鏡の外の私

 朝。

 白いカーテンの隙間から、光が差し込んでいた。


 OLの篠原由紀は、いつも通りの時間に目を覚ました。

 ベッド脇の時計は午前6時30分。

 スマホのアラームを止め、鏡の前に立つ。


 鏡は姿見タイプで、全身を映せる。

 社会人になったときに母親が買ってくれたもので、もう5年の付き合いになる。


 髪を整え、顔を軽くたたき、気合を入れる。

 そうして鏡に向かって「よし」と小さくつぶやくのが、彼女の毎朝のルーティンだった。


 その日は――ほんの少しだけ違っていた。


 「……あれ?」


 鏡の中の“自分”が、

 ほんの一瞬、遅れて瞬きをした気がした。


 まぶたをもう一度ゆっくり閉じ、開く。

 今度は同時。

 気のせいか、と苦笑して洗面所を出た。



 会社では忙しい一日が始まる。

 電話応対、書類整理、上司の無茶振り。

 時間に追われ、昼を過ぎるころには朝の違和感など頭から消えていた。


 しかし、夜。

 帰宅して洗面所で顔を洗ったとき、再び――違和感。


 鏡の中の由紀が、自分よりも早く笑ったのだ。


 目が合ったまま、ほんのわずかに唇が動いた。

 声は出ていない。だが、確かに“何かを言っていた”。


 由紀は息を呑み、洗面所を飛び出した。

 しばらくソファに座り、テレビをつける。

 だが内容が頭に入らない。

 鏡の中の自分が、自分より先に動いた――?


 怖い。けれど確かめたくなる。

 恐る恐るもう一度洗面所に戻り、鏡の前に立つ。


 そこには、いつもの自分。

 だが、鏡の中の目の奥が――どこか濁って見えた。



 翌朝。


 鏡を避けようと思った。

 だがメイクをしなければ外に出られない。

 少し距離を置きながら、鏡の前に立つ。


 鏡の中の“由紀”は、確かに彼女と同じ動きをしている。

 安心して前髪を整えた、その瞬間。


 鏡の中の“彼女”が――首を少し傾けた。


 由紀は動いていない。

 なのに、鏡の中の彼女だけが、首を傾け、ゆっくり笑った。


 背筋が凍る。

 もう見ていられず、玄関を飛び出した。



 その日、仕事中も気が散った。

 鏡の反射、ガラスの映り込み、スマホの画面。

 どこを見ても“彼女”がこちらを見ている気がした。


 帰り際、上司に言われた。

 「おい篠原、顔色悪いぞ。大丈夫か?」

 「……はい。ちょっと寝不足で」


 笑顔を作ってごまかすが、唇が震えていた。



 帰宅後。

 もう鏡を見ないようにしよう。

 そう決めていたのに――なぜか洗面所の電気をつけていた。


 鏡の前に立つ。

 自分がそこにいる。

 だが、鏡の中の彼女は、じっとこちらを見つめたまま、まばたきをしない。


 目が乾きそうなほどに、まっすぐこちらを見ている。


 「……やめてよ」


 由紀が呟くと、鏡の中の“由紀”が、口だけを動かした。


 > 「……入れ替わろう」


 耳には届かない。だが確かに、唇がそう言った。


 息が詰まる。逃げようと後ずさる。

 だが足が動かない。

 身体が凍りついたように動かない。


 鏡の中の“彼女”が、ゆっくり手を上げる。

 その手が、鏡の内側からガラスを押すように突き出された。

 ガラスが波打つ。


 “彼女”の手が――こちら側に出てきた。


 指先が、冷たい。

 次の瞬間、視界が裏返るように暗転した。



 気づけば、鏡の中に立っていた。

 向こう側の“由紀”が、笑っている。

 彼女は現実の部屋にいる。

 こちらは、鏡の中。


 「……やめて、返して……!」


 叩いても、叫んでも、音は届かない。

 “外の由紀”は微笑みながら、洗面所の電気を消した。


 暗闇の中、鏡の向こう側で由紀は泣き叫ぶ。

 しかし、外にいる“彼女”は何事もなかったかのようにメイクをし、出勤していった。



 翌朝、洗面所の鏡に映るのは――完璧な笑顔の篠原由紀。

 その口角のわずかな震えだけが、違和感を残していた。



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