第31話 ②対峙
官舎での暮らしが日常となる頃、頼は海軍省艦政本部での実務に、静かに身を投じていった。
彼に与えられた任務は、表向きは次期艦艇の兵装に関するデータ処理と技術計算だった。
廊下に渦巻く政治的な思惑とは無縁の、数字と論理の世界である。
そして頼は、ここを自らの潜入の拠点と定めた。
「神通」で積み上げた砲術の知識は、理論計算の机上でも違和感なく機能し、彼の提出する数値は、次第に修正されることのないものになっていき、その能力は静かに周囲へと浸透していった
当初は現場上がりの若輩者と見られていた彼も、次第に組織の中で期待される存在へと位置づけを変えていった。
頼の「天才砲術士官」という仮面は、評価と期待が交錯するその隙間で、静かに、しかし確実に厚みを増していく。
だが、その緻密な業務の中で、頼はすぐに最初の違和感に突き当たった。
次期魚雷艇の製造予算に関する資料だ。
特定の企業への発注額が、市場価格と比較して不自然に高く、しかもその差額の行き先が資料上では判然としない。
頼は、その数字の並びに、山本少将が語った「組織の病巣」の影を見た。
頼はその原本を戻し、必要な数値だけを記憶と控え帳に留めた。
それ以上を持ち出せば、調査の段階を踏み越え、山本少将の急ぐなと言う方針に背く。
頼は、メモを外套の内ポケットへそっと仕舞い、その日は帰宅した。
官舎の門をくぐった瞬間、頼は肩から力を抜いた。
玄関を開けると、いつものように出汁(だし)の柔らかな香りと、燈の穏やかな声が頼を迎えた。
海軍省の重い空気とは隔絶された、この静かな時間こそが、頼にとって唯一の心の安息だった。
しかし、その安息は長く続かない。
食事を終えた頃、官舎の外に、事前に知らされていた山本の連絡役が待っていた。
頼は、静かに外套を羽織り、燈には「少し散歩してくる」とだけ告げ、夜の東京の街へと踏み出した。
連絡役の士官は、無言で一枚のメモを手渡した。
「調査を開始せよ。魚雷艇の件は、深追いするな。別のルートを探れ」
頼の手に残されたのは、新しい任務への指示と、巨悪に繋がる複数の関連人物の名前だった。
夜の帳が下りた東京で、頼の孤独な闘いは、ついに具体的な第一歩を踏み出した。
連絡役の士官が立ち去った後、頼は静かに官舎へと戻り、静かに居間に入った。
頼は、渡されたメモを小さな机の上で広げると、そこには、魚雷艇の予算に関わる特定の部署を避けるよう警告が記されていた。
それと同時に、海軍省内で予算執行や人事権に深く関わる複数の士官の名前が列挙されていた。
山本の判断は、まず外堀を埋め、組織内部の人間関係と金の流れを把握しろということだ。
翌日から、頼の任務は本格的な情報戦へと移行した。
艦政本部で頼に与えられた技術士官の立場は、彼が情報を集める上で最高の「偽装」となった。
彼は表向き、次期艦艇の兵装統一に関する提言を名目に、山本のメモに記されていた内の一人、経理畑の松原少佐との接触を図った。
松原少佐は、事務手続きを通じて艦隊の予算を握る男であり、現場の技術や士官たちを露骨に見下す傾向があった。
訪れた松原少佐の執務室。
「現場から上がってきた士官殿が、ずいぶん細かな計算をされるものだ」
頼が提出した、資材調達の非効率性を指摘する資料を眺めながら、松原は皮肉めいた笑みを浮かべた。
「資材調達の非効率性は、そのまま艦隊の戦力低下に繋がります。私は艦隊の宝である艦艇を守りたいだけです」
頼は、冷静沈着に答えた。
松原は頼の完璧な理論武装に苛立ちを見せながらも、頼が単なる技術屋であると決めつけ、警戒心を緩めた。
その隙を見逃さず、頼はさりげなく特定の民間企業名と、裏取引の噂がある資材の話題に切り込んだ。
松原少佐の顔色が一瞬にして変わり、その眼に動揺と、それに続く冷たい敵意が宿るのを、頼は見逃さなかった。
「では、これで失礼します」
松原少佐とのやり取りを終え、頼は深く息をついて扉を閉めた。
その夜、頼はいつにも増して疲労の色濃く帰宅した。
昼間の海軍省の空気は、現場の訓練や戦闘よりも、遥かに精神を消耗させた。
「今日は、とてもお疲れみたいね」
燈は、頼の上着を丁寧にかけながら、心配そうに尋ねた。
「ああ、組織というものは、艦隊と違って見えないところで水が濁っているようだ。まだ慣れないよ」
頼は、それ以上何も語れなかった。燈との安息の場に、海軍省の「政治の匂い」を持ち込むわけにはいかない。
しかし、その夜の頼は、いつもより長く、湯気の立つ湯飲みを握りしめていた。
燈は、夫が孤独な、そして危険な闘いを始めたことを察し、その見えない重圧を、ただ静かに受け止める決意を固めていた。
頼の机の上には、メモに記された次に目を向けるべき人物の名前が置かれていた。
彼の孤独で静かな情報戦は、いま始まったばかりだった。
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