アーカムのスティーブ・ハリソン

小倉蛇

第1話「失われたものたちの町」

CTHULHU MYUTHOS CYCLE 1940


The Adventures of Steve Harrison vol.1


'Steve Harrison in Arkham'


ep.1 "Country of the Lost"



「とすれば、古い伝説は真実だったわけか」と、王は感じ入ったように告げた。「冒瀆の罪により死を賜ることを恐れて、口にする者とてほとんどいない、ぞっとするような昔話は、作り話などではないのだな」


――ロバート・E・ハワード「影の王国」(森瀬繚訳)



   1.


 最小限の荷物を詰めたトランクを片手に、スティーブ・ハリソンはアーカム駅に降り立った。

 他の客たちは足早に立ち去り、列車が出るとホームに残されているのは彼ひとりだった。灰色の雲がたちこめた空の下、目の前には広大な操車場があったが、何本もの平行な線路には空っぽの貨車がまばらに放置されているだけで、まるで活気がなかった。

 見物がてら町をさまよっているうちに目的の通りに着いた。バビロン通りの《オニオン荘》それが彼の新しい住居だった。通りの中程でそれらしき建物を見つけた。入り口に金属製のプレートが掲げられているが、オニオンの一つ目のnが腐蝕しているせいでオリオンと読めた。

 玄関に入っていき、不愛想な老婦人の大家から鍵を受け取った。三〇二号室が彼の部屋だ。エレベーターは故障中のため階段で三階まで上った。廊下は回廊状になっていて中央部は吹き抜けになっていた。

 部屋の中は、すでに家具が整えられ、生活に必要なものはあらかた揃っていた。テーブルの上には車の鍵と新聞、それと私立探偵の許可証が置かれていた。新聞はアーカム・アドバダイザーで、一面には大きく「キングズポート沖に謎の潜水艦あらわる」と見出しが書かれていた。

 許可証を見ると、名義はスティーブ・ハリソンとなっていた。手回しのいいことだ。ぬかりなく用意された部屋。だが彼は、自分と同名の他人の部屋に迷い込んでしまったような気がしていた。

 電話が鳴った。受話器を取ると聞き憶えのある声、甲高くかすれた声だ。

「部屋は気に入ってくれたかな?」

「ああ、悪くはないようだ。ミスター・マグヌス」

 マグヌス氏――この人物がロサンゼルスの刑事だったスティーブ・ハリソンをこのアーカムへと招き寄せたのである。一九三九年十二月、ハリソンは、リバー・ストリートでの犯罪捜査を担当していた。ある時、彼はかねてより追跡中だった《翡翠の猿》盗難事件の犯人を、チャイナタウンのレストランへ追い込み、そこで大乱闘となった。犯人は無事逮捕したものの、その際、《スカラベのスープ》という珍しい高級料理を床にぶちまけてしまった。それはチャイナタウンのボス傅満洲フー・マンチューのために特別に用意されたもので、十年に一皿しか作れないとされる大変貴重なものだった。楽しみにしていたディナーを台無しにされた傅満洲は、怒り心頭に発し、香港から呼び寄せた暗殺団《九龍的爪クーロンズ・クロー》にハリソンの命を狙わせた。超自然的な技を繰り出す暗殺者たちを相手に、ハリソンは苦戦を強いられ、追い詰められていた。そこへこの謎の人物、マグヌス氏からメッセージが届いたのである。ロサンゼルスからの脱出を手引きするのと引き換えに、しばらく自分のもとで働いて欲しいということだった。得体の知れない相手だったが、ハリソンはこの話に乗った。

 その結果、与えられたのがここマサチューセッツ州の小都市アーカムでの探偵仕事というわけだった。ハリソンにとってこれはあくまで一時的な退却で、傅満洲とはいずれ決着をつけるつもりだった。

「早速だが、君には仕事にとりかかってもらいたい」電話の相手は言った。

「何をすればいいんだ?」

「ある物を探すのだ。それは最近このアーカムに持ち込まれた。まあ、一種の宝石と思いたまえ。大きさは野球のボールより少し小さいぐらい。黒い石だが光を当てると緑色に輝く。名を《ナトの夜》という」

「どこを探せばいいんだ?」

「このアーカムのどこかだ」

「それだけじゃ探しようがないぜ」

「その石は魔術とかかわりがあるのだ。よって、魔術とかかわりのある人物をあたりたまえ」

「そんな人物がそうそういるものかね?」

「ふふふ、ここは死都アーカム、失われたものたちの町だよ」

「ふむ、なかなか楽しい滞在になりそうだ」

 皮肉を言われたのが気に入らないのか、マグヌス氏は少し間を置いてから言った。

「とにかく君は私立探偵としてふるまわなくてはならん。仕事はいつから始められる?」

「いつでも」

「ではまず依頼人に会いに行きたまえ」

「誰です、それは?」

「オスカー・ドーソン、ミスカトニック大学の考古学博士だ」



 ハリソンは部屋を出た。アパートメントの裏手に専用駐車場があった。彼に割り当てられた区画に停められていたのはフォルクスワーゲン・ビートルだった。車体のあちこちに錆が浮いていて、雨の日に運転したら水が漏りそうだった。このご時世にドイツ車か、と嘆きたくなったが、無料で使わせてくれるんだから文句も言えない。いや無料じゃないぞ、俺は仕事をするんだからな、と元気を出して車に乗った。キーをまわすとエンジンは滑らかに起動した。アメ車より静かだ。

 ミスカトニック大学にはニ十分ほどで到着した。適当に開いている場所に車を止めた。昼下がり、空は相変わらず暗い雲に覆われていた。広いキャンパスだが、人の気配はなく静かだった。事務室を見つけて、そこで「ドーソン博士に会いたい」と告げると、考古学棟の場所を教えてくれた。

