第1回 早朝

 嘉慶八年閏二月十七日。


 この世の真理を最も端的に、短く言い表した言葉は何か?もし自分がそう問われたとしたら、迷わずこう答えることだろう。


「春眠暁を覚えず」


 と。孟浩然のなんと偉大なことか、その教えの素晴らしさたるや、孔子や老子を優に凌ぐ。


 そんな与太話を頭の中で考えながら、ぼく──瀏親王リュウしんのう永暁ヨンヒョオは、春の陽気に晒されてすっかり怠惰に成り果てた脳みそをなんとか覚醒させて、今にも眠ってしまいそうな自分をどうにか馬上に繋ぎ止めていた。


 歳の頃は二十一歳、学識も武芸も共に身につけたという立派な貴公子……のつもりではあるが、どうも顔貌の方はそれに付いて来てくれず、この歳になっても未だに少年、剰え女の男装に思われることさえある。


「永暁さま。居眠りは危険です、馬から落っこちますよ」


「大丈夫だ。ぼくの馬は賢いから、決して主人を振り落としたりなどは……」


「振り落とさずとも、道を間違えることはあるかも知れませんよ。京師の道の複雑さは、永暁さまとてよくご存知でしょう?」


 すぐ隣を歩く包衣ボーイ──アルサラン──に揺り起こされながら、ぼくはぐるりと京師の内城の街を南から東へ回り込み、左手に天安門、右手に大清門を望む丁字型の通りに出た。


 朝の澄明な空気を引き裂いて、今にも辺りを鉄火場と化してしまいそうな熱気を帯びた人々のざわめきが、馬上の自分から心地よい微睡の残滓を容赦なく奪い去っていく。


 天安門から大清門に続くこの小さな通りは、我が大清帝国の中枢をなす官庁街であり、吏部を筆頭に政治の実務を担う六部の本営や、都察院、大理寺などの監察・法執行を司る役所、この他欽天監、太医院など宮廷の様々な事項に従事する専門職官衙等が軒を連ね、この位の時間になると出勤する官僚たちで道はごった返す。


「ええい、どけ、どけ!親王殿下のお通りであるぞ!」


「おい、そう乱暴にするな……他の官とて、皆しっかりと働いておるのだからな」


「はは……しかし、」


「構わない。上手くよけていくからな」


「はい?」


 と、ぼくは半分眠ったまま馬の手綱を引いて前を歩かせ、次々と出入りを繰り返す諸官の間を器用に潜り抜けて、自分の職場の建物を目指した。


 馬の下には参内の為に用立てられた暖帽が赤色の海をなし、もう少し目を凝らしてみると、彼らが各々羽織っている石青色の補掛が飛び込んでくる。


「ちょっと、永暁さま!」


「いってぇ!気をつけろ馬鹿!」


「申し訳ありません!」


 足を他人の弁髪に絡ませたり、裾余りの官服を踏ん付けてすっ転ばせたり。引き離されたお付きの連中は人波を蝸牛の様にゆっくりと進みながら、それでも一歩ごとに問題に見舞われていた。


「はっははは、下手くそめ」


「永暁さま、あとで覚えていてくださいね!」


 アルサランの悲痛な叫びもどこ吹く風、むしろ一番の良い目覚ましだと心得て、ぼくは大胆に前へと歩き続ける。程なくして働かされている職場の楼門が見えてくると、青地に金色の文字で『宗人府』と記された扁額の下に立つ番兵が慌てて門を開けて、随行を一人も連れぬままやって来た上司を中に招き入れた。


「よし、そのまま開けておけよ!」


 群衆の中であるにもかかわらず、ぼくはぴしりと馬の尻に鞭を当て、そのまま蹄の音も軽やかに門を潜り抜けた。前庭で落ち着かせてそのまま降りると、一旦門を閉めようと動き回る連中を制して、


