第18話 ④それぞれの想い

1928年3月某日、瀬戸内海訓練海域。軽巡洋艦「神通」艦上。


再就役から数日が経過した「神通」は、今、訓練のため呉軍港を離れ、波穏やかな瀬戸内海へと進出していた。


舞鶴と呉での大修理後の「神通」は、外見こそ新造艦同様の美しさを取り戻していたが、艦内には依然として美保関事件の濃い影が張り付いていた。


あの忌まわしき事故を経験した艦を再び動かす乗員たちの間には、「二度と同じ過ちを繰り返さない」という堅い決意と、事故への恐怖が入り混じった重苦しい空気が漂っていた。


その重苦しい空気を、一人、全く意に介さない男がいた。吾妻頼大尉、新任の砲術長である。


彼は長身をまっすぐに伸ばし、艦橋で双眼鏡を覗いていた。


その横には、砲術長補佐として再就役と共に復帰したばかりの山崎忠剛少尉が、真新しい制服を纏い、背筋を伸ばして控えている。


山崎の顔には、艦上勤務を離れ、工廠の事務職に身を置いていた不遇な時期の苦悩が刻まれているが、今は吾妻大尉への絶対的な信頼と、新たな任務への規律に満ちていた。


頼は双眼鏡を下ろすと、山崎少尉に顔を向けた。その表情は冷静そのものだった。


「山崎少尉、砲術科の配置、完了したな」


「ハッ!滞りなく、全員配置につきました。本日より再就役訓練を開始します」


美保関の波涛に揉まれ、内地勤務という名の岸辺に打ち上げられて以来、彼の胸を支配していたのは、海を離れ、士官の本分たる艦上勤務に就けないことの悔しさだった。


だが今は!甲板に立つ潮の香り、肌を打つ風、そして隣に立つ友の圧倒的な存在が、その全ての苦悩を吹き飛ばす。


――生きている。そして、この友と共に、海の上にいる!


山崎は、士官としての本懐と決意を噛み締めて、厳格な言葉を発した。


頼は頷く、そして続けて言った。


「良し。では、始める。艦長には既に通達済みだ。まず、全乗員に理解させておくべきことがある」


頼は、艦内の張り詰めた士官たちを一瞥もせず、さらに続けた。


「我々が今から行う訓練は、従来の海軍ドクトリン(戦闘教義)を一切無視する。この艦の士官たちは、事故の経験から『従来の訓練』に頼ることで安心を得ようとするだろう。だが、その常識こそが、この艦を再び沈める真の敵だ」


山崎少尉は、その「従来のドクトリンを無視する」という言葉に、再び驚きを隠せなかった。艦隊決戦を前提とした、規律と反復に依拠する海軍の基礎を否定する言葉だったからだ。


「大尉…ドクトリンを無視とは、具体的にいかなる訓練でありますか?」


「第一射は、最大戦速での急激な変針時における、遠距離の遊弋(ゆうよく)目標を狙う。目標の動きはランダム、観測手のデータは極限まで制限する。照準は私の方程式に従う。慣れた手法ではない。だが、来るべき戦いの常識は、これだ」


頼の口から出たのは、砲術の常識からかけ離れた、極めて異例かつ非常識な訓練内容だった。 


艦内の各所からは、この指示に対するさざ波のような動揺が伝わってくる。


特に砲術科の古参士官たちの間では、怒りにも似た困惑の囁きが起こっていた。


砲術長に次ぐ地位にある副砲術長の寺井大尉が、一歩前に進み出た。


「大尉。お待ちください。最大戦速での急変針時に、20,000メートルを超える遠距離目標を狙うことは、現在の三年式測距儀の性能と射表(しゃひょう)の誤差を鑑みても、まず不可能です。ジャイロ補正が追いつかず、弾はバラける。これは無駄弾に終わります」


寺井大尉の抗議は、彼の経験と、長年海軍が積み上げてきた戦術思想の正当性に基づいていた。彼は、吾妻大尉が何を根拠にこの常識破りの指示を出しているのか、理解できなかった。


頼は寺井大尉を直視することなく、冷淡に言った。

「射表が間違っている。そして、貴官の常識もだ。私は無駄弾を撃つつもりはない」


艦内の士官たちが、事故のトラウマを乗り越えようと堅実に訓練を積もうとする中で、頼大尉は最初から未知の領域へと足を踏み入れようとしている。


山崎少尉は、その命令を復唱する前に、頼大尉の瞳に宿る確信の光を見た。


それは、美保関事件の事故報告書を作成していた頼の冷徹な分析眼が、今や「勝利の確信」へと変わった光だった。


「…承知いたしました。砲術科は、吾妻大尉の指示の下、全責任をもって実行します」


山崎少尉は、疑問を一切飲み込み、最大限の敬意を込めて敬礼した。頼は静かに頷くと、砲術指揮所へ向かう階段に足を踏み入れた。


この訓練は、単なる能力の誇示ではない。

それは、吾妻頼が導き出した戦術の真実であり、日本海軍が生き残るための唯一の道だ。


「神通」の艦内には、緊張と期待、そして「異変」の予感が満ち溢れ始めていた。

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