第5話 面倒くさい。


 水飛沫が飛んだ。


 バンと壁を叩く。ゴールに手がついたので、俺はようやく動かしていた腕や足を休めた。


 水面から顔を上げると、後輩が俺の頭上から声を掛けてくる。


 「部長、ベストです」


 タイムを読み上げてから、ベストタイムだったと告げる後輩の女子は、タイマーを切ると曇っていた眼鏡をハンカチで拭いた。ブールサイドでは眼鏡は曇ってしまう。


 「練習、付き合ってくれてありがとよ」


 「いえ、私がやりたくてやってるので……。でも、そろそろ上がらないと先生にまた言われますよ」


 「ああ、そうだな」


 俺は後輩に頷き、ブールから上がった。乱暴に水泳帽を脱ぐと、ポタポタと髪から水滴が落ちる。


 「どうぞ」


 「ん、どうも」


 後輩に手渡されたスポーツドリンクを飲む。運動したら水分を摂らないといけないのだとはじめて教えてくれてのは、親でも学校の先生でもなく佑剛くんだったなと何となく思い出す。


 「……」


 佑剛くんの真似をしているに過ぎない自分は、いつの間にかこうやって中学校の水泳部の部長になっていた。俺の通う私立中学も裕福な家庭の人間ばかりが通う学校だが、佑剛くんや俺の兄が通っていた中学とはまた別のところである。本来なら津軽家の次男として兄と同じ道に行かされるはずだった俺だが、俺の本性を知っている家族からは「家族の恥さらし」と思われ、こうやって今までご縁の無かった場所に飛ばされたのである。


 俺は、本当の自分を圧し殺すことで平凡な日々を生きているのだと実感していた。


 痛みが無いから非凡なのではない。


 自分がただそこに興味を抱き、その痛みを他人に求めるから駄目なのだろう。


 衝動が無いわけでなかった。


 痛みへの好奇心は、他人の傷を見たいという思いや、そのときの痛みに歪んだ顔が見たいという思いになっていた。だから、こうやってただマネージャーとしての仕事をこなす後輩も、決して嫌いではないがこの子が怪我をしたらどれだけ痛そうな顔をするのだろうとか、気になるのだ。


 たとえば、今ここで殴ったら痛がるのかなとか考えてしまう。


 「……どうかしました?」


 「……何でもない。帰るぞ、鉄」


 女の子を一人で帰してはいけないと佑剛くんに教わっていた俺は、すっかり暗くなった帰り道を、後輩の鉄と一緒に歩いた。


 鉄はあまり他人と話すことは見たことがないが、俺にはよく声を掛けてくる。恐らくだが、俺のことを好意的に思っているのだろう。


 そのことを、俺は嬉しいとは思わなかった。結局、彼女の前にいる自分は善方佑剛に似せただけの人間だ。周りに好かれる人間の真似をしているのだから、ある程度俺に好意を持つ人間が出てきても不思議ではない。


 「部長はいつも残って自主練してますよね」


 「まあな。どうしても勝ちたい人がいるから手は抜けねぇよ」


 「なるほど……」


 というのは、嘘だ。


 嘘、というよりは佑剛くんに似せるために佑剛くんの言いそうなことを言っているだけだった。佑剛くんは、やることに対して決して手は抜かないし、負けず嫌いだった。


 「……部長、最近考え事多いですね。大丈夫ですか?」


 「あー……悪い。俺ももう3年生だから、進路とか色々考えていてな」


 「部長は将来やりたいこととかあるんですか?」


 鉄は、俺の方を見上げながら少し目を細め、頬を染めた。彼女は俺と目が合うとよく頬を赤くするのだ。これほどわかりやすい人間もいるのだと、はじめて会ったときは感心してしまうほどだった。


 「そうだな……」


 さて、佑剛くんなら何て答えるのだろう。


 「……?」


 わからなかった。


 佑剛くんが、何て答えるのかわからなかった。


 佑剛くんの父親も医者だ。その界隈では有名な医者だし、その子どもなら憧れてもおかしくはない。


 でも、絶対に佑剛くんは父親に憧れてなどいない。それは断言できた。彼が実父を見る目は恐怖に揺れていたし、話しているときの作り笑いはあまりに下手くそだった。もちろん、彼は体裁を気にして小学生までは「父のような立派な医者になりたい」と語っていたのは覚えている。それを言えば周りの大人は喜ぶし、父親も満足するからだ。


