第3話 復讐の始まり

人は、何をきっかけに壊れるのだろう。

怒りか、悲しみか。それとも、愛の喪失か。

僕の場合は、そのすべてだった。


理沙が嘘をついていると確信した夜から、僕の中の何かは静かに死んでいた。

朝、彼女が微笑んでも、それはただの仮面にしか見えなかった。

あの日、上村の車が僕らの家の前に停まった瞬間。

僕の人生は、別の方向へ進み始めたのだ。


月曜の朝、会社のエントランスで上村とすれ違った。

いつも通りの笑顔。

だが、その口元のわずかな歪みが、僕にははっきりと見えた。

「おはよう、栗田くん。週末はゆっくりできたか?」

その問いに、僕は穏やかな声で答えた。

「はい。おかげさまで」

表面上の礼節を守りながら、内心では拳を握りしめていた。

この男の声も、笑顔も、もはや吐き気がするほど嫌悪していた。


昼休み。会議室の隅。

僕と菜月は、カーテンを閉めて向かい合っていた。

「・・・本気なんですか?」

菜月の声はかすかに震えていた。

「復讐なんて、そんなこと――」

「彼を野放しにしておけない」

僕は低く言った。

「妻を壊したのは、あいつだ。理沙は……もう、戻れないかもしれない」

菜月は沈黙した。やがて、まっすぐ僕を見つめて言った。

「じゃあ、手伝います。やるからには、徹底的に」


彼女の瞳には怯えよりも、決意があった。

その瞬間、僕は初めてほんの少しだけ救われた気がした。

孤独ではない。誰かが、この闇の中で手を差し伸べてくれる。


最初の標的は、上村の“評判”だった。

彼は社内でも幹部候補として名前が挙がっている。

だが裏では、部下へのパワハラや不正処理がささやかれていた。

菜月が社内システムから拾い集めた資料には、

経費処理の不審な数字がいくつも並んでいた。


「・・・これ、もし公になったら」

「課長としての信頼は終わる」

僕は静かに答えた。

だがそれだけでは足りない。彼が失ったものと、僕が失ったものは釣り合わない。

理沙を奪い、心を踏みにじった男に、同じ苦しみを味わわせなければならない。


僕は計画を練った。

証拠を揃え、確実に追い詰める。

焦りは禁物だ。感情で動けば、すべてが台無しになる。


夜。帰宅すると理沙はソファに座っていた。

「おかえりなさい」

いつもの声ではない。やや寂しげなその声。


テレビの光に照らされたその横顔が、どこか遠くに見えた。


僕は台所に向かいながら、背中で言葉を交わした。

理沙の声の奥に、僕がかつて愛した優しさはもうなかった。

代わりにあるのは――他人を抱いた人間の心の静かな疲労。

そして僕は、そんな彼女を見ても、もう怒りすら湧かなかった。


数日後、菜月からメールが届いた。

『例の件、上村課長が社外の取引先と怪しい動き。明日、証拠取れそうです』

短い文面の中に、緊迫感が滲んでいた。

僕はその夜、一睡もできなかった。

理沙の寝息が寝室から聞こえてくるたびに、あの男の顔が浮かぶ。

笑いながら理沙に触れる姿が脳裏をよぎる。

 ――許せない。


翌日、菜月からUSBを受け取った。

「経費の裏帳簿と、会食費の不正請求の記録です」

彼女の手は冷たかった。

「・・・こんなもの、どこで手に入れた?」

「社内の共有フォルダ。削除されても復元できますから」

菜月は淡々と言った。

僕は深く息をつき、そのUSBを握りしめた。

これが最初の“武器”だ。

上村の仮面を剥がすための。


夜、オフィスに残り、一人で書類を見つめた。

モニターの光が顔を照らす。

心のどこかで、これが正しいのかと自問した。

復讐は、理沙を救うことになるのか?

いや、もはや理沙のためではない。

これは僕自身の、尊厳を取り戻すための戦いだ。


思考を振り切るように、僕はファイルを開いた。

社内報告書の形式にまとめ、匿名で人事部へ送信する。

送信ボタンを押す指がわずかに震えた。

その一瞬で、取り返しのつかない道に踏み込んだことを理解した。


翌朝、会社はざわついていた。

「上村課長、なんか調査入ってるらしい」

「経費の不正とか、ほんと?」

同僚たちの噂が飛び交う。

上村は平静を装っていたが、目の奥に焦りが滲んでいた。

僕は書類を整理しながら、静かにその様子を見つめていた。

胸の奥で、確かな手応えを感じる。

 ――最初の一撃は、確かに届いた。


昼休み。屋上。

菜月が缶コーヒーを差し出してきた。

「・・・これで、ひとまず」

「ありがとう。君がいなければ、ここまで来られなかった」

僕がそう言うと、菜月は目を伏せて小さく微笑んだ。

「私はただ・・・栗田さんが壊れていくのを見たくないだけです」

その言葉に、一瞬だけ胸が痛んだ。

だが、もう戻れない。


冷たい風が吹き抜けた。

遠くで上村の笑い声が響いた気がした。

僕は缶を握り潰し、空を見上げた。

雲の切れ間に覗く青が、妙に眩しかった。


その夜。


彼女の目が僕を覗き込む。

僕は穏やかな声で答えた。

「そうか?仕事が忙しいだけだ」

「そうなの・・・」

理沙はそう言って、寂しげに微笑んだ。

その笑顔を見て、胸の奥で何かが冷たく固まっていくのを感じた。

この人は、もう僕の妻ではない。

僕が愛した理沙は、どこか遠い場所に行ってしまった。


深夜。

書斎の机に座り、僕は静かにノートを開いた。

「第一段階完了」

その文字を書き記し、ペンを置く。

次は――あの男の心を壊す番だ。


復讐は、まだ始まったばかりだった。

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