第20話 ⑥衝撃の余波

砲術指揮所での衝撃的なあの出来事の後、「神通」艦橋は重い静寂に包まれた。


艦長である山田大佐は、双眼鏡を下ろしたまま、信じがたい現実を反芻していた。


「……全弾中心円内、か」


山田大佐は、その言葉を絞り出すように呟いた。


「あの条件で。測距儀の故障ではないな?」


観測担当の士官が、震える声で答えた。


「艦長。計測器は正常です。むしろ、あの…吾妻大尉の導き出した数値が、計測器の限界を超えていた、としか……」


山田大佐は、深く息を吐き出した。


海軍の常識では説明のつかない奇跡であり、これを公的な報告書に記せば、鎮守府や艦政本部で一笑に付されるか、あるいは「異常な虚偽報告」として処理されるのは目に見えていた。


しかし、彼は知っていた。


これは、目の前の戦術を変えるだけでなく、このからの海軍の戦い方そのものを変える可能性を秘めた、「真実」である、と。


「寺井大尉」


山田艦長の声に、未だ立ち尽くしていた寺井大尉が、弾かれたように顔を上げた。


その顔からは血の気が失せ、長年の努力によって培われた士官としての自信が完全に剥がれ落ちていた。


「この件について、貴官の意見を述べよ」


寺井大尉は、唇を噛みしめ、絞り出すように答えた。


「あれは……まぐれではございません。計算と、その実行精度は……我々の時代には、あり得なかったものです。私の職責、砲術に関する知見は、既に吾妻大尉によって否定されました」


寺井は、その場で直立したまま、震える声で続けた。


「艦長。私はこれ以上の職務遂行は不可能と判断します。このままでは、乗員に間違った知識を教えかねない。どうか、副砲術長を解任していただきたい」


彼の言葉は、組織的な抵抗ではなく、長年海軍を信じて生きた一人の士官の、魂の敗北宣言だった。


山田艦長は、静かに頷いた。


彼の決断を尊重し、受け入れる以外に道はないと理解したからだ。


その後、山田艦長は、練度向上という名目で、この射撃データを


「極めて高度な技術的検証を伴う成果」


として、呉鎮守府司令長官に報告した。


報告書は、

「艦隊決戦における生存性の確保と、劣勢を覆す新戦術の可能性」という、誰も否定できない文言で糊塗された。


当然、報告書は呉鎮守府内、そして艦政本部の一部で激しい論争を巻き起こした。


「狂気の沙汰だ。常識を無視した一発芸に過ぎない」

という批判と、

「データが示す合理性を無視すべきではない」

という若手士官たちからの賛同が激しく衝突した。


しかし、データが示す「一撃必中」の驚異的な精度は、最終的に「結果至上主義」の海軍においては無視できないものだった。


その結果として、吾妻頼大尉の指示に従い、完璧な観測を実行した山崎忠剛少尉に対し、「新型測距システム開発への多大な貢献」という名目での、階級の昇進が決定された。


「山崎忠剛少尉の中尉への昇進」の辞令が届いたその日の夕方。


山田艦長は、山崎を艦長室に呼び、静かに、諭すようにこう言った。


「山崎。お前の昇進は、吾妻の技術が叩き出した公正なデータが、海軍組織に認めさせた結果だ。これは誰も否定できない。だが、そのデータは、海軍の古い常識を否定するものでもある。故に、必ず摩擦が生じるだろう。これからは、吾妻の『盾』となれ」


山田は、艦長室の窓の外、呉の海に目を向けた。


その表情は厳しく、真実を組織に報告した者の重い覚悟を滲ませていた。


そして静かに、言葉を継いだ。


「お前は、中尉として『神通』の秩序と規律を守る義務がある。同時に、吾妻が築いた技術が、現場で歪められたり、潰されたりしないよう、規律の下でこれを守り抜き、正しく運用する責務を負う。彼の『盾』とは、この技術的真実の『盾』という意味だ。」


そう言うと、山崎の目をまっすぐ見据えた。それは、単なる命令ではなく、この先を託す者としての強い誓いを求める視線だった。


さらに、なおも山田艦長は続け、こう締め括った。


「これは、データが示す真実、そして海軍が次の時代で生き残るためのあるべき姿に対する、お前と私、共通の責任だ。」


山崎中尉は、背筋を伸ばし、敬礼した。その声には、規律と決意が宿っていた。


「艦長。承知いたしました。私は砲術長補佐として、そのデータと艦の規律を必ず守り抜きます。そして、無用な混乱は、私の責任で全て排除いたします。」


山崎中尉の決意は、「神通」の現場が、今、海軍の常識から切り離された秘密の実験場となったことを意味していた。


山田艦長の指示により、従来の斉射を中心とした訓練は姿を消し、代わりに「最大戦速での急変針射撃」や「艦体の揺れを最大限に利用する特異な観測」が、「新型測距システムの試験運用」という名目で最重要課題として組み込まれた。


海軍省や鎮守府は、これが単なる最新技術の評価であるとしか思っていなかった。


しかし、頼は、これが来るべき大戦で日本艦艇の壊滅的な被害を招くことになる、構造上の欠陥(復原性不足)の限界データを収集する作業であると知っていた。


そして、山崎忠剛中尉は、それが艦体の健全性を揺るがしかねない、無謀な真実を暴くための実験であると理解し、その全てのデータ管理を背負う覚悟を決めていた。


未来への修正は、この瞬間、呉の静かな海域で、秘密裏に始まった。


そして、その異様な訓練の報告は、一人の合理主義者の目に留まっていた。


「技術的真実の証人」として、彼はやがて呉へと向かうことになる。


その人物こそ、軽巡洋艦「五十鈴」の艦長に着任したばかりの山本五十六大佐である。


1928年秋、瀬戸内海の呉湾に停泊する「神通」に、一本の極秘連絡が入った。



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