ありがたいお仕事?その5

皿には一つのよく熟れた桃がのっている。


彼女はそれを皿から取り上げると。なんと、ためらいもせず俺の目の前でそれを両手で握りつぶして見せた。


そして滴る果汁を一通り皿に受けさせると、彼女は実を近くのゴミ箱に投げ捨て、果汁の入った皿の方をこちらに差し出す。


そして彼女は、とんでもない事を口走った。


「じゃ、これで目を洗って」


「目を?」


 唐突で奇怪な要望に思わず目をむく俺。


そしてそれにやはり笑顔で頷いた。


「うん、人間の目って知らんとる間に結構穢れてるから、水くらいじゃ足らんのよ。まぁ、消毒みたいなもんやね」


 消毒って……。


 一瞬、聞き違いである事を願ったのだが、ご丁寧に添えられた彼女の言葉は間違いなくこの桃の果汁で自分に目を洗えと指示してるようだった。


 俺は彼女の言葉に戸惑いながら皿を覗き込む。


 なぜ、消毒せねばならないのか?


いや、それ以前になぜ桃の汁でなくてはならないのか?


 もしかしてこれは手の込んだ悪戯か何かなのだろうか?


ごく一般常識として、こういうもので目を洗えばどういう事になるのか想像に難くない。俺は皿をのぞき込みつつ、もう一度二人顔色を伺った――。


「どないした?」


 ヤバイ。


 ……目の前の二人はいたって大真面目だ。


いや、むしろこちらの動向を不思議そうに覗き込んでいる。


 ……一体コレは何の冗談なのか。


悪戯かどうかを確認しようかという考えもしたが、周囲はとてもそんな事を聞ける雰囲気ではなかった。


俺はじっくりと気を落ち着かせながら、さらに満たされた桃の果汁と、まじまじとこちらを見つめる彼らを交互に見つめ、今、自分の成すべき事について必死に考えた。


 ……。


……やるか。


逃げ出すにしろ、騙されるにしろ。相手の機嫌を損ねていいことはあるまい。


永遠と思える時間、彼らと無言のまま見つめ合った後、俺は意を決して手で果汁をすくい、そして、それを目にすりつけた。


 そして……。


痛い!


俺は予想通り目に襲いかかる激痛に思わずその場にうずくまってしまった。


 目が痛い!目が開けられない!


涙が止まらなくなった上に果汁の糖分がまぶたを接着し、瞬きをする事もままならない。


暗闇に包まれた恐怖と激痛でうめき声を上げる俺に彼女は落ち着いた様子で水に濡れたタオルを差し出した。


「はい、これでぬぐって」


 暗闇の中聞こえる声に、すがる思いで俺はタオルに飛びつく。


タオルでぬぐってようやく目を開けた俺は――。


 ――。


 ……。


……俺はそこで見えたものに、言葉を失った。


「なんか見えるか?」


 口をあんぐりとあけてその光景を眺める俺に、社長はまるで医者が症状を確認するように尋ねる。放心状態の俺は、「それ」を凝視しながら、口を空けたままで見えたものを正直に申告する。


「……エイが、飛んでます……」


 ――そう、俺の眼前に展開されていたのは、社長の背後を飛ぶエイの姿だった。


それは事務所の空間を悠々と飛んでいる。


優雅に、海中を泳ぐように……。


一瞬トリックを疑ったが、それは紛れもない生物で、ご丁寧にエラらしいものをパクパクさせている。体中に魚介類特有のぬめりや光沢があり、やはり釣り糸らしきものは影すら見ることが出来なかった。


「ほう、見えたか」


信じられない光景。


普通なら口で言っても信じてもらえないような報告を、社長は感心したように答え、帳面になにやら書き込んでいる。


さも当たり前と言うような彼の動きに俺は返事をするのも忘れ。呆然と優雅に宙を舞うエイを眺めていた。


「じゃあ、次。隣になんかおるか?」


そんな俺に、社長は医者のような口調でこちらに指示を出す。


彼の言葉に従って隣のソファに目をやる俺は……。



俺は「そこに居たモノ」に思わず顔を引きつらせて身をよじった。


そこに見えたのは……人?


先ほどまで誰もいなかったはずのその席にいたのは、年老いた一人の老人だった。


白い服、頭に三角の頭巾を被った彼は絵に描いたようなさながら「幽霊」……と、いうか幽霊そのものの姿でいつの間にか俺の隣に座っていた。いつの間に俺のここに滑り込んだのかは分からないが、すぐ隣の席の彼は、青い顔のままでのん気にお茶をすすっている。


彼と目を合わせ、反射的に会釈すると、彼は穏やかな顔でそれに答えた。


「……ふむ、そっちも見えたか。たいしたもんやな」


驚いて声も出ない俺。


だが社長はそんなやり取りが見えているのか、それに感心して頷いている。


そして帳面にさらになにやら書きこむと、大きく頷いて立ち上がった。


「まぁ、これやったら仕事にも支障はないやろ。合格や!明石君。仕事の説明したって」


「はいな」


 唖然とする俺を横目に社長は彼女にそう言うと隣の老人と共にパーテーションの向こうの事務所に消えていった。

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