 事務員から連絡があったのだろう、考古学棟では恰幅のいい男が入口でハリソンを待ちかまえていた。

「よく来てくださいました。私はオスカー・ドーソンです。あなたが私立探偵?」

「スティーブ、ハリソンです」探偵は自分の名を告げた。まだ私立探偵などと呼ばれることには慣れていなかった。

 ドーソン博士はハリソンを部屋へ案内し、紅茶を淹れてくれた。LAではもっぱらコーヒーで紅茶など飲むのは何年かぶりだった。

「アーカムにはいつ来られたのです?」博士が質問した。

「今日の午前中ですよ」

「おお、それでもう仕事を」

「準備は万端整っていましたんでね。遊んでいても仕方がない」

「それは頼もしい。いや、私も同僚が失踪してしまって心配していたところなのです」

「失踪ですか?」

「ええ、セバスチャン・ベルガー教授という男です。ああ今、写真を……」

 博士はデスクをかき回して見つけ出した写真をハリソンに渡した。男が二人、奇怪な石像をはさんでの記念撮影といったものだった。

「二人でメキシコへ調査旅行へ行った時のものです。もう十年ほど前のもので、セバスチャンはこの時より少し瘦せています」

 ドーソン博士のほうはこの写真よりだいぶ太って見えた。

「少し偏屈なところもあるが、熱意のある学者でね。学生時代に「バーモント州の民間伝承」という論文をまとめていて、これが単なるフォークロアの収集にはとどまらない深い洞察に満ちた考察だった。私の研究とも近いものがあったので、二人でメキシコへ行くことになったのだ。そこで得たものはお互いの研究を大いに進展させた。だがセバスチャンは、それだけでは飽き足らず今度は単身アラスカへと旅立った。そこでいったい何を見たのか。帰ってきた彼はすっかり人が変わって、図書館にある古い書物を読み漁るようになり、南極探検から帰国したダイアー教授にもしつこく質問して煙たがられていたほどだった」

「何をそれほど熱心に調べていたんです?」

「ひとことで言えばそれは《旧支配者》ですな。つまり、われわれ人類がこの地球に誕生する以前から存在した神々のことです」

「それはまたスケールの大きい話ですな。そう言えば新聞で読みましたよ、南極探検隊が人類以前の遺跡を発見したとか」

「この大学から派遣されたパボーディ探検隊ですな。この探検では多くの死者を出してしまったのですが、生還したダイアー教授は《狂気山脈》と呼ばれることになる場所で《旧支配者》が実在した証拠を目撃したと報告した。だが、その後、スタークウェザー=ムーア探検隊をはじめいくつかの探検隊が南極へ派遣されたのですが、いずれもそれらしい山脈など発見できずにいます。これは、氷の厚みが増したためとか、大規模な地盤沈下があったのだとか、さらにはパボーディ探検隊は異次元に迷い込んでいたとする説まであるのですが、結局真相は不明です」

 ドーソン博士はふと目を窓の外へ向けた。ハリソンもその方向を見たが変わった様子はなかった。博士は話を続けた。

「ダイアー教授は太古の地球で神々のあいだで戦争があったと主張しています。その戦いの一方の神の名がクトゥルーだというのですが、このクトゥルーという名は、数年前、ボストンで発見されたある文書の中にもあらわれていました。これは自殺したと思われる人物の遺書のようなものですが、それによるとクトゥルーは南太平洋の海底にあるルルイエと呼ばれる神殿で、今も眠りながら悪夢を通じて人類に影響を及ぼしているとか、そしてこのクトゥルーを信仰するカルトが存在し、その秘密を暴こうとするものをつぎつぎと暗殺しているというのだから物騒な話です」

「このアーカムにもそんな教団が?」

「いえいえ」ドーソンは苦笑を浮かべて言った。「ここアーカムは、十七世紀にセーラムでの魔女狩りを逃れた人々が住み着いた地であるため〈妖術の町〉だなどと呼ぶ人もいますが、じっさいは穏やかで平和な町です。住みやすいところですよ。もっとも、探偵稼業には向かないかもしれませんが」

「だが、失踪してしまう者もいる」

「そうですな、セバスチャン・ベルガーは……、いや、じつのところ私には彼がなぜ姿を消してしまったのか、まったくわからないのです」

「彼を最後に見たのは?」

「二週間ほど前です。図書館へ借りていた資料をまとめて返却していました」

「資料の返却ですか。それは自らの意志で、失踪のための準備をしていたということでは?」

「さあ、単に研究に一区切りがついて返却しただけのことかもしれませんし」

「教授の失踪と彼の行っていた研究に関連があると思いますか?」

「どうでしょう、彼がメキシコから帰って、書き始めた論文は「『ナコト断章』におけるムノムクアー崇拝」というタイトルのものでした。書き進めるうち芋づる式に研究すべきテーマが増えていって、ついにはアラスカまで調査に出かけることに。そこから帰ってくるとより偏執的になって研究に熱中している様子でしたが……」

 ハリソンはさらにいくつか質問をしたが捜索の役に立ちそうな情報は得られなかった。セバスチャン・ベルガーの住所を書いたメモをもらい最後に聞いた。

「ダイアー教授に話を聞くことはできるでしょうか?」

「それは無理です。彼はいまオーストラリアで、ナコトゥスという遺跡の調査を行っています。最近帰国した研究員は、日本の軍人が遺跡を監視していると言って不気味がっていましたね」



 ドーソン博士に別れを告げたハリソンは図書館へ向かった。受付にいた若い男に話しかけた。

「セバスチャン・ベルガー教授を知ってる?」

「ええ、もちろん。よく本を探すお手伝いをしました。あの人、行方不明なんでしょう。心配ですね」

「何か行先とか心当たりはないかな?」

「いや何も。仲間内では空飛ぶ円盤にさらわれたんじゃないかなんて言ってますけど」

「えっ、何それは?」

「丸いお皿みたいなものが空を飛んでるんです。それが空飛ぶ円盤。目撃者が結構いるらしいです」

「それが人をさらうの?」

「はい。空飛ぶ円盤て言うのは宇宙人の乗り物だって説があって、人間を調べてるんっだって。あと彼らが興味を持ってるのは牛ですね」

「牛か……」

「それとはべつに、あれはナチスの秘密兵器だって説もあります。ナンタケット島がじつはすでにドイツ軍に占領されていて、そこに建設された基地から飛んでくるんだそうです」

「島の住人はどうなったんだ?」

「催眠術で操られてるんですよ。それでふだん通りに行動してるんです」

「あり得んな。ドクトル・マブゼじゃあるまいし」

「そうかなあ、だってほら、潜水艦だって目撃されてるんでしょう。Uボートってやつ。キングズポートとか、インスマスとかで」



   2.


 スティーブ・ハリソンはミスカトニック大学を後にした。結局、得られた手がかりはベルガー教授の住所だけだった。マグヌス氏からは、依頼された仕事は適当にこなせばよいと言われていた。「君の本来の任務は私の宝石を探しだすことだ。それを忘れるな」と。だが、ハリスンはいい加減な仕事をする気はなかった。おれは警官だ。事件があるならとことん調べてやる、そう思っていた。彼はビートルをメモにあった住所へ向かわせた。



 その家はダウンタウンの外れにあった。あまり裕福そうには見えない小さな家が点々とならぶ地域だった。ハリソンは通りから数段の階段を上がって〈ベルガー〉と表示のあるドアの前に立った。呼び鈴を押しノックをしたが、やはり反応はない。教授は家族もなく一人暮らしなのだった。

 ドアには鍵がかかっている。どこかに予備の鍵が隠されていないか探してみた。ドアマットや植木鉢の下などにはなかった。階段はレンガ造りだった。よく見ると、レンガの一つに周囲のセメントがひび割れているものがあった。何とかつかみ出してみると、そこに鍵があった。

 家に入ることに成功した。入るとすぐそこはキッチン付きの居間だった。ハリソンは開けられる扉はすべて開けたが、人間が隠れているというようなことはなかった。どこも乱雑に散らかっていた。本がたくさんあった。

 机の上には、新聞の切り抜きが何葉か重ねられていた。「沼地をさまよう怪物」「未知の色に覆われた土地」「森に潜む巨大蛾」そうした記事が集められているのだった。さらに引き出しの中などを調べようとしていると、近くで車の止まる音がした。この家のすぐ前だ。

 ハリソンは音もなく素早く窓際に身を寄せた。カーテンの隙間から外の様子を窺うと、彼のビートルの後にロードスターが止められていた。若い女がドアに近づいてくるところだった。

 呼び鈴のブザーの音がしつこく鳴らされた。控えめなノックの後、ドアがゆっくりと開けられた。足音をしのばせて女が入ってきた。ハリソンはドアの影から短く口笛を吹いた。侵入者は驚いてふりかえった。

「わ、私、けっして怪しいものでは……だって、ドアが開いてたし……」女は突然、言い訳をやめて彼をにらみつけた。「あなた、ベルガー教授じゃないわね。あなたは誰?」

「おれは刑事ディテクティブだ」

「刑事……ああ、スルース、探偵ね。あなたのこと知ってるわ、スティーブ・ハリソンでしょう」

「おう、なぜおれの名を?」

「だってうちの新聞に広告を出してたじゃない」

「広告、そんなもん知らんぞ……いや、誰が出したかは見当がつく。で、君は?」

「私の名はセシル・オースティン。アーカム・アドバダイザーの記者です。どうぞよろしく」

「ここへは何しに?」

「セバスチャン・ベルガー教授が行方不明になったと聞いて取材に来たのよ」

「ここには誰もいないぜ」

「あなたがいるじゃない。手がかりは見つかった?」女記者は部屋を見わたし、机に歩み寄った。「新聞の切り抜きね……あっ、見てこれ、私が書いた記事」

 セシルが摘まみ上げて差し出したのは「猫の呪いで死んだ夫婦」という記事だった。

「きみはオカルト専門ってわけ?」

「べつに専門ってわけじゃないけど、まあうちの新聞がゴシップとオカルトで持ってるようなものだから」

「まじめな記事はないのか?」

「そういうのを読みたい人はアーカム・ガゼットを買ってるわ……あら!」

 セシルが何かを見つけた。切り抜かれた記事の中に埋もれていた紙片だ。こんな手書きのメモだった。


  レイヴン 1.9


「レイヴン……ポーの詩かな、この数字は何かしら?」とセシル。

「日付では。一月九日といえば、今日だ」ハリソンは言った。

 セシルは何かひらめくものがあったらしく、近くにあった本を手に取った。裏表紙を開いて言った。「値札が貼ってある。大鴉書房レイヴン・ブックスという古書店の。住所はリバータウンね」

「つまり、今日、その店に何かが届く、という意味かもな」

「ならば、教授はそこに現れるかもしれない」

「リバータウンってどこだ?」

「ついていらっしゃい、探偵さん」彼女はドアへ向かった。



 リバータウンにはうっすらとした霧が漂っていた。海上の霧がミスカトニック川に沿って流れ込んでくるのだ。

 セシルのシボレーが、こじんまりとした構えの店の前で止まった。ハリソンもビートルをその後ろに止めた。《大鴉書房レイヴン・ブックス》と木彫りの看板が出ていた。入口のドアの上には〈またとない〉と書かれたプレートが取り付けられていた。

 店内は狭い通路の両側に本がぎっしり詰まっていた。二人は奥まで進み会計カウンターまで来たが、店員の姿はなかった。

「いい雰囲気の店ね」セシルが本棚を見ながら言った。「なかなかのセンス……見て、ジャスティン・ジェフリーの詩集『石碑の人々』があるわ、こっちにはロバート・ブレイクの『星から来て饗宴に列するもの』も……あっ『黄衣の王』まである、呪われた戯曲だけど、本物かなあ」

