第6話 食事について
伯爵家の食堂には、早朝の光が柔らかく差し込んでいた。
作物の収穫は芳しくない。
交易路も整備が遅れ。
森の魔物による被害。
など話されており、領内の状況は相変わらずよくない事が聞き取れた。
兄。セドリックは朝食を食べると、白磁の皿の前で指を組んでいた。
「……ふむ。この香りは、昨日よりも少し柔らかいね。まるで春先の風が、遠くの庭へ誘ってくるようだ」
言葉は囁きのようでもあり、世界を賛美する詩のようでもあった。
「……この味わいは深い。けれど、押しつけがましくはない。奥ゆかしく、静かに寄り添ってくる……そういう味だ。」
そして最後に紅茶を口へ運んだ瞬間——
彼の長い睫毛がふわりと震え、静かな吐息がこぼれた。
「……美しい朝だね。」
セドリックのその一言は、朝食の味を評しているのか、紅茶への感想なのか、それともこの世界そのものへ向けての賛歌なのか、誰にも断定できなかった。
ただひとつだけ確かなことがあった。
クラリッサは華麗にスルーした。
クラリッサは、朝食後、書斎へと移動した。
「さて、マリア。さっきの食事を見てどう思った?」
「セドリック様。相変わらずお美しい……朝から御尊顔を拝謁できて、幸福の到りですー。」
「そっちじゃない。料理について。」
「どうって、豪華な食事だなーとしか……」
「明らかに炭水化物と脂質に偏っていたでしょう!!」
クラリッサはすごすごと、羊皮紙と筆を持ってきた。
パンと果物と揚げたポテトと少しのチーズ。先ほどの朝食をすらすらと描く。
「わっ。なんだか可愛らしい絵ですね。クラリッサ様もこういうの好きなんですね。」
「なわけないでしょ。ボロが出ないように、練習しただけ。大胸筋とかリアルに、解剖学的に書かれても反応に困るでしょう?」
「今まさに反応に困ってます。ちょくちょく禁忌に触れてるような発言については、どうすればいいんでしょうか。」
「説明するわね。」
「わー。話きいてないやー。」
「筋力を支えるタンパク質がほとんど足りてない。私の体は成長期で、筋力トレーニングもしていますから、エネルギー消費量を釣り合わせないと……」
クラリッサはイラストに数値を書き込んでいく。
「タンパク質の必要量、脂質と炭水化物の比率、基礎代謝をふまえた食事量。せめてこれくらいは最低限やってもらわねばらないと。無駄が多い。やれやれ、頭の痛い話よね。」
「……あの……クラリッサ様。食事は家の威厳を見せるという儀式でもあるのですが……」
「そもそもの計算が足りてない。ふざけているのかなって」
「変なとこで厳しいですよね。クラリッサ様って。じゃあどうするんですか?」
クラリッサは軽く微笑み、上品に顎を上げる。
「厨房へ行きます」
厨房に入った瞬間、空気が微かに張り詰めた。
戸を開けると、香ばしいパンの匂いと、煮込みの湯気が一斉に彼女を包んだ。
使用人たちは慌てて頭を下げる。
伯爵令嬢が台所に足を踏み入れるなど、前代未聞だった。
調理人たちは互いに目を合わせ、眉をひそめ、手に持った鍋やトレイを思わず止める。
「……あの、クラリッサお嬢様、何か……?」
老料理長マリオンが、しわの深い手を止め、驚いた顔で尋ねた。
クラリッサは真剣そのもの瞳で答えた。
「マリオン、食事についてお願いがあるの。」
「は、はい。お願いですか?」
「1日に体重×2gのタンパク質量が必要です。この体の体重は20kg。必要摂取量は、40gほど。大した量ではありません。肉にすれば1日200g程で事足ります。卵なら8個。」
「な、なるほど?」
「至急、私の今あるお小遣いで、今すぐ買い付けを行い、私のタンパク源を確保してください。乳製品、乾燥チーズ、干し肉、干し魚、ナッツ、豆加工品──今のままじゃ足りなすぎる。」
台所が静まり返った。
料理人たちが目を見合わせる。
没落の影が忍び寄る伯爵家で、“足りない”という言葉は、最も重い響きを持っていた。
「あの……どういう……足りない……とは……?」
クラリッサは小さな拳を握った。
「6歳の幼女の基礎代謝が1000kcal近く。活動代謝まで含めれば1400calほど。PFCバランスを考えると遊びは驚くほど少ない。
まだ内蔵が成熟しきっていないから。食べすぎると、お腹痛くなって吐いてしまうし。」
「PFCバランス……?」
「人間がカロリーを生成できる栄養素は、炭水化物、脂質、タンパク質の3つしかありません。その割合のことですね。あとで資料渡します。」
澱みなくクラリッサは語る。
料理人たちは、誰も声を出せなかった。
六歳の令嬢が、厨房で“食事”を語っている。
だが、その目の真剣さは、誰の冗談とも思えなかった。
「すでに父である伯爵に、許可はとっています。どうかあなた達の力を貸してください。」
老マリオンは、言葉を探すように沈黙した。
この子は、かつて病弱で寝込んでいた。
それが今、自ら台所に立ち、体を鍛え、食を求めている。
「……承知しました、お嬢様。台所の誇りにかけて、クラリッサ様のお体を守りましょう。」
彼は深く頭を下げた。
他の料理人たちも次々に敬礼する。
食堂を後にする。
「良かったですね。クラリッサ様。これでおやつ食べれますね。」
「由々しき事態よ……」
「え……?」
「食糧庫と帳簿を見たわ。肉類、魚類、豆類。ほとんど他領からの交易に依存してる。最悪よ……どうするのよ。財源もそんなに充実してないのに」
「あの……?クラリッサ様?」
「父上が不況で凶作って言ってたわね。……領土自体が潤ってないんだ。生産の仕組みが弱い?リスクヘッジが足りていない?幸い、他の領との関係性が悪くないから……だめ。お金自体がない。」
マリアは、一瞬その言葉の意味を測りかねて沈黙した。
彼女の歳を考えれば、あまりに政策的で、あまりに領主的発言だったからだ。
クラリッサは続ける。
「家畜産業の政策は後で出すとして…… タンパク質を安定供給する体制が整うまでのタンパク源をなんとかしないと。
お小遣いなんてすぐに終わっちゃう……食糧事情を根本的改善するには改革が必要……だが、何年もかかってしまっては……もう!!」
「ひえっ!!」
先ほど確認した棚に並ぶ穀物や保存食を思い返しながら、クラリッサの思考は次々に未来の課題を巡る。
すでに転生して何日も立っており、下調べくらいは終わっている。
領内の治安も悪化。
盗賊や不正取引による損失。
それらを是正し、交易路を整備し、流通を再度活性化させるには、膨大な時間と資源が必要だ。
「まずい……このままでは、断罪イベントの年数に達してしまう。」
「決めました。」
「な、なるほど、決めたんですね」
「まずは、領内のタンパク質の“食料自給率”を高めます。」
「食料自給率……」
クラリッサの言葉は、静寂を破る雷鳴のように響いた。
「魔物を食べます」
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