第27話 ⑬九割の針路
「神通」は、三河湾を後にした。
黒潮の流れに乗って東へと針路を取る。
艦橋を離れた頼の心には、燈との誓いの熱と、海軍の命運を託された密命の重さが、深く静かに交錯していた。
彼の脳裏には、山本五十六との密談で提示すべき、あの「九割」という冷徹な数字が焼き付いていた。
その確証を得たのは、彼が私的な時間に身を置いている間も、黙々と任務を遂行し続けた仲間たちの尽力によるものだ。
艦長室へ向かう廊下を歩く頼の足は、いつになく重い。
彼は、このまま横須賀へ向かう前に、共に命運を賭けた仲間と上官に対し、真実の確認と感謝を伝える必要があった。
「神通」が横須賀へと針路を急ぎ始めた頃、頼は艦橋下の艦長室で、山田艦長と副砲術長代理の山崎中尉と向かい合っていた。
山崎は、連日の作業で疲労の色を隠せないが、その目は達成感に満ちていた。
「山崎中尉、報告を」
山田艦長が静かに促す。
山崎は、硬い声で敬礼した。
「はっ。副砲術長代理山崎。本日、主砲のゼロ校正作業を完了いたしました。復元性、発射精度の計測は、すべてマニュアルの許容範囲内に収まり、演習に支障はありません」
それは、公的な任務としての報告だった。しかし、頼が求めているのは、その裏にある真実だった。
頼は、山崎の前に進み出た。
彼は、一人の人間として、深く頭を下げた。
「山崎。本当に、済まなかった。そして、心から感謝する」
その言葉には、自分の目的を陰で支えてくれた信頼が、重く込められていた。
山崎は、頼が深く頭を下げたことに驚き、一瞬目を見開いたが、すぐに表情を引き締め、静かに答えた。
「吾妻大尉、お言葉を返すようですが、それは当然の責務です。我々の艦隊のために必要なことならば、当然であります」
その言葉は、「我々」という連帯を示していた。
山崎は、頼が背負う秘密を、共に担う覚悟を示したのだ。
山田艦長が、二人の間で静かに言葉を挟んだ。
「吾妻大尉。君が、その信頼できる仲間たちの労によって得た数字が、海軍の今後にとっての希望の光であることを信じている」
彼の密命は、この瞬間、信頼し合う仲間たちの協力によって、海軍と言う組織に持ち込まれる最終兵器となったのである。
頼は、山田艦長と山崎中尉に深く敬礼し、その重い信頼を確かに胸に刻んで艦長室を後にした。
彼は今、命を懸けるべき使命の重さと、背後を守る仲間たちの絆という、二つの強固な力を携えていた。
その力こそが、巨大な組織の欠陥に挑むための、唯一無二の揺るぎない力である。
艦は一晩中、波を切って進み続けた。
そして、翌日夕刻。
日本の海軍の心臓部、異様を放つ横須賀の岸壁が、水平線上に姿を現した。
頼は演習準備という名目で上陸していた。
彼が向かったのは、司令部から離れた静かな執務室だった。
そこには、和服に着替えた山本五十六が、冷たい茶を啜りながら待っていた。
周囲には誰もいない。
頼は敬礼も簡単に済ませ、持参した資料を卓上に滑らせた。
それは、艦体の疲労度、復元性の限界値、そして事故発生の蓋然性を示す数字と、言葉だけが並ぶ文書だった。
「報告いたします。三河湾での最終確認の結果、以前に示した、今後6年以内に重大事故90%以上という予測は、ゼロ校正のデータにより、科学的に確証されました」
頼の言葉は、その裏にある友鶴事件や第四艦隊事件という破滅的な未来を、この静かな室内に連れてきた。
山本は資料には目もくれず、頼の覚悟を直視する。
「九割、か。君は、その数字が海軍の最高指導部で何を生むか理解しているな?これは、単なる欠陥ではない、政治の渦だ。君の命の担保は、この数字の重さに見合うものだ」
頼は迷いなく言い切った。
「承知しております。しかし、この設計思想を維持する限り、艦隊は滅びます。私の責務は、設計の根本的な誤りを告発することにあります」
山本はゆっくりと頷き、懐から小さなメモを取り出して頼に渡した。
「では、年内は「神通」で公務を全うせよ。だが、君の戦場は変わる。来年より、東京・海軍省に異動となる。ここで得たデータを使い、設計部門という組織の巨悪と戦ってもらう。それまでの間、目立たぬよう、艦隊内部の欠陥や情報隠蔽を観察し、記録せよ」
頼は、山本から東京への異動という言葉を聞き、胸の奥で燈の姿が鮮やかに蘇るのを感じた。
それは、海軍を破滅から救うという密命の重責と、燈との愛の誓いの成就が、両立できると確信した瞬間だった。
「承知いたしました。公務と密命、両方を全うします」
頼は、人生の針路が変わったことを確信し、横須賀の闇夜へと消えていった。
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