 ハリソンはレジの横に置かれていた本を手に取った。「こっちにも君の気に入りそうな本があるぞ。『ダニエル・デインの降霊術入門』」

「知らない本ね」セシルは本を受け取ってページをパラパラとめくった。「著者のサインが入ってる。でも、値札は付いてないわ」

 ハリソンは本をもとの場所へ返した。

「しかし、店を開けてるのに店員がいないのはおかしいな」

 彼はカウンターを拳で叩いて「こんにちわ」と呼びかけた。が、反応はない。二人は顔を見合せた。

「奥を覗いてみるか?」とハリソン。

 セシルは「うん」と頷いた。

 ハリソンはカウンターの奥にあるドアをあけた。二、三歩中へ踏み込むと、すぐに引き返しドアを閉めた。

「ちょっと、どうしたのよ?」

「大変だ、死体がある」

「えっ」

「それも、血まみれだ」

「冗談はやめてよ」

「本当だ」

「本当、だったら本当に死んでるか確かめないと」

「それもそうだな。きみは来なくてもいいぞ、お嬢さん」

 ハリソンはふたたび部屋へ入った。セシルもついてきた。

「死体を怖がってたら新聞記者はつとまら……」死体を見て女記者は言葉を詰まらせた。

 じっさい死体はすごい形相だった。両手は指を猛禽のように曲げた状態で固まっていた。全身血まみれだった。何か所も刺されているらしいことが血のにじんだ場所でわかった。確かめるまでもなく明らかに死んでいた。血液はまだほとんど乾いていない。被害者は男性で五十歳ぐらい、エプロンと腕カバーを身につけていることからするとこの店の店主と思われた。

 凶器として使われたと思しき千枚通しが近くに落ちていた。重ねた伝票などにまとめて穴をあける道具だ。

「警察に知らせた方がいいな」ハリソンは言った。

「カウンターの下に電話があったわ」セシルが言った。顔色が青ざめていた。

 二人で店頭へ戻り電話を見つけた。ハリソンが受話器を取るとセシルが言った。

「待って、パトカーのサイレンが聞こえる」

「うむ、だがここへ来るとは限らんさ」

 サイレンは明らかに近づいてきていた。そしてすぐ近くで止まった。まもなくスーツ姿の男が二人店に入ってきた。一人は長身で灰色のスーツ、もう一人はごつい肩をしていて茶色のスーツだった。

 茶色のスーツのほうが、ハリソンと目が合うなり拳銃を抜いた。コルトの自動拳銃がぴたりと彼の心臓を狙っていた。ほんの一瞬の動作だった。反射的にハリソンの右手も懐へ入れられていたが、彼は拳銃を持って来ていなかった。まだこの州での携行許可が下りていないのだ。

「やめろ、マーク」灰色のスーツの男が言った。番犬に命令するような調子だった。

 マークは銃身を天井へ向けた。ハリソンは懐からゆっくり手を出し、何も持ってないことを示した。

「こんにちわ、ミス・オースティン」灰色のスーツの男が穏やかに言った。

「こんにちわ、コルトレーン警部」セシルもにこやかに言った。

「この店から男の叫び声が聞こえると通報があったんだが、ちょうどパトロールが出払っていてね。私が来てよかったよ、ミス・オースティン。あまり父上に心配をかけさせるような真似はやめたまえ」

「父のことは放っておいて。私はまっとうなアメリカ市民よ。自由に行動する権利があるわ」

「わかったよ、セシル。ではそこの紳士を紹介してくれないかな」

「こちらは当地で私立探偵を開業されたスティーブ・ハリソンさんよ」

 ハリソンは帽子に手を当て軽く頭を下げた。つづけてセシルはハリソンに二人の紹介をした。

「アーカム署殺人課のエリアス・コルトレーン警部、そしてその忠実なる猟犬マーク・タガート刑事」

 マークは犬と呼ばれてうれしいのかニヤリと笑ってみせた。

「それじゃあ死体のある場所へご案内しましょう」とセシルは奥へのドアを開いた。

 二人の刑事は死体の様子を見ると、すぐに鑑識を呼び寄せた。

 鑑識へ指示を与えた後、警部はハリソンに言った。

「スティーブ・ハリソンさん、事情を聴きたいので署までご同行願います」

 ハリソンが返事をする前にセシルが割って入った。「あの死体は死んで間もないんでしょう。この人にはアリバイがあるわ」

「逮捕するわけじゃない。話を聞くだけだよ」

 ハリソンは同意した。警察車はマークが運転し、コルトレーン警部はハリソンのビートルに同乗した。

 道中、ハリソンは聞いた。

「ミス・オースティンの父上がどうこうって言ってたけど、彼女の父親って何者なんだ?」

 コルトレーンは少し考えてから静かに言った。「それは彼女に直接聞くんだな」

 それきり警部は前を向いておとなしく助手席に収まっていた。だが、ハリソンは運転中ずっと自分の動作すべてを観察されているような気がしていた。



 警察署に着くとコルトレーン警部のオフィスに通された。

 机の上の置かれたネームプレートには〈警部 エリアス・H・コルトレーン〉とある。ミドルネームがあるらしい。

 ハリソンは死体発見までの経緯を話し、マーク・タガードがタイプライターで調書にした。この男、銃は早いがタイプはひどく遅かった。

「今日の行動についてはよしとしよう」警部は言った。「それで君、この町へ来る前はどこにいた?」

「西の方だ。それ以上話すつもりはない」

「話せない理由は?」

「おれはちょっとしたトラブルを抱えている。下手に身元照会なんかされて居場所をばらされたくない」

「トラブルとは?」

「中国人の暗殺団がおれを狙ってる」

「ふざけるなよ」とマーク。「お前、逃亡中の指名手配犯だろう?」

 部下の発言は気にせず警部は言った。「君は警官だったんじゃないか、そんな気がするんだが?」

 ハリソンはだまって肩をすくめた。

「しかし、なぜこの町に、ミスター・ハリソン。私立探偵をやるならボストンでもニューヨークでもよさそうなものじゃないか?」

「ちょっとした伝手があってね」

「誰かが手引きしたんだな。それは誰だ?」

「大事なスポンサーでね、おいそれとは口にできんね」

「お前、隠し事がおおいな」マークが顔を近づけて言った。

「まあいいだろう」と警部。「ともかく君がこの町で探偵事務所を開くというなら、我々とも友好的にやってもらいたい」

「こちらもそう願いたいですな」

「我々もこのところ人手不足でね、猫の手でも借りたい状態なのだ。たとえば……」と警部は机の上の書類を手に取った。「これだ、今朝送られてきたものだが、FBIの捜査官が一名このアーカム近辺で行方不明になったというんだな。名はロジャー・モーム、二十五歳だ」

