3章 1927-1928 名古屋編

第10話 ①再会

冬の日本海は、列車が東へ進むにつれ、次第にその鈍色の姿を遠ざけていた。凍えるような景色だった。


海軍大尉、吾妻頼(たのむ)は、故郷・名古屋へ向かう客車列車の一等席に、座席に深く身を沈めていた。


数日前に受け取った辞令は、彼に二つのものをもたらした。一つは海軍大尉の階級章。


そしてもう一つは、特別休暇という名の「贖罪(しょくざい)」の期間だった。


制服を脱いだ頼は、支給された海軍の冬服ではなく、私物の着物を着ていた。


軍服の硬い襟元から解放された首筋は、久しぶりに重圧を逃れたが、その代わりに、水城圭次艦長の自決の報が、彼の胸に鉛のように沈んでいた。


だが、奇妙なことに、着物の袖を通す動きも、一等席で足を組む所作も、もはや違和感はなかった。鏡に映る海軍大尉の姿が、「自分」であることに、頼(らい)の意識は完全に馴染み始めていた。


(この列車は、俺をどこへ運んでいる?)


舞鶴から名古屋へ。


物理的な距離は遠ざかっているが、心の距離は一向に縮まらない。


彼は、事故の直前に、艦長が静かに語った言葉を思い出そうとしたが、それは潮騒の音に混ざって、うまく取り出せなかった。


頼のポケットには、現代のアパートの鍵と、大尉の辞令の写しが入っている。


鍵は「運命の外側から来た証拠」


辞令は「艦長や彼らの死を無駄にしないための、もっと大きなオレの果たすべき役割」の証明だ。


車窓に映る自分の顔は、ついこの間まで軽バンで荷物を運び、フードデリバリーをしていた個人事業主の青年の顔ではなかった。


目元には、美保関の夜の火柱と、炎上する艦の残光が焼き付いている。


ふいに、脳裏に砂嵐のような一瞬のノイズが走った。


列車に乗り込む「自分」と、ホームに見送りの群衆。そして、そこに「いない」はずの、誰かの姿を探すような、強い焦燥感。


 それは、士官候補生になるため初めて名古屋を離れた、吾妻頼(たのむ)の肉体の記憶が、吾妻頼(らい)の意識をかすめた残像だった。


(休暇は、甘く重い鎖でしかない。だが、この鎖こそが、俺を次の場所へ繋ぐのか)


列車は東へ向かい、景色は内陸の盆地へと変わっていった。


頼は目を閉じた。脳裏に浮かぶのは、海ではなく、一人の女性の、暖かな笑顔だった。


誰だったか、名前はすぐに出てこない。


だが、この冷たい時代の中で、彼が唯一、安らぎを感じられる、最も明るく、温かい光だった。


名古屋駅のホームに降り立つと、舞鶴の重い潮風とは違う、乾いた冬の冷気が迎えた。


この時代で、何を守るのか。その答えが、ここにあるはずだった。


名古屋駅の改札を出た頼は、行き交う人々の熱気の中で立ち止まった。


「郷に入っては郷に従え」。 


士官としての所作は身についたが、この故郷の空気を吸うのは父の葬儀以来か。


海軍士官としての重責が、この家でまとまった休みでの年越しを過ごすことを許さなかった。


数年前まで持っていた彼の意識が、故郷の温もりから遠ざかっていたが、この肉体が負う不在の重圧は、それに比べるべくもなかった。


路面電車に乗り込み、熱田神宮近くの停留所へと向かう。


年末の空気は華やかで、冬の海軍基地の重苦しい空気とは対照的だった。


実家は、その停留所からほど近い、古くからの屋敷だった。


(ここは、吾妻の家だ)


頼は、大規模な改築を施される前の、土壁と瓦の重厚さが残る屋敷を見上げた。


大学卒業後初めての正月に帰省した時、父親からスベア123R、あのガソリンストーブを受け取った、それ以来、自分からこの家に戻ることを選ばず、この場所は、遠い記憶のようになっていた。


