第13話 ④かけがえのない時間
熱田神宮からの帰路は、行きとは違い、二人の間に言葉は少なかったが、以前よりもより親密な空気が満ちていた。
燈はもう、群衆に押されても羽織の袖を掴むことはなかったが、その身は頼のすぐ隣にぴったりと寄り添っていた。
斎藤家に着くと、二人は居間に向かい、恵子に報告した。
頼は、背筋を伸ばし、士官としての上体を深く曲げる敬礼をもって告げた。
「おばさん。本日、燈さんと、将来を共にすることを約束しました。どうか、お許しをいただきたく、ご報告申し上げます。」
恵子は目を見開いた後、すぐに顔をくしゃっと崩して、心から喜びの声を上げた。
「まあ!」
彼女は目尻の涙を拭い、燈と頼を交互に見比べた。
頼は頭を下げたまま、続けた。
「お父上は、今は遠い異国の地でご研究の任にあたっておられると承知しております。本来であれば、わたくしが直接お許しをいただきたく存じますが、大変恐縮ながら、おばさんからご一報いただけますと幸いです。」
恵子は大きく頷いた。
「ええ、もちろんよ!保さんも、きっとお喜びになるわ!本当に良かった!常々、頼くんは、見所のある男だ、とおっしゃってましたから!」
恵子は喜びを隠せない様子で、今度は燈を茶化した。
「ねえ、燈、あなたも、お父様に頼さんのこと、お手紙にたっぷり書いて差し上げなさい。きっと、すぐにお返事をくださるわよ」
燈は、まだ頬の赤みが引かぬまま、
「お母さん…」
と小さな抗議の声をあげた。
こうして、二人の将来の約束は、家族公認のものとして、この温かい家で正式に認められたのだった。
頼は、斎藤家で恵子から正式な承諾を得た後、足取りも軽く帰路についた。家に入ると、居間にはまだ静がいた。
頼は、改めて母の前に正座した。
興奮冷めやらぬうちに、熱田神宮での出来事、そして燈との約束を、報告した。
「...つきましては、お母さんに、正式に承諾をいただきたく」
静は、驚くことなく優しく微笑んだ。
「ほっとしたわ、本当に良かった」
静は、長年の心配が晴れたように安堵した。
「あなたの気持ちは、分かっていたわ。燈さんなら、あなたを支えてくれることでしょう。お父様も、きっと喜んでいらっしゃる」
静は、続ける。
「頼。家を出たら、決して弱音を吐いてはいけない。だけど、燈さんと言う存在をあなたの心の支えにしなさい。それを決して忘れないようにしなさいね。」
「はい」
頼はに深く頭を下げた。
「お母さんは、この家で待っているわ。どうか、お気をつけて」
頼は、母の温かい祝福に深く感謝した。
これで二人の約束は、両家公認のものとなった。
彼は、この短い休暇が、燈との別れの前のかけがえのない時間となることを予感していた。
翌一月二日。
燈は、濃紺の控えめな着物に着替え、頼と共に吾妻家の玄関をくぐった。
昨夜、頼から静への報告は済んでいるが、今日は燈自身が改めて挨拶をする日だ。
吾妻家に着くと、居間にいる静の前に、頼と並んで正座した。
静は編み物を膝に置き、二人を穏やかな眼差しで見つめた。
「お母様、改めまして、失礼いたします」
燈は深く頭を下げた。横に座る頼も、背筋を伸ばして静を見ている。
「私、斎藤燈は、頼さんと将来のお約束いたしました。どうか、お許しくださいませ」
静は、すぐに返事をせず、そっと燈の手を取った。
「燈さん。もう、そんなに緊張しなくても良いのよ。頼から、昨夜すべて聞きました。本当に、良かったわ」
静の手は、優しく温かかった。静は続けた。
「寂しい思いもさせるかもしれないけれど、私もこれほど嬉しいことはありません。どうぞ、これからも頼を、よろしくね」
「...はい」
燈の瞳には、安堵と感激の涙が浮かんでいた。
頼は、母の言葉と、安堵する燈の姿を見て、胸の奥で熱いものが込み上げるのを感じた。
静は立ち上がり、にこやかに言った。
「燈さん。さあ、今日はもう、遠慮はいらないわ。お昼は、お雑煮をたくさん作りすぎたから、みんなで一緒にいただきましょう」
頼は、「お母さん、ありがとうございます」
と感謝を伝え、燈と共に静が用意したお雑煮をいただくため、縁側の明るい方へと席を移した。
翌一月三日。
昨日の穏やかな家族の団欒とは打って変わって、二人は華やいだ街へと繰り出した。
頼は休暇中のため冬の軍服ではなく、濃紺のインバネスコート姿。
燈は、華やかな羽織と着物を纏っていた。