 警部は書類にクリップでとめられていた写真をハリソンに見せた。ハンサムな若者だ、モノクロでも金髪が輝いてるのがわかった。

「当地にはプライベートな旅行できたということだが、秘密任務を帯びていた可能性もある。うちの署長がフーバー長官直々にハッパをかけられた。なんとしてもこの若造を見つけ出せとね」

「秘密任務か……この町にFBIの気を惹くようなものがあるのか?」ハリソンは聞いた。

「さあね、我々はこの捜査官と食堂で話したという人物を見つけたのだが、そいつが言うには、捜査官は空飛ぶ円盤が着陸した場所を探してると言っていたそうだ」

「それが秘密任務か?」

「だいたい何なんだ、空飛ぶ円盤て?」とマークが言った。

「おれは知ってるぞ」とハリソン。「ナンタケット島にナチ野郎の秘密基地があって、そこから飛んでくるんだ」

「ま、今後ともよろしく頼むよハリソン君。何か情報をつかんだら知らせてくれたまえ。報告書に書ける情報をな」コルトレーン警部は言った。



   3.


 途中、ダイナーで食事をし、オニオン荘に帰り着いたころには時計は午後七時を回っていた。

 ハリソンはコーヒーを淹れ、テーブルの上にあった新聞に目を通した。最後のページに自分の広告を見つけた。最小のスペースにこうあった。


  あなたのトラブル解決します。

  スティーブ・ハリソン探偵事務所


 その下に電話番号も記されていた。ハリソンは広告を見つめて、この番号は一体どこに通じているのか、とぼんやり考えていた。

 すると電話が鳴り出した。受話器を取ると相手はセシル・オースティン嬢だった。

「無事に帰れたのね、よかった。警察ではずいぶん絞られたの?」

「世間話をしただけさ。それより君はなぜここの番号を知ってるんだ?」

「新聞に広告が出てるじゃない」

「そうか」

「ちょっと出てこれない、私、少しだけどお酒を飲んじゃったから、あなたの車に乗せてほしいんだけど」

「おれは運転手じゃないぞ」

「ルイス・ハピエル事件を調べるんだけど」

「誰だそれは?」

「殺された古本屋の店主よ、身元が確認されたの。この事件を追えばセバスチャン・ベルガー教授の行方もわかるかもしれなくてよ」

「オーケー、迎えに行く、どこにいるんだ?」

「西アーミテッジ通り、アーカムアドヴァタイザー社」

 ハリソンは電話を切ると、トランクからホルスターに入った拳銃を取り出した。コルトのリボルバーである。銃弾を装填する。まだ携行許可証は発行されていなかったが、殺人事件の捜査となれば油断はできない。法律より命が大事だ。



 西アーミテッジ通り周辺は大きな建物が多く、夜ともなると明かりもまばらで暗かった。新聞社アーカムアドヴァタイザーの玄関には照明が灯されていた。まだ仕事をしている部屋もあるらしく、いくつもの窓から光が漏れていた。

 ハリソンのビートルが到着すると、すぐにセシル・オースティンが出てきた。助手席に乗りこむと彼女は言った。

「助かったわ、同僚の出世祝いでね、つい飲んじゃったの」

「で、手掛かりはあるんだろうな?」

「ええ、《大鴉書房》であなたが見つけた本があったでしょう。『ダニエル・デインの降霊術入門』ていう」

「ああ、サイン本だったな」

「そして値札がつけられていなかった。ということはつまり、あの本は誰かの手であそこへ持ち込まれたばかりだった、あるいは店主ルイス・ハピエルがあの場で著者から直接サインをもらった、このどちらかということになる」

「つまり、あの店へダニエル・デインとかいうやつが来ていた……?」

「そう、だから調べてみたの。新聞社ではこの町で行われるイベント情報なんかも集めているけど、その中にあったのよ、今夜開催の《ダニエル・デインの降霊会》が」

「場所は?」

「リバータウンにある《金の匙ゴールデン・スプーン》というレストランよ。この店はディナー・タイムの後、ショーや会合のために場所を貸してるの。今から行けばちょうど始まる頃に間に合う。もっとも予約制ということだから会場に入れるかわからないけど」

「ともかく行ってみるか」

 ハリソンはビートルを発進させた。

 《金の匙》は《大鴉書房》があったところから一つ先のブロックで、そのあたりにはバーなどがいくつか店を開いていてまだ人通りがあった。近くに車を止め、二人が店の前へ行ってみると、ドアには〈本日貸切〉の札が下がっていた。