曽祖父の、そしてこの時代の吾妻家の家。


門をくぐり、庭石を踏む。音を立てないよう静かに引き戸を開けた。

 

「ただいま」


声を上げると、奥から母親の吾妻静(しず)が駆け寄ってきた。

 

「頼!無事だったのね、本当によく……」

 

静は頼の体を抱きしめ、声を上げて泣き崩れた。


奇妙な感情だった。


この温かい感触は、肉体にとってはまさしく「母の愛」だが、頼(らい)の意識にとっては、曽祖父の母親の、遥か昔の体温だった。


この愛情こそが、自分へと続く連綿とした血の連鎖の始まりだと、頼は悟っていた。


「心配かけたね、母さん。もう大丈夫。」

 

頼は静をそっと支え、居間へと促した。


頼のその口調は士官としての冷静な節度を保っていた。


美保関での事故詳細や、艦長の自決については、静の心労を気遣い、一切口にしなかった。

 

夕食は静と二人きりだった。


久々の和やかな時間に、頼は「士官」としての役割でも、「記憶を背負う者」としての重圧でもない、ただの「息子」として振る舞おうと努めた。


頼(らい)は、元々祖父に懐いて育った。頼が大好きだった継(つぐる)じいちゃんだ。


その祖父は、よく自分の両親、つまり曽祖父母は「それは仲睦まじかったんだよ」と、何度も頼(らい)に語って聞かせてくれたものだ。


その温かい記憶が、今、目の前の過去の光景と繋がっている。


この愛が、彼の血の連鎖を確かに繋いできた証なのだ。


しかし、食後、静かに自室に戻ると、「この安らぎは長く続かない」という贖罪の意識が、すぐに彼の心を締め付けた。


翌日、頼が着物姿で庭を眺めながら静養していると、母親の静が嬉しそうな顔でやってきた。


「頼さん。燈ちゃんとお母さんが、お見舞いに来てくれたわよ。あの事故のことは、皆とても心配してくれていたのよ」


頼(らい)の心臓が、一瞬、拍動を忘れたかのように思えた。


斎藤燈。


その名前と、あの笑顔が、彼の脳裏で一気に結実した。数日間、意識の隅で光っていた存在の正体が、今、確信に変わった。


「うん、すぐ行くよ」


頼は身支度を整え、意を決して居間へと向かった。


居間に座っていたのは、燈の母親である斎藤恵子(けいこ)と、その隣に、頼が探し求めていた光を纏う一人の女性だった。

 

着物を着たその女性は、振り返った瞬間、頼の脳裏の壁を完全に打ち破った。

 

――燈だ。継じいちゃんの母親……俺の、ひいばあちゃんが、本当にここにいる!


名を認識した瞬間、頼(らい)の胸に、曽祖父の記憶が滝のように流れ込んだ。


幼馴染としての親愛、無垢な笑顔、そして初恋の淡い記憶。


それらが、美保関の記憶で凍り付いていた頼の心を、一瞬で溶かした。 


「頼さん。本当にご無事で、良かったわ。大変だったでしょうね」と恵子は優しく声をかけた。


恵子は静と顔を見合わせ、少し声を潜めながら続けた。


「私たちも積もる話はあるけれど。特に燈は、あの海軍さんの事故のお話を聞いてから、頼さんのことが心配でいてもたってもいられなくって、今日も出掛け前から...」


「お母さん!」


燈が赤くなった頬で、小さな咎めるような声を出した。


恵子は優しく笑い、


「はいはい。まあ、そういうことです。お二人は久しぶりなんだから、ゆっくりしなさい。わたしは、静さんとお話しているわね」

と続けた。


頼は、海軍士官としての完璧な所作で頭を下げようとしたが、できなかった。


彼の視線は、隣の女性に釘付けになっていた。


「……頼さん、おかえりなさい」


燈のその一言は、美保関の惨事によって背負った、重い責任と罪の意識から、彼を一時的に解放するかのような、この時代で頼(らい)が求めていた唯一の安らぎの音色だった。



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