。
「〈焔印〉を持つ子を探せ。
――“
倉庫の灯がひとつ、パチンと消えた。
残ったのは、闇だけだった。
「よし、教科書開けー! まずは基礎からだ!」
ハガネの声が教室に響いた。
ページをめくる音が一斉に広がり、
墨の匂いと古い紙の香りが漂う。
教室では、平穏が続いていた。
窓の外では春の風が砂を巻き上げ、
遠くで子どもたちの笑い声が混じる。
まるで昨日までのことが、何もなかったように。
――けれど、ツバサだけは知っていた。
その「平穏」がどれほど薄い膜で成り立っているかを。
教科書に視線を落としながらも、
彼の右目の奥では、わずかに焔がゆらめいていた。
机の焦げ跡が光を反射して、
まるでそこだけ、時が止まっているようだった
――その焦げ跡から、すべてが始まったことを、誰も知らないまま。
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