「後からボンクラどもが戻って来る。まだ開けておいてくれ」


「か、畏まりました」


 敷地の中を忙しなく歩いていた連中は、皆一様にぼくの姿を見て唖然としていたが、それを細かく気しても全く仕方のないことだ。むしろ親しげに背中を叩いてやって、


「おはよう、いい朝だな」


「は、はい!そうですね殿下!」


 このくらいのことをやる気概は見せてやらねばならぬ。そうすれば、連中はじきに何一つ面倒なお節介を焼かなくなるのだから。


「瀏親王殿下のご到着です!」


 役所の主屋に設けられた官僚達の部屋に入ると、既に用意を整えて仕事に掛かっていた理事官や郎中といった者達が一斉に立ち上がって、腰を深く曲げた礼をする。ぼくはこれまた一人一人肩を叩いてやって、


「柳某、最近二人目が生まれたらしいな」


 とか、


「田某、田舎のお袋さんは元気にしているか」


 などと声を掛ける。帰って来るのは皆一様に、


「はい、親王殿下のおかげを持ちまして!」

 これだけだが、ぼくは特段失望を覚えることもなく、そうかそうかと鷹揚に頷いてやった。正直、どいつもこいつも芸の無い答えだと思わないではなかったが、それを表に出さないのも上司としての『身だしなみ』である。


 さて、それでは仕事を始めようか。ぼくが官僚達の仕事部屋の隣に作られた執務室に入り、一際豪華な紫檀材の机に座ろうと椅子を引き出すと、どすどすという乱暴で大股な足音と共に、一人の男が部屋に入ってくる。ぼくの包衣である。


 彼は服装こそしっかりと朝廷に勤務する官人のそれだが、全身にだらだらと冷や汗を掻き、精悍な顔つきには疲れと焦りがすっかり滲み出ている。乱暴に帽子をとって蒸れた頭を布巾で拭うと、ギロリと主人を睨みつけて、


「永暁さま、わたしが何を言いたいのか、はっきりお分かりになりますね?」


「おっと、済まないな。今はお説教に付き合ってはいられないのだ、アルサラン。何しろ、帝から届けられた大切な仕事が山積みだからな」


「嘘を言わないでください、宗人府に着任してからというもの、ろくに仕事らしい仕事なんか回ってきてないじゃないですか。二、三通判子を押したらあとは日がな一日暇してるくせに」


「おい馬鹿、それは建前を無視してるぞ!建前を無視したらどうにもならないじゃないか!」


 お互い大人気なく言い争っていると、やがて天安門の方から始業を告げる重々しい鐘が鳴り響き、仕事部屋の方から聞こえてきた雑談がぴたりと収まる。このまま罵り合いを続けていては、他の連中にも筒抜けだ。


「……仕事でもするか」


「……そうですね」


 どちらからともなく口を噤んで、机に向かって夜の間に溜まった書類に目を通し始める。少なくとも午前中の間は、こんな調子で回っていくのがいつものことであった。


 が、これも単調な仕事ばかりが続くこの部署では程なくして崩れ去り、ぼくの内側に久しく巣食っている蛮勇にも似た冒険心が火を噴き始める。


「アルサラン。仕事にも飽きてきた。何か面白い話でもないか」


「仕事に飽きた……と、言われましてもねえ。近頃は永暁さまがお好みになられるようなお話にも聞き覚えがございませんし……」


「それをどうにかするのもお前の仕事の内ではないのか、貰っている俸禄の分くらいには仕事をしろ」


「そんな無茶苦茶な……ええと、じゃあそうです、『鍵をかけた密室のはずの蔵から、突如として食物が消えてしまう』事件、なんて噂は……」


「どうせ天井裏にネズミが住み着いている、という程度のオチだろう。下らん、ほかのものを出してこい」


「そんな無茶苦茶な……」


 かくして、嘉慶八年閏二月十八日は、何事も無いまま平穏に幕を開けた。しかし、朝のこの出来事は嵐の前の静けさに過ぎず、ぼくとアルサランにとっては、これより先何よりも長い一週間が始まろうとしていたのである。

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