第19話 『運がない男』Ⅲ
7回のマウンドに国奏淳也の名がコールされた。
勝ちパターンである彼の名前が呼ばれるという事は、チームが今のところ試合に勝っているという証である。
彼の登板はこれでシーズン7度目。
ビジターの試合にも追いかけて見に来るような、熱狂的なオウルズファン。
オウルズの試合を各媒体で全て視聴しているような人間。
そういう人種には、そろそろある認識が広まっていた。
"
何しろ、投げている球が凄まじい。
見ていて打たれる気がしないのだ。
一度や二度の好投なら、あー調子よかったんだね、で終わる事も多いのが中継ぎである。
が、彼はここまでの登板全てで三振を1個以上奪っており、誰一人として塁に出していない。如何にイニング数が短いリリーフと言えど、その高強度のピッチングをファンに知らしめるには十分であった。
糸を引くような直球がバシンとコースに決まり、鋭い切れ味のカッターが三振を奪う。
球速表示は大した事ないのに、左右関係なく凡退の山を築く。
制圧的。
それが国奏淳也のこれまでの投球を表すに一番適した表現だろう。
国奏が本日1個目の三振を奪った。
もはや風物詩。安定の三振スタート。
観客席ではビジター席には安心感。ホーム席には絶望感が流れる。
バックを守るオウルズナインも、国奏が投げている時は何か安心している。
そもそも、数えるほどしか打球が飛んでこないのだ。
後ろから見ていても、エッグイ球をテンポよくガンガン投げ込む国奏を見て、彼の契約事情をある程度知っているナインは「何でこの人あんな簡単に放出されたの?」と苦笑いするレベル。
ストレートと外角ゾーン際のチェンジアップでカウントを整える。
2ストライク1ボール。
こうなってしまえばボールゾーンに逃げるカッターを投げ続ければ打ち取れる。
追い込まれた時に来るゾーン際変化球というのは、来ると分かっていても手を出さない訳にはいかない。
腕の振りが緩い場合や、明らかに軌道が直球とは違うボールの場合は見逃せるが、国奏のカッターはスピードもキレも良い。回転軸がボールの進行方向へ向いているハイクオリティなブレーキングボールである。
変化が始まるまでの軌道は直球とほぼ同一。
フォーシームと同じポイントを通過するピッチトンネルを構成し、打者には球種の判断が直前までつかない。
所謂、国奏のウイニングショットというやつだ。
外角低めカットボール、それで終わるな。
見ている全員がそう思った。
そして実際にその通りに投げられた。
乾き切った汚い打球音が響く。
打球はほぼ垂直の弾道を描き、高い高い内野フライとなった。
「はい内野ぁ!」
国奏は上がった打球を指さしながら、野手の邪魔にならないようにマウンドから外れる。
プロでは例え自分の真上にフライが上がったとしても、投手がそれを処理をするという事はまずない。
万が一のエラーや故障を防ぐためである。
落下地点の予測としてはセカンドベースとマウンドの間、ちょうど真ん中辺り。
国奏は捕球を見届けるために振り返った。
打球を処理する為に、サード、ショート、セカンド、ファーストが全員落下地点に集まってくる。
――嫌な予感がした。
え? 誰がとるの?
あれ? お前行くのか?