名古屋の繁華街、広小路通は、正月三が日の賑わいもあって、市電がひっきりなしに行き交い、人々の熱気が満ちていた。
まず二人が向かったのは、活動写真館(映画館)だった。
椅子に座る二人の手は、外套の下でそっと触れ合っている。
暗闇の中、銀幕に映し出される物語よりも、頼には隣の燈の存在の方が遥かに濃密に感じられた。
映画が終わると、二人はデパートへと足を運んだ。
当時のデパートは、ただの商店ではない。モダンな商品展示、最新の流行品が並ぶフロアは、まるで別世界のようだった。
「まあ、素敵ね」
燈は、輸入品のガラス細工のコーナーで、着物にも洋装にも似合う、小さな青い宝石のような髪留めに目を奪われていた。
頼は、それを購入し、燈に手渡した。
「これは、君と俺の、約束の証だ。この休暇が終われば、また次の任地での務めが待っている。必ず戻る。君は、この約束を忘れないでいて欲しい。」
燈は頬を染め、大事そうに髪留めを掌に包んだ。
彼女はそっと頼を見上げた。
「あの...今、すぐ着けてみたい。」
頼は、
「ああ、もちろん」
そう優しく応じると、頼は燈からその上質な包み紙で包装された髪留めを受け取る。
そしてすぐにそれを解き、そっと手を伸ばした。
燈は少し緊張した面持ちで、静かに顔を上げた。
頼は、彼女の艶やかな黒髪に、青い宝石のような髪留めをゆっくりと留めた。
頼は、その髪留めが燈の艶やかな黒髪に映えるのを見つめ、心からの温かさを感じた。
「とてもよく似合うよ、燈。」
燈は、頼の手が離れた後、小さく頷き、再び髪留めをそっと撫でた。
「はい、大切にします。――本当に、こんな時間が、ずっと続けばいいのに」
その言葉の裏に隠された
「別れ」
への不安を、頼は悟っていた。
「大丈夫だ。また、すぐに戻ってくる。俺も次の任地では、君とのこのかけがえの無い一時を決して忘れはしないよ。」
彼は燈の手に優しく触れながら、毅然とした声で言った。
二人は、デパート最上階の喫茶室へと移動し、賑わいから少し離れた窓辺の席に座った。
窓の外には、暮れなずむ名古屋の街が広がっていた。
彼らに与えられた、この「猶予」の時間が、限りあるものであることを、二人は心の奥底で感じていた。
一月四日。
前日の晴天とは打って変わり、朝から冷たい雨が降り続いていた。
華やかな街へは向かわず、二人は斎藤家からほど近い、木造二階建ての喫茶店を訪れた。
熱田の賑わいから一歩奥まった場所にあるその店は、サイフォンから立ち上る湯気と、クラシックな蓄音機の音が静かに響く、落ち着いた空間だった。
窓際の席に座った二人は、黙って窓ガラスを叩く雨を見ていた。昨日の華やかなデパートの喧騒とは打って変わって、二人の間に、避けて通れない現実の重さが戻ってきていた。
「ねえ、頼さん」燈が静かに口を開いた。
「頼さん。頼さんはなんだか遠い世界を見ていらっしゃるような気がして……」
頼はカップを静かに置いた。
「俺は...」
頼は、言葉を選ぶように慎重に言った。
「俺は、君と、家族と、この温かい場所を守りたいと思っている。それだけだ」
燈は、頼の言葉の重さを、その瞳の真剣さから感じ取った。
燈の指先が、テーブルの上でわずかに震えた。
「頼さん。私に出来ることは少ないかもしれないけれど、頼さんの無事を祈ることしか出来ないかも知れないけれど...」
頼は、燈の言葉を遮った。
「それは違うよ、燈。」
頼は、両手で燈の震える手を包み込み、力強く言った。
「燈。君は、君と言う存在がいてくれるだけで、俺のことを想っていてくれるだけで、十分だ。
君との約束、君の笑顔こそが、俺が何をすべきかを教えてくれる。俺は、ただ大切なものを守るために、務めを果たすだけだ。」
その言葉は、頼がこの時代の人間として生きる、彼の確かな決意だった。
窓の外の雨脚が、一瞬強くなった。二人は、固く手を握り合ったまま、静かにその音を聞いていた。
その日の夕方、頼は燈を斎藤家に送り届けた。
自宅の自室に戻ると、与えられた休暇の猶予は、既に残りわずかであることを痛感した。
燈とのこの時間は、おそらく間も無く来る辞令によって、終わりを告げるだろう。
頼は、その知らせを待ちながら、来るべき遠い任地での務めに向け、山崎や神通での仲間たちを思い浮かべ、静かに思いを馳せていた。
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