第七章:日常

第二十五話:レベルアップ!!

 横須賀での、あの悪夢のような大騒動から一夜が明けた。

 A級ボス『アビス・クラーケン』を、海ごと蒸発させて蒸し焼きにするという、どんな料理番組でも放送できないような荒業で討伐し、俺たちは無事に帰還した。

 帰還した先は、もちろん、ここだ。

 都内の一等地にそびえ立つ超高層マンションの最上階。

 S級探索者、朝比奈ひかりのセーフハウスであり、同時に相田ショウの住処でもある場所。

 そして、『高級MPポーション備蓄倉庫』。


 俺は、リビングのソファに深く体を沈め、ぼんやりと天井を見上げていた。

 視界の端には、壁のように積み上げられた茶色いダンボールの山がある。

 中身は言わずもがな、あの青くて苦い液体だ。

 横須賀での戦いで、数十本単位で消費したはずだが、この在庫の山を見る限り、減ったようには見えない。

 むしろ、俺たちが留守にしている間に、補充されたんじゃないかと疑いたくなるほどの圧迫感だ。


 ピーンポーン。


 玄関のチャイムが鳴る。

 モニターを確認するまでもない。この時間に訪れるのは、決まって『彼ら』だ。

 俺は重い体を起こし、玄関のロックを解除した。

 現れたのは、ギルドの制服を着たデリバリー担当の職員たちだ。彼らは恭しく一礼すると、銀色のワゴンを押して入ってくる。


「おはようございます、相田様。本日の朝食をお持ちしました」

「あ、はい。ありがとうございます……」


 ワゴンからは、朝食とは思えないほど濃厚で芳醇な香りが漂ってくる。

 彼らがダイニングテーブルの上に手際よく並べていったのは、もはや芸術品のような料理の数々だった。


「本日は、A級ボス討伐の祝賀も兼ねまして、特別メニューとなっております」


 職員が説明する。

 メインディッシュは『伊勢海老のビスク仕立てポタージュ』。

 その隣には『黒トリュフをふんだんに使用した、プレミアムオムレツ』。

 さらに、サラダには金粉がまぶされているし、パンは焼きたての高級クロワッサンだ。


「……豪華ですね」

「はい。ギルドマスターからの差し入れです。『英雄には、それにふさわしい糧を』とのことです」


 英雄、か。

 俺は、その言葉に乾いた笑いを浮かべそうになった。

 俺がやったことといえば、船酔いと戦いながら、必死にポーションをガブ飲みしていただけだ。

 英雄というよりは、ただの『付属品』に近い。


 職員たちが去った後、俺は一人、豪華すぎる朝食と向き合った。

 伊勢海老の赤色が、昨日の茹で上がったクラーケンを連想させて、少しだけウッとなる。

 スプーンでポタージュをすくう。

 濃厚だ。

 あまりにも濃厚な甲殻類の旨味が、寝起きの胃袋にガツンと来る。

 美味い。間違いなく美味いのだが、俺の貧乏舌と、ポーションで荒らされた胃壁には、少々刺激が強すぎる。


「……ふぅ」


 俺は、数口食べたところでスプーンを置いた。

 残りは、あとで起きてくるであろう『真の英雄』に任せよう。彼女なら、この程度のカロリーなど、瞬きする間に消費してしまうに違いない。


 俺は、食後のコーヒーを淹れるためにキッチンへ向かった。

 その時だった。

 テーブルの上に置きっぱなしにしていたスマートフォンが、短く振動した。

 あのギルド支給の特注端末だ。

 俺は、コーヒーカップを片手に、画面を覗き込んだ。


『ギルド管理システムより通知:ステータス更新』


 無機質な通知メッセージ。

 そういえば、昨日の戦闘のあと、バタバタしていて自分のステータスを確認していなかった。

 A級ボスを倒したのだ。それなりの経験値が入っているはずだ。

 俺は、少しの期待と、それ以上の諦めを抱きながら、ステータス画面を開いた。


「……お?」


 表示された数値を見て、俺は思わず声を漏らした。


================

名前:相田 ショウ(アイダ ショウ)