サード、ショート、セカンド、ファースト、そしてピッチャーである国奏。
全員が顔を合わせる。
全員が等間隔に円状に並び、お見合い。
お見合い、お見合い、お見合いである。
打球はぽーんとその真ん中に落球し――
「――て、おいおいおいおい!」
バウンドして国奏の方へ転がってきた。
球場には悲鳴のような声が上がる。
焦った国奏がボールを拾った時には、打球を放った打者はもう2塁ベースへ到達していた。
エラーランプは――点灯していない。
「えぇ、これどうなんの……?」
記録としては、投手前二塁打。
国奏が今シーズン許した初めてのヒットという事になる。
「あー……」「すいません」「悪い」「まぁまぁ……」
内野陣が、各々に向かって謝罪の言葉を述べる。
まさか怒り散らすわけにもいかないので、軽く片手を上げて気にしてないよ、とアピールする。
内野に、というか球場全体に「なーにやってんだお前ら……」という最早呆れに近い雰囲気が流れる。
まぁ、もう起こってしまったものはしょうがない。
切り替えて後続をしっかり抑えるだけだ、と国奏は気持ちを入れ直した。
次の打者は、4番外国人助っ人のペレス。
怖い相手だが、慎重に攻めて打ち取るしかないな。
どうやら捕手の杉宮も同じ考えだったようで、まずは低めに逃げる変化球から入れ、というサインだった。
それに頷き、セットポジションに入る。
一球目、コントロールを重視したボールは、想定通りのコースへ行き、ミットに吸い込まれた。
打者は、ピクリとも動かない。
――うわぁ、嫌な見送り方してくれるな……
怖い場面だ。
こういう時は、下手にストライクゾーンに投げたく無い。
インハイ直球を要求する杉宮のサインに、首を振る。
個人的に嫌いな、というかあまり良い思い出のない配球だ。
何度かサインを振った後、一球目と同じコース、少し下のボールゾーンにチェンジアップでサインが決まった。
国奏は、杉宮が構えたキャッチャーミットに向かって投球した。
ところで。
話は変わるのだが、助っ人バッターというのは、日本人から見ると余りに荒々しいスイングをしている。
ともすれば、技術もないような強引なバッティングに見えるかもしれない。
だが、彼らは断じてパワーツールだけの三振長距離砲ではない。
日本人打者が技術、バランスを極め、辿り着く領域。模範とされる教科書的なバッティングフォーム。それら全ては――彼らには必要がない。
既に持っている。獲得している。
そんな小技に頼る必要なく、彼らの肉体が生み出すスイングスピードは、コンタクト力、選球眼、打球飛距離といった"実力"へ繋がる。
バットを振る速度が速ければ、より長く球を見れる。
差し込まれても飛ばせるパワーがあれば、更に余裕をもって球筋を確認できる。それらの要因は高い出塁率へ繋がる。
強い打球を放つ事が出来れば、ゴロであっても内野を抜けてヒットになる。
彼らのスイングは、投手に甘えを許さない。
この程度ならいいだろう。此処に投げれば打たれたとしても致命傷にはならない。
そんな腑抜けた考えを――彼らは一振りで粉砕する。
国奏の投じたチェンジアップは、悪い球ではなかった。
しっかりとコントロールされていたし、ブレーキも十分。
打者のタイミングを外す球種としては、問題ないものだった。
ただひとつ言うとすれば。
その球には、ほんの少しばかり。
"気"が抜けていた。
ペレスの
一閃。
まるで流星のように放たれた一条の光が、そのままスタンドに突き刺さった。
『痛烈! 激烈! キューバから襲来した
スコアボードに刻まれる2という数字を、国奏は茫然として見つめていた。
やってしまった。
甘いボールではなかった筈だ。しっかりと低めの、それもボールゾーンに投げ込めていた。
しかし、気が抜けていた。
ここに投げれば、被弾したとしても致命傷にはならない。
そう思っていた。
「ふぅ……」
深く深呼吸をする。
気持ちを作り替える。
終わってしまったものは仕方がない。
自分にできる事は、次の打者を打ち取る事のみなのだから。
「お疲れ様です」
後続を抑え、ベンチに帰った彼に後輩選手が労いの声を掛けた。
「運が悪かったっすね。まぁこんな事もありますよ」
運が悪かった。
まぁそうだろう。
普通ならばまず見ないようなボーンヘッドでランナーを背負い、相手の4番打者を迎えてしまったのだから。
後輩にはハンドサインで気にしていない、と伝えて国奏はベンチ裏に戻っていく。
「…………」
が、しかし。
シーズンの中にこういう事はよくあるとはいえ。
それでも、状態の良い自分の球を打たれたというのは腹が立つ。
「あー、くそ」
少し、驕っていたかもな。
何にせよ、自分の出番は終わった。
点数をひっくり返されてしまった責任として、試合の行方を見守ろう。
そう気持ちを切り替え、再び照明に照らされたグラウンドが見える場所に戻っていった。
その後、試合は淡々と進んだ。
どちらも一人はヒットか四球で出塁するが、その後が続かずスコアは動かない。
2-1。
オウルズは一点ビハインドで9回表の攻撃を迎えた。
相手のマウンドに立つのは、当然ながら敵の抑え投手。
最速158㎞に迫る速球が持ち味のクローザーである。
7番から打順は始まり、トップバッターはセカンドゴロ。続く8番は、しぶとくコースの球をカットし、四球をもぎ取った。
どうやら今日はカウントを取る変化球の制球があまり上手くいっていないようだ。少しばかり単調な配球で力押しのピッチングをしている。
という事で、ランナーは1塁。
同点のランナーを出して、打順は9番ピッチャー。
当然代打である。
そして、その代打には――島袋陽介の名前がコールされた。
一番期待できる代打のベテランは、既に7回表に切ってしまっている。
オウルズベンチに残った一発が期待できる選手は、島袋しか残っていなかった。
彼は素振りをしながら打席に入る。
言うまでもなく、大事な場面だ。
どうでもいい時に打つ選手と、大事な場面で打つ選手。
当然ながら後者の方が評価は高くなる。
(ストレート、ストレートだ。相手は制球に苦労している。最初は自信のある直球をストライクゾーンに投げ込んでくる筈!)
加えて、相手の不調。
これは大きなチャンスだ。必ず掴まなくてはならない。
そして、投げられたボールは。
(カーブ! 振るか!? いや……)
カウント稼ぎの為のカーブ。
しかも、甘いコース。曲がりも悪い。
ほぼど真ん中に落ちてきたカーブを、見逃す。
バックネット裏の観客が、少しざわついたのを感じた。
"何で今の甘い球を振らなかったんだよ"
"初球から振れない奴はダメだな"
そんな声が聞こえてくる気がした。
――そんな事、俺だってわかっている。
でも、直球に目付していたんだ。
幾ら甘い球でも、狙い球以外をスイングすると、打ち損じる可能性がある。
そう思うと、手が出せなかった。
焦るな。
まだワンストライクだ。必ず直球が来る。
そう自分に言い聞かせ、投手に向き合う。
次だ、次、次――
――ストレート! きた!
狙い球通りのストレート。
だが、悲しいかな。コースは高めに外れていた。
しかし、直球一本に絞っていた島袋の身体は止まってくれない。
外れている。
そう気付いても、もう動き出していた体は、不格好な動きを晒す。
バットが止まった時には、既に球審は高らかにスイングコールを上げていた。
――ヤバい、ヤバい。
あっという間にツーストライク。動悸が激しくなるのを感じる。
これだ。追い込まれると、視界が明滅する。
いつからこうなってしまったのだろう。
反射的に、タイムを取ってバッターボックスから外れた。
「ふぅー……ふぅー……」
"試行回数が少なすぎる"
そう
だが、そんな事は言い訳にしかならないのだ。
今自分が立っている打席は、他の誰かが死ぬほど渇望していたモノ。
島袋はドラフト3位で入団した。
3位、良くも悪くも中途半端な順位である。
チャンスを貰えると言えば貰えるし、1位2位と比べて興業の為にアピールなしに1軍に上げて貰えるほど存在感がある訳でもない。
だから、当時22歳の彼は死ぬ気で自分の存在を主張し続けた。
周りとの競争も全て勝ち切り、シーズン中盤に1軍行きの切符を手にした。
結果は、芳しくなかった。
十何打席か貰ったが、1軍に定着できる程の印象は残せなかった。
その時は、只の不調だったのだと思う。
技術的に1軍の投手を打てるほど成熟していなかったのもあるだろう。
だから、2軍落ちを通告された時も、島袋は悲観していなかった。
改善するべき点を見つけられただけ、収穫だったからだ。
もう一度、ファームで実力を磨き、
『無駄にしやがって……』
