第29話 ⑮家族の証

春の総合演習を終えた「神通」は、整備と補給のため、横須賀を離れて呉鎮守府方面へと西進していた。


激しい砲声が止んだ艦内には、演習後の静かな疲労感が漂っている。


長期にわたる航海と密命の孤独の中で、頼の唯一の安堵は、名古屋の燈からの手紙だった。


「頼さんがいらっしゃらない間、私は熱田で静かに毎日を過ごしています。ご無理をなさらず、ただ無事に戻られることを信じています。私がここにいるのは、あなたが荒れた海を乗り越えて戻られた時、心から安心できる帰る場所でありたいからです」


その手紙を頼は、何度も読み返す。


一言一句すべてが、 彼の心に重く響いた。


自分の行動がどれほど危険で不確かなものであっても、燈という揺るぎない愛の誓いこそが、彼を正しく繋ぎ止める、頼を突き動かす推進力だった。


季節は過ぎ、艦隊が鎮守府のある呉に程近い港に入港する頃には、年末の慌ただしさが漂っていた。


「神通」艦長室。


山田艦長は静かに頼を呼び出し、極秘の辞令を伝えた。


これは、山本五十六との同盟が、公的な人事という形で履行された証である。


「吾妻大尉。君には、年明けより東京・海軍省勤務の内示が出た。これは君の功績と能力に見合った人事だが、君の真の使命が何であるか、私は深くは問わない。ただ、君の選んだ道に、誇りを持って進め」


山田艦長の言葉には、頼の行動をすべて理解し、庇護してきた上官としての温かい情が滲んでいた。


「艦長。長きにわたりいただきましたご厚情、私は決して忘れません」


頼はそこで一度言葉を区切ると、その眼差しに静かな決意を宿した。


「必ずや、艦長が私に託してくださったものを、海軍という巨大な組織の中で、完遂してまいります」


頼は、心からの感謝を胸に、艦長室を後にした。


廊下に出ると、山崎が待っているのを見つけた。 


「頼……いや、吾妻大尉。今日までのご指導、ありがとうございました!」


頼は、階級で呼ぼうとする山崎の肩を軽く叩き、微笑んだ。


「水臭いな、山崎。最後くらい、頼でいいだろう」


頼は、静かに真剣な眼差しを山崎に向けた。


「お前になら、「神通」の砲術部門を安心して任せられる」


山崎は、その言葉の重さを理解するように、無言で深く頷いた。


「頼、お前こそ、もっとオレには計り知れないことをやろうとしてるんだろ」


彼は、頼が組織の中枢で何をしようとしているのかを漠然と察し、それが単なる栄転ではないことを知っていた。


頼は、山崎の肩をもう一度力強く叩いた。


その言葉と感触が、頼にとって、艦隊の仲間たちへの最後の別れの言葉となった。


山田艦長の内示から数日後。


頼は、東京・海軍省への異動準備のための長期休暇を取得し、名古屋へ帰郷していた。


この名古屋での短い期間こそが、頼にとっての、重圧から解放される、たった一つの安息の場となる。


名古屋に戻った頼を迎えたのは、婚礼前らしい静かな気配と、華やかさよりも清らかな緊張感に包まれた吾妻家だった。


「帰りました。」


「……お帰りなさい。準備は出来ています」


「はい」


久しぶりに交わされた母と子の言葉は、それ以上の感情を語らず、ただ静かに、今日という一日を迎える覚悟だけを確かめ合っていた。


畳の匂いが静かに満ちた座敷には、すでに人を迎えるための気配が整えられていた。


掛け軸の「寿」と花一輪。


それだけが祝言の飾りだった。


頼は、軍服に身を包み、座敷で静かに佇む。


斎藤家は、燈を伴い、徒歩で吾妻家へと向かう。


華やかな行列ではないが、それがその嫁入りをごく自然なものにしていた。


燈は、黒引き振袖に身を包んでいた。


白無垢の代わりに選ばれたそれが、かえって、彼の背負う重みを分かち合うような、質素で美しい覚悟を示しているようだった。


玄関で静が燈を迎え、二言三言、短く優しい言葉を交わす。


保は落ち着いた表情で見つめ、恵子は娘の晴れ姿に目を細めていた。


頼が玄関で燈を迎え、二人は並んで座敷へと歩く。


一同が見守る中、静は座敷の正面に正座し、静かに口を開いた。


「……これより、吾妻頼、燈、両名の祝言を始めます」


頼と燈は、無言のまま、三三九度をゆっくりと交わす。


盃を重ねるわずかな時間が、これから二人が立ち向かう「荒れた海」への誓いを、無言のまま結ぶ儀式となった。


保は持参したライカを三脚に据えると、

袖口に細いケーブルを隠すようにして席に戻った。


「……動かずに。いきますよ」


そう静かに言って、保は膝の上でケーブルの先をそっと押す。


微かな“カシャリ”という音が冬の座敷に響くいた。


それが五人だけの記念写真になった。


それは、後に頼の東京での孤独な闘いの中で、彼を支える確かな証拠となる。


その後、小さな食事会が始まった。


静が用意した赤飯と煮しめに、仕出しの膳が並ぶ。


恵子が笑顔で場を和ませる。


「燈はいつも頼にいちゃん、頼にいちゃんだったわね。それが今日から晴れて、ほんとうの頼さんになったってわけね、うふふ」


いつものようにいたずらっぽく笑う。


燈は、いつもの恵子の茶目っけだと受け止めたように、少しだけ顔を赤らめ、静かに深呼吸する。


「お母さん、見ていてください、私はもう、後ろをついて歩くだけの燈じゃありませんから」


と、愛らしい微笑みを向けながらも、その眼差しには確かな幸せが滲んでいた。


頼は、静かに軍服の袖口を伸ばし、燈の手にそっと重ねた。


「燈、ありがとう。俺の、吾妻頼の妻として、今日から支えになってほしい。もう、一人じゃない」


保は、盃を手に、短くも重い言葉を述べた。


「二人で助け合っていけば、どんな道でも進めます。頼くん、燈のことを頼む」


頼は、静かに盃を置き、義父である保に向かい深く頭を下げた。


「お義父さん、必ず燈を大切にします」


頼はそこで一拍言葉を区切ると、その眼差しに静かな決意を宿した。


「この先ずっと、二人で支え合い、決して道を誤りません」


静は多くを語らず、ただ息子の軍服姿と妻となった燈を、誇らしげな眼差しで見つめていた。


宴を終え、二人は座敷に戻り、並んで座った。


頼が燈の手をそっと握り、静かに言葉を交わす。


「燈。この旅立ちの前に、こうして正式に君を妻に迎えることが出来て本当に良かった」


燈は、不安を押し隠し、揺るぎない覚悟を言葉にする。


「はい、私はあなたが選んだ道を信じています。私が軍人の妻として、あなたの使命を支えます」


決して華美ではないが、二人の愛の深さを確かめ合う厳粛な儀式として、蒲郡で交わした誓約がこの日正式に成就した。


(第4章 完)






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