 横の窓のところで若い男が二人、カーテンの隙間を覗こうとしたり、ガラスに耳をあて音を聞こうしていた。ハリソンは声をかけた。

「よう、降霊会だろ、もうやってるか?」

「ああ、そうらしいけど、中の様子はわからんね」

 二人は車に戻って、しばらく待機することにした。



「ダニエル・デインか……」とハリソン。「彼がルイス・ハピエル殺しの犯人ということはあり得るのか。犯人なら現場に自分の本を残したりはしないだろう」

「慌ててて忘れただけかも」

「うむ、だとしても、殺人の数時間後に降霊会なんかできるものかな」

「予定を中止して逃げ出せば、かえって怪しまれると思ったのかも。彼を犯人と決めつけるわけじゃないけど」

「セバスチャン・ベルガーも容疑者だ。部屋にあの店の名を書いたメモがあったんだからな」

「あっ、マーキュリー・エイト」と、セシルは通りを走り抜けていく車を目で追っていた。

 ハリソンが視線を向けると、ハンドルを握っている銀色の髪の女が一瞬だけ見えた。

「高級車が珍しいのか?」

「今の車、運転していたのはアーカムの女王よ」

「へえ、ここが女王陛下のお膝元とは知らなかったね」

「アナベル・ケラー、市長夫人よ」

「市長夫人か、車を飛ばしてたぞ」

「ドライブが趣味なの。そして彼女の兄は《フォーチュン建設》社長のクライド・フォーチュン。この会社は表向きは建設会社だけど荒っぽい若者を集めていて、実態はギャング団みたいなものね。この町で新しい事業を始める気なら、まずこのクライド・フォーチュンにお伺いを立てないとどうにもならないそうよ。あなたも探偵業をするなら一度ご挨拶に行ったほうがいいんじゃない」

「おれはそういうめんどくさいことはやらないの。ついでに他にもこの町の有力者がいたら教えてくれよ」

「そうねえ、酒類の販売を牛耳ってるギルバート・オーツとか。この人はカウボーイ気質かたぎで仁義に篤いってタイプの昔ながらの悪党で禁酒法時代にしこたま儲けたってわけ。でも最近は年齢のせいで落ちぶれてる感じね。仕事を息子に継がせようとしてるんだけど、これがお人好しのぼんくらで、父親が死んだらただの酒屋になっちゃうというのがもっぱらの噂ね。とりあえず今このアーカムの有力者と言ったらケラー市長、フォーチュン、オーツこの三人てところかしら」

「そうか、ありがとう」

「あと、最近うわさの人物ならロシア人宝石商ステパン・ゴドノフとか。世界中を旅している途中でこの地に滞在してるらしいけど、やたらと羽振りがよくて、あちこちでお金をばらまいてるって。それでいつもコワルスキーていう大男の用心棒を従えてるそうよ」

「宝石商か……、ところで、マグヌスという人を知ってる?」

「さあ、聞かない名ね。そういえばМ・R・ジェイムズにそんなような短編があった気がするけど」

「小説なんかどうでもいいんだ」

「あら、怪奇小説だって馬鹿にしたもんじゃないのよ。ダンウィッチやインスマスでの出来事は、ラヴクラフト先生の小説が唯一の正確な記録と言われてるんだから」

 ハリソンはセシルの話に耳を傾けつつ、目はぬかりなく店の方を監視していた。するとそこへ一台のトラックが止まった。すぐに荷台から三体の人影が飛び降りるのが見えた。それが善良な市民でないことは一目でわかった。三者ともまるでKKK団のような覆面付きの白装束で、手には棍棒のようなものを持っていたのだ。全員身体が大きく、どこか異様な体型をしていた。三つの影はまっすぐに《金の匙》のドアに向って行った。

「君はここにいろ」そう言ってハリソンは車を降りた。

 襲撃者たちはドアに鍵がかけられているのがわかると、躊躇なく体当たりで突破した。店内から悲鳴が聞こえた。

 ハリソンがドアのところへ駆けつけると、パニックを起こした客たちがドアから出てくるところだった。逃げ出す客を先に通してから、ハリソンは店内に踏みこんだ。

 店の中にはまだ客が数人残っていて、白装束の二体が棍棒で脅すなどして追い出そうとしていた。襲撃者らも客に怪我をされる気はないようだった。

 白装束の一体がホールの奥で一人の男を追い詰めていた。近くのテーブルには円弧状にアルファベットが並べられた板が置かれていた。降霊術で使うウイジャ盤というやつだろう。その横には古びた木箱もあった。白装束は「ウゥー」と奇怪な唸り声をあげながら男に殴りかかろうとしていた。

「おい、乱暴はよせ!」とハリソンは振り上げた腕に組みついた。

 相手はすごい馬鹿力でハリソンを振り払った。彼は背中を壁に叩きつけられた。すぐには立ち上がれなかった。

 白装束はテーブルの上の木箱に気付くと、つかみ上げていた男は投げ捨て。それを手に取った。

「そ、それは……やめろ」床に倒れながらも男は呻いた。

 木箱が開けられた。ボロボロの紙切れのようなものが取り出された。文字や図形が描かれていた。それをよく確認するためだろう白装束は覆面を引き上げた。ハリソンはその素顔を見た。人間の顔とは思えなかった。半ばは人間のようでもあるが、同時にあまりにも魚じみていた。恐ろしい顔だ。

 魚面の怪物は、紙切れの内容に納得した様子で、それを木箱に収めて大事そうに抱えた。そして「ウーオ、ウオ、ウオ」と仲間に合図するような叫びをあげると、他の二体を引き連れ店を出て行った。



 ハリソンは倒れている男に近寄った。

「大丈夫か、頭を打ってないか?」

「ああ……」

 男はまだ気が動転している様子だった。他の客はもう店内に残っていなかった。

「あんたがダニエル・デインか?」ハリソンは聞いた。

「そうだ」

「あいつらいったい何なんだ、あの顔を見たか?」

「あ、ああ……あれは、あれはインスマス面というものだ」

「インスマス……」ハリソンはこの町に来てからその地名を何度か耳にしてる気がした。

 セシルが店に入ってきた。

「ちょっと、大丈夫!?」

「おれは大丈夫だ。こちらはダニエル・デインさん」

 セシルはコップに水を汲んできた。デインの背を起こして飲ませてやる。

 ハリソンはデインが完全に落ち着きを取り戻す前にいくつか質問をしておきたかった。

「あんた、今日《大鴉書房》という古本屋へ行ったか?」

「ああ、あの店では魔術に使うアイテムも扱っているのと聞いていたので、この町につくと早速訪ねてみました。おかげで《ズタールの護符》という貴重な品を手に入れることができました」