あの、掠り切れるほど小さな、小さな呟きを聞くまでは。
言った男は、31歳の外野手だった。
島袋と、1軍行きの切符を争った選手だった。
彼が全力で蹴落とした相手だった。
よく練習後に、家族の写真を自慢してくる気さくな人だった。
――そんな彼は、もうこの世界に存在しない。
最後通告だったのだろう。
よく聞く話だ。中堅に入った2軍選手がルーキーと競争させられる。
何処の球団でも、毎年当たり前のように繰り広げられている競争の一環だ。
別に学生時代にだって、競争は当たり前にあった。
他者をベンチ外にまで蹴落として、自身がレギュラーを掴むことは野球人生において常に起こってきたことだった。
だが、プロ野球。成績に明確な値が付けられるこの世界で、それが何を意味するかを本当の意味では知らなかった。
心臓が握られるような思いがした。
自分が当たり前に消費し、凡退した17打席は、彼にとっては全てを掛けても手に入れたかったモノだったのだ。
それからだ。
島袋が1軍の打席に立つと、追い込まれると、後ろから
『また無駄にするのか』
いくら振り払おうとしても。
幻聴だと切り捨てようとしても。
消えない。消えてくれない。
"運がない"
確かに、そうなのかもしれない。
あの言葉さえ聞かなければ、自分はこんな事にはならなかっただろう。
下を向き、大きく息を吐いて、再び打席に入ろうとする。
いつまでもタイムを取っている事はできない。
バットを構え、投手の投球を待つ。
幾分かの間を取って、精神は比較的に落ち着いていた。
運がない、それもそうか。
半ば諦めの精神だった。
国奏から、そんな言葉を聞いていたからだろう。
だから、こんな普段なら絶対にしないような事が出来た。
だったら――
「――――――あ」
誰の声かは分からない。
だが、誰かがそう呟いた。
この結果に実力が介入する余地は欠片もない。
何故なら、島袋陽介は球を見ていなかった。
投球モーションに入った投手を見て、ボールが投じられる前に目を閉じた。
そして、脳裏に浮かぶイメージのみでバットを振った。
だって、逃げたかった。
もう辛かった。
彼の心は折れていた。
そんな弱い心が生み出した行動が、何故か、こうなったというだけだ。
彼が両手に残る感触に目を開いた時、既に白球はスタンドに落ちていた。
「やったな、島袋!」
試合が終わり、ダグアウト裏、ロッカールームに帰ってきた島袋に掛けられたのは、称賛の言葉。
「あ、あぁ、はい。ありがとうございます……」
正直、実感がない。
自分が、逆転ホームランを打ったという事に。
当然である。彼からすれば、自分のトラウマに負けて勝負を放棄するという選手として最悪の行動をしただけなのだから。
だが、その行動に返ってきた結果は、最上級のものだった。
「打った球種なに?」
「多分、速球系だと思うんですけど……」
言葉尻が怪しいのは、球を見ていなかったから。
自分の中のタイミング的には、ストレートに近かった、と思う。
「え? スライダーでしょ?」「いや、シュートだろ」「外スラでしょ? シュートじゃ逆に曲がるボールじゃん」「打った時はそんなもんだから。何打ったかなんてわかってねぇよ」
ざわざわと島袋が打った球種に対する考察が始まる。
当の本人は少し居心地が悪い。
「島袋さん。このままじゃ恥かきますよ。インタビューで球種聞かれた時どうするんすか。スライダーなのにシュートとか言っちゃった日には大恥っすよ」
横で傍観していた後輩がからかってきた。
「あ、あぁ。どうしようか……」
「一球速報見るわ。ちょっと待って……え~と、島袋さんが打ったのは……」
騒いでいた皆の注目が、スマホを確認する選手へと集まる。
「島袋さんは……フォーク」
一瞬の沈黙。
皆で顔を見合わせる。
そして、ダグアウトの向こう側には大きな笑い声が響き渡った。
その中には、島袋の声も含まれていた。
たった一球、たった一振り。
ほんの小さなきっかけと結果で、選手が驚くほどの進化を見せる事がある。
だからまぁ。
島袋陽介にとって、この運良く振るった一振りが。
ずっと戦い続けてきたものから逃げた時に生まれたものが。
そうだった、というだけの話だ。
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