 だが、彼は中学に上がるとどこか変わった。外では気さくな感じだが、俺と家で話していてもどこか上の空で、何を考えているのかわからなくなった。


 だから、俺は困っていたのだ。


 模倣すべき人間が、理解できなくなってしまった。


 「部長?」


 「ああ、悪い。……まだ、やりたいこととかないんだ」


 適当なことを返して、俺は何だか胸に違和感を覚える。


 多分、これは不安なのだろう。


 自分の成すべき姿が見えなくなってしまったことへの不安。


 「意外です。部長は、とっくに将来の夢とかあるのかと思っていました」


 「俺だって、お前と変わらない普通の中学生だぞ? 悩むことくらいあるさ」


 「そうなんですね」


 鉄が、赤くなった顔を反らす。


 その顔を無性に、殴りたかった。


 人を殴ってみたいな、と本当に前触れもなく思った。


 でも、もちろん俺の手は動かない。


 「送っていただきありがとうございました」


 「ああ、また明日」


 「はい」


 俺を慕う女は、まさか俺が殴ろうと考えていたなどと気づきもせずに背を向ける。


 俺は、拳を握って彼女の背中を見送っていた。



 やるべきことが途端にわからなくなった。


 こういうときにどうしたらいいのだろう、といつも佑剛くんの行動を思いだし、或いは予測して行動していたのに、それがどんどん出来なくなった。


 「いいことだろ。それがお前らしさなんじゃねぇの?」


 他人事のように佑剛くんは笑う。それもそのはずだ。佑剛くんにとっては他人事なのだ。


 俺は、しょっちゅう佑剛くんの家に遊びに来ていた。それは、家の人にギリギリまで帰ってくるなと言われていることと、佑剛くんは必ず招き入れてくれるからという理由だった。この日も、鉄と別れた後は何も考えずに善方の豪邸に足を運んだ。使用人も佑剛くんも、笑顔で招き入れてくれた。


 「で、本当に進路はどうするんだ? 高校はもちろん行くだろ? 同じところ来るか? 俺は来てほしいなぁ」


 「それはどうだろうね。俺が決めることじゃないかも」


 「お父さんが決めることか?」


 「多分そうでしょ」


 佑剛くんは、何故か親に薦められていた学校とは違う高校に進級した。それは、誰もが驚いたが、大人たちは仕方ないのかとすぐに納得していた。


 佑剛くんの両親は、2年前に失踪した。彼らは前触れなく姿を消し、未だに帰ってこない。当時中学2年生だった佑剛くんは、頼るべき両親の失踪に大分疲れきっていた。俺はそれを遠目で眺めていた。


 でも。


 その困り果てる佑剛くんを見て、羨ましいと思ったのかもしれない。


 「本当は、叔父さんのこと嫌いだった?」


 俺が突然彼の親の話題を出したから、佑剛くんは目を丸くした。


 「……嫌い、とは違うんだ。難しいけれど、でも、確かに嫌いではない」


 「俺は、佑剛くんが叔父さんと叔母さんを殺したのかと思ってた」


 「人は、そう簡単には殺せないんだよ」


 佑剛くんは、そう言って変な顔をして笑う。それは多分、悲しそうな顔だった。


 「殺されるときって、痛いのかな」


 「多分、痛いだろうよ。大抵の人は、少し怪我しただけでも痛いからな」


 「……」


 俺は、佑剛くんの言葉が何だか日本語ではないような気がしてきた。


 理解できなかった。


 いや、言葉は理解できる。


 大抵の人は、怪我をしたら痛いのだ。


 そんなこと、知識として知っていた。


 なのに、知っているのに知らないことが気味悪いのだ。


 「快輝、お前はもう俺の真似なんてしない方がいい」


 佑剛くんは、青白い手を俺の頭に乗せる。そして、それを左右に動かした。それは、撫でるという行為だ。佑剛くんは俺をよく撫でた。子どもをあやすように。


 「じゃあ俺はどうやって生きていけばいい?」


 「それはお前が決めることだ。本当は、全部お前が決めていいんだ。今何をするのかだって、将来どうやって生きるのかだって、決めていいんだぞ」


 「……」


 それは多分、優しさだった。


 そして、きっと佑剛くんがずっとそう在りたいと望んでいたことだった。


 「わかった」


 俺は、わかったフリをして佑剛くんの手を振り払った。



 そんなことを言ったって、どうしたらいいのかわからなかった。


 次第に、全てのことがわからなくなった。


 そして、面倒くさくなった。


 人に合わせることが、面倒くさくなった。


 だから、言われた通り自分に戻ろうと思った。


 自分に戻った途端、世界は呆気なく変わっていった――。

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