「何だそれは?」

「降霊を行っていると、まれにこちらの意図しない悪霊があらわれてしまうことがあるのですが、そんなときにこの護符で身を守り、すぐに退散させることができるのです。ですが、それをやつらに奪われてしまった」

「あの化け物どもは、あんたがその護符とやらを手に入れたことを知っていたというわけか」

「ええ、なぜかはわかりませんが」

「ところで、あんた《大鴉書房》の店主ルイス・ハピエルが死んだことは知っているか?」

「えっ、あの人が、そんな様子は全然なかったのに」

 その驚き方には嘘はないように見えた。

「殺人だ。あるいは護符を売った相手を聞き出すためだったのかもしれんな」

「そんな……」

 ドアの方が騒がしくなってきた。やじ馬が集まってきているのだ。

「私にもインタビューさせて下さい。アーカムアドバタイザーのセシル・オースティンです」

 セシルはメモ帳を手に質問を始めた。

「ちょっと外の様子を見てくる」ハリソンはそう言ってドアの方へ向かった。

 戸口から覗きこんでいるやじ馬たちの中に気になる顔がひとつあった。皆好奇心に目を輝かせている中で、一人だけ妙に暗い目をした顔だった。その男は、ハリソンが近づいてくることに気付くとさりげなくその場から去った。

 ハリソンは壊れたドアを無理やり閉めながら外に出ると「もうショーは終わりだ。行った、行った」とやじ馬どもを追い払った。そして暗い目をした男の後を追った。

 あの男を追え、そう刑事の勘が告げていた。



   4.


 彼が追っているのは、汚れたグリーンのスーツを着た痩せた男だった。その男は通りの外れに止めていた小型のクーペに乗りこんだ。クーペの色もグリーンで泥まみれだった。

 ハリソンはビートルに戻って、クーペの後をつけた。前を走る車は南へ向かっていた。

 今夜は月が出ていなかった。日中空を覆っていた雲は流れ去り、星が輝いていた。ハリソンは闇に目を凝らして運転しながら、あの暗い目の男の顔を思い浮かべた。どこかで見た顔のような気がした。記憶を辿ってみるとわかった。オスカー・ドーソン博士に見せられた写真。つまりあの男がセバスチャン・ベルガー教授なのだ。

 車は町を出て、さらに南へ向かっていた。あまり近づきすぎると尾行に気付かれる恐れがあった。だが離れすぎて見失うのはもっと困る。気づかれてもそれはそれで構いはしなかった。

 グリーンのクーペは車道を外れ、森へ通じる小道へ入っていった。ハリソンは少し間をおいてからビートルをその道に乗り入れた。森はさほど大きくもなくすぐに向こう側に抜けた。そこでクーペは止まった。ハリソンもビートルをすぐ止め、ヘッドライトも消した。

 前の車から男が降りた。火を入れたカンテラのようなものにを手にしていた。前方は広大な沼地だった。水の溜まったところに照明が反射してギラギラ光っていた。泥の上にボードウォークが設置されていて男はその上を歩いていった。すぐ先に木製の小屋がありその中に入った。窓から灯されたランプの光が漏れた。周囲では無数の蛙の声が響いていた。

 ハリソンはしばらく小屋の様子を外から見張っていた。セリア・ポンポロイという女と会ったのもこんな沼地だったことを思い出す。煙草を一本吸い終えても、何かが起こりそうな気配はなかった。彼は意を決して小屋へ近づいていった。

 入口の踏段は腐敗しかかっていて、ハリソンが体重をかけると踏み抜いてしまいそうだった。ドアの前に立ちノックした。

 暗い目をした男が顔を出した。「誰だ?」

「スティーブ・ハリソンといいます。捜査官です。あなたは?」

「セバスチャン・ベルガーですが」

「ああ、やはり、あなたを探していたんです。ベルガー教授」

「私を……」教授はまるで他人に探されるいわれなどないと言いたげだった。

「少し、中で話させてもらえませんか?」

「どうぞ、何もないところですが」

 ハリソンは小屋の中に入った。そこには木製のテーブルと椅子が一組あるだけだった。歩くたびに板張りの床があやしく軋んだ。照明はアルコールを燃やすランプ。テーブルの上にはタイプ原稿が広げられていて、手書きで修正を加えているところのようだった。余白をびっしりと細かい文字が埋めているページもあった。