ランク:F

レベル:35

HP:85/85

MP:0/0

スキル:【ギフト】Lv.3

================


 レベルが上がっている。

 それも、一つや二つじゃない。

 レベル18から、一気に35まで跳ね上がっていた。

 さすがはA級ボス討伐だ。

 分配された経験値の桁が違うのだろう。

 レベル35。

 一般的な探索者で言えば、中堅どころか、ベテランの域に差し掛かる数字だ。

 これなら、俺のステータスも多少はマシになっているはず……。


 俺は、画面をスクロールさせて詳細を確認する。

 何度も見る。

 何度も。何度も。


 HP:85/85

 MP:0/0


「……変わってねえ」


 俺は、がっくりと項垂れた。

 1ポイントも増えていない。

 レベルが17も上がったのに、体力も魔力も、初期値のままだ。

 HP85。

 一般成人男性の平均以下の数値。

 MPゼロ。

 魔法使いとしては論外。


 わかってはいた。

 わかってはいたが、ここまで頑なに成長しないとは。

 俺の体は、成長期をとうに過ぎて、老化の一途を辿っているだけなのだろう。

 それとも、この『探索者システム』において、俺という存在は、一体どのように処理されているのか。


「……はぁ」


 深いため息をつく。

 だが、変化がないわけではない。

 スキル欄だ。

 そこだけが、唯一、輝かしい変化を遂げていた。


 スキル:【ギフト】Lv.3


 レベルが上がっている。

 前回、レベル2になった時は『倍率200倍』というとんでもない進化を遂げた。

 今回はどうなっているんだ。

 俺は、詳細をタップした。


【ギフト】Lv.3:

 自身のリソースを、契約した相手に転送する。

 転送倍率:300倍


「……さんびゃくばい」


 俺は、その数字を口の中で転がした。

 予想通りといえば、予想通りだ。

 レベル1で100倍。

 レベル2で200倍。

 そして、レベル3で300倍。

 単純明快な計算式だ。


 一番安いMPポーション一本。その回復量は100だ。

 それを俺が飲むだけで、30000もの魔力が生成される。

 30000。

 ひかりさんの最大MPが8000だ。

 つまり、ポーション一本で、彼女のMPタンクを四回近く満タンにできる計算になる。

 あふれた分はどうなるんだ。

 『リミットブレイク』を起こして、彼女の体に過剰な負荷をかけることになるのか?

 それだけは避けたい。

 だとすれば、周囲の環境に大量の魔力が放出されるのか?


「……兵器だな、これ」


 俺は、自分の手をじっと見つめた。

 何も持っていない、ただの平凡な手だ。

 剣ダコもないし、魔力を帯びているわけでもない。

 だが、この手でポーションを煽るだけで、国一つを消し飛ばしかねないエネルギーを生み出せるのだ。


 これじゃあ、ギルドが俺を『最重要機密』として囲い込むのも無理はない。

 俺は、人間というよりは、高性能な発電装置だ。

 歩く永久機関。

 いや、ポーション代がかかるから永久ではないか。

 それでも、コストパフォーマンスは異常だ。一万円で三千万相当の魔力を生み出す錬金術師も真っ青の効率。


 俺が、自分の価値と、それに反比例する自身の弱さに頭を抱えていると。


 バタンッ!


 リビングの内側のドアが、勢いよく開かれた。

 俺の思考を強制終了させる、元気いっぱいの足音。


「お兄さん! おはようございます!」


 そこには、昨日の激闘の疲れなど微塵も感じさせない、爽やかな笑顔の少女が立っていた。

 朝比奈ひかり。

 俺の契約者であり、この異常なスキルの唯一の受け取り手。

 彼女は、純白のネグリジェ……などではなく、可愛らしいパジャマ姿で、銀色の髪をふわりと揺らしている。

 朝日に照らされたその姿は、昨日の戦場で海を割っていた『魔神』と同一人物だとは、とても思えない。


「あ、おはようございます、ひかりさん」

「もう! お兄さん、早起きですね! