虚無に抗う愛の美学 episode2

ひろの

園田美音の場合

沈潜した湖底の汚泥が、キラキラと軽やかな水面の光を見上げている。

光の粒子は強い風に流されて、過ぎ去る。

恐ろしい夜が来る。

ただひとり、どこにも行けない夜が、続いている。



ピッピッピッ──規則的な電子音。カーテンの向こうから聞こえてくる、うめき声。

看護師がてきぱきと話し、反対隣のじいさんが、ぶつくさ文句を言う。

脇に挟んだ体温計がピピッと音を立てる。


「園田さん、体温計もらいまーす」


脇に差し込まれた手がそれを抜き取って、出て行く。


「辛い所はない?大丈夫?」


辛いとこだらけだよ。大丈夫。俺は意に反して笑顔を作り、早くひとりにしてくれと願いを込めて頷いた。


実家が焼けた。ばあちゃんを助けに階段を上がったとき、煙が喉を焼いた。

あの熱と異臭が俺から声を奪い、引き換えに、喉元に「永久気管孔」という穴を貰った。

その穴は、俺の肺に通じて命を繋いでいるが、一緒にえぐられた心を、いつまでもヒリヒリ乾かしてもいた。


ばあちゃんは、隠れて泣いていた。

1階の和室から微かに聞こえてくる嗚咽に、耳を塞ぐ。

自分が死んだほうが良かったと──いちどだけ俺の前で呟いた。

俺はあれから、ばあちゃんの目を見れないでいる。




美音みお。音楽療法士さん、明日来られるから。毎週火曜日よ。忘れないでね」


美音とは──聞いて驚け、俺の名だ。

俺の人生に待ち受けていたことを思えば、皮肉としか言いようがない。

若かりし頃の両親は、まさか息子が喉頭摘出で一切の声を出せなくなるとは、思いもしなかっただろう。

ピアノ教師の母は、俺にも音楽の道を歩ませようとしたが、俺の興味は外へばかり向かい、ついぞ大人しく鍵盤の前に座ってはいなかった。ただ一度遺伝子が働いたのは、高校時代に軽音でバンド活動をしたときくらい。ベースにハマって3年間。だが大学ではかすりもしないゲーム同好会に入り、大して意味もない4年を過ごした。

今年の3月に卒業し、就職先は地元のスーパー。見慣れた風景の見慣れた人たちに囲まれて、そのことに何の不満もなかった。


こんなに唐突に、すべてが変わってしまうなんて。


火事のあと1か月入院し、ようやく退院できたと思ったら、見舞いに来てくれた店長から、「ゆっくり療養して」だの「無理に戻らなくていいから」だの言われて、結果、声だけじゃなく、仕事も失った。




家から、音がぱたりと消えた。


この借家にピアノが置ける場所がなかったこともあるが、まるで「喜び」や「楽しみ」に引け目を感じているみたいに、父も母も祖母もみんな、息をひそめて暮らしている。

食事の時のテレビさえ気兼ねするのを見たくなくて、俺は自然とひとり、部屋に籠るようになった。


その代わりに増えた音と言えば、洗面所で俺が使う吸引器の「ブウゥゥ…ン」というモーター音や、痰を吸いだす音、加湿器の蒸気の気配、まるで自分のものとは思えない、喉元の呼吸音。空々しく響くそれらを、俺ひとりが聞いていた。


ばかばかしい。声を失ったのは俺なのに。

せめて普通に生活してくれ。

そう声に出して、言えない。

人の一日なんて、声を出してない時間の方が絶対多いのに、今の自分は弦の張られていないバイオリンのように役立たずなのだと、たびたび考えてしまう。


そんな俺に、音楽療法。


「音楽は私の血液」が口癖の母は、音に万能の力があると信じて疑わない。

俺は首を振った。何を癒すって言うんだ。俺はこの先ずっと、この体で生きていく。

何をしたって、もう元のようには喋れない。


俺は、机の上に置いたホワイトボードに、「必要ない」と走り書きをした。

それでも母は譲らなかった。


「自分で気づいてないのよ。何もかもを、諦めてしまわないで」


涙をためて言われれば、従わざるを得なかった。


放っておいて欲しい。

俺がこの絶望に慣れるまで。

世界は軽薄に動き続ける。

失い続ける俺を、置き去りにして。




「こんにちは!音楽療法士の嘉島洋平です!」


第一印象は、体育教師。分かってる、こいつは音楽療法士だ。

でも筋肉質な体つきといい、はきはきした物言いといい、ずばり体育会系、イコール、苦手人種。


「じゃあ嘉島さん。よろしくお願いします」


母は、頭を下げて階段を下りていった。

ドアを閉めた嘉島は、肩にかけていた横に長い、黒いバッグを床に置き、ついで背中にしょっていたパンパンのリュックも下ろした。微かに、チリリと金属の擦れあう音がした。


「いい所ですね。この辺。初めて来ましたけど、緑が多くて、静かで」


嘉島が爽やかな笑顔で、世間話を始める。

悪いが、俺は火事で焼け出された後はずっと病院で、退院して新居に来てからは一度も外へ出ていない。

あんたと大して変わんねえんだよ、と、何気ない一言にいちいちイラつく。

そんな俺を気にすることなく、嘉島はバッグからキーボードを出し、次にいそいそとリュックのチャックを開けた。


まるで手品師のように、一つ取り出しては俺に見せ、ニヤッと笑い、それを置く。

知っている楽器もあれば、知らないものもある。

カスタネット、鈴、トライアングル、マラカス、カリンバ、あとは筒みたいなのとか、丸いクッキー缶みたいなのとか、他にも色々。


「美音さんがどんな音が好きか分かんないんで、ちょー持ってきちゃいました!」


どうだ、と言わんばかりの笑顔。

何が楽しくて、こんなにニコニコしてるんだ。

胸がもやもやした。こっちは「ため息」もつけないのに。


嘉島は、ひとつひとつの楽器を説明していった。

俺が名前を知らなかったのは、レインスティック、フレームドラム、オーシャンドラム、トーンチャイム、チャフチャス──


……きっと、俺でなければ楽しいんだと思った。

自分で望んだわけでもないタイミングで、無駄に明るい男と楽器。


どうでもいい。

聞きたくもない。

たぶん、「じゃあ音楽に合わせて音を出してみましょう!」とかなんとか……笑顔の相手に気を遣って、表情筋、駆使して、カスタネットを幼稚園児みたいにタンタン叩く。そんなイメージ。


──もし楽器を手渡されたら、投げつけてしまうかもしれない。

それくらい、やりどころのない苛立ちがつのっていた。


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