 教授は椅子に腰かけ、原稿をまとめ始めた。ハリソンも向かい側に腰をおろした。

「こんなところで何をやってるんです。教授?」

「論文を手直ししていたところだよ。一度完成したのだが、気になるところがあってね、注釈を加えたかった」

 テーブルに置かれたその論文は「『ナコト断章』におけるムノムクアー崇拝」という表題だった。

「私はオスカー・ドーソン博士に頼まれてあなたを探しに来たのです」

「博士が……そうか……、できれば君の手でこの論文を大学に届けてくれないか。ドーソン博士に渡せば取り計らってくれるだろう」

「それはいいですが、なぜご自分で提出されないんです、もう大学へは戻られないつもりですか?」

 ハリソンはそう聞いたが教授は答えず、自らの思考に沈んでいるようだった。会話が途切れると、沼地の蛙たちの合唱がやけに大きく響いた。

 彼は教授の汚れた服が気になって、眺めていた。そのうち不意にその汚れの正体に気付いた。

「教授……アンタのその服に飛び散っている汚れ、それは血だろ、人間の血じゃないんですかい?」ハリソンは聞いた。

「ああ、これか、昼にちょっと揉め事があってね」大したことじゃないという様子で教授は言った。

「揉め事とは?」

「古本屋の店主とちょっとね」

「《大鴉書房》のルイス・ハピエルか?」

「ああ、知っていたのか」

「ルイス・ハピエルは死んだ」

「そうか……急所は外して刺したんだが……」

「刺したと認めるんだな。急所を外してもあれだけ出血があれば人間は死ぬ」

「そうか…それもそうだな……やつは、私に売ると約束していた物を他人に売ってしまった。誰に売ったか聞きだす必要があったのだ」

「その物とは何です?」

「《ズタールの護符》と呼ばれるものだ」

「悪霊を追い払えるとかいうものだな。それはダニエル・デインが手に入れたが、魚のような顔の化け物に奪われた」

「ああ、私も見ていたよ。あの護符はあんなインチキ霊媒師には必要のないものだ。だからあの護符のことを《隠れたるハイドラハイディング・ハイドラ》に知らせてやったのだ。やつらが奪いに来ることは目に見えていた。上手くいけばどさくさに紛れて横取りできるかと思ったのだが……、まさか《深きもの》どもを送りこんでくるとはな。あれじゃ手を出せない」

「《深きもの》というのがあの化け物のことか。《隠れたるハイドラ》とは何だ?」

「《ダゴン秘密教団》の生き残りだよ。先鋭化して、より過激になってる」

 ハリソンは《ダゴン秘密教団》というのが何かも知らなかったが、その名は記憶にとどめて話を進めることにした。

「あんたはなぜそこまでしてその悪霊除けの護符を手に入れたかったんだ?」

 ベルガー教授はしばらく窓の外の暗闇に目を向け、静かに話しだした。

「私は昨夜ここである儀式を行った。ある存在を召喚するためだ。儀式は成功し、そのものはこの沼地にあらわれた。だがまだ姿は見せなかった。沼の底からこちらの様子を窺っている気配を、私はありありと感じた。今夜、定められた時刻に、もう一度、儀式を行えばそのものは姿をあらわすだろう。強大なパワーを持つ存在だ。そのものと渡り合うために何としても私には《ズタ-ルの護符》が必要だった。結局入手できなかったが、それでも私はやる。何らかの駆け引きはできるだろう」

「そんなことをして、何が目的なんです?」

「これはちょっとした実験だよ……。問題はこのアメリカの文明なのだ。われわれの文明は、いやの世界中のすべての文明が、狂気に冒されている。ヨーロッパやアジアでの戦乱は間もなくアメリカをも巻き込むことだろう。世界は未曽有の大戦争に飲み込まれる。誰にも止めることはできない。なぜ人類はかくも愚かなのか。その原因が君にわかるか?」

「さあ……」

「問題はな……その元凶は……クトゥルーだ! 太古の地球に到来し、太平洋の底に沈んだ黒きルルイエにて眠る神……クトゥルー……。人類は誕生以来この存在の影響下にある。人間の思考はつねに、すでにクトゥルーによって操られているのだ。汚染されているのだよ。この枷、この軛から逃れられないかぎり、人間はまともにものを考えることすらできんのだ。たとえ一瞬でも、この影響力を跳ね除けることができれば……正しい道を知ることができるはずだ。そのために……そのために、私はクトゥルーに対抗できる別の力を召喚する必要があった。それが、今夜、実現する……」

「よくわからんが、とにかくあんたは殺人犯だ。おれはあんたを警察に連れていく」

「警察だと……私はここを動かんぞ」

 ハリソンは教授の目に狂気の輝きを見る思いがした。逃走するつもりとも思えなかった。警察にこの場所を知らせて手を引こう、彼はそう思った。出て行く前に一つ質問をした。

「ところで、教授、あなたは《ナトの夜》という宝石について何か知りませんか?」

「《ナトの夜》……どこかで聞いたような……ああ、それなら……」

 そこまで言って、セバスチャン・ベルガーは言葉を途切れさせた。

「何です。先を言ってくれ」

「待て、蛙の鳴き声がやんだ」

 言われて耳をすますと、あたりは静まりかえっていた。

「どういうことだ?」

「来る……あのものが……儀式を行うまでもなかった。おお、ツァトグア……《蟇蛙の大君》よ!」

 教授は窓のほうへ両腕をかかげた。

 その時、激しい音とともに床板が跳ね上がった。そして一瞬のうちにセバスチャン・ベルガー教授の姿は消えた。

 何が起こったのか。その一瞬の出来事は、ハリソンは目に焼きついていた。床から飛び出してきた触手の如きものが、教授の身体を奪い去ったのである。いや、あれは蛙の舌のようなものだったのかもしれない。蠅のように教授は床下の泥の中へと飲み込まれたのである。

 ハリソンは茫然として、壁に背を押しつけたまま動くことができなかった。手には無意識に抜いた拳銃が握られていた。

 どれほど時間が経っただろうか。やがて、蛙たちが鳴き交わす声が聞こえ始めた。ハリソンは震える手で慎重に銃の撃鉄を戻し、ホルスターに納めた。

 自然と足が戸口に向いた。早くこの場を去りたかった。

 ドアを抜け、踏み段に足をかけると、腐敗していた板が割れた。

「うわぁっ!」

 ハリソンはバランスを崩して落下し、泥沼に倒れ込んだ。全身泥まみれだった。焦って立ち上がろうとし、また足が滑った。

「クソッ!」

「ヒヒヒヒッ」という笑い声が聞こえた。「ほら」

 見上げると痩せた手が差し出されていた。尖った顎をした小柄な男だった。顔の半面に大きな傷があり、笑った口もとは歯が一本欠けていた。ハリソンがその手をつかむと意外に力強く引き上げてくれた。

「助かった」

「気をつけなよあんた、ここらには、銃弾も効かない化け物がうようよいるんだぜ」

「な、何だって?」彼は思わず聞き返した。

「イヒヒヒヒッ」男は気味の悪い声で笑い、こう言った。「アーカムへようこそ」

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アーカムのスティーブ・ハリソン 小倉蛇 @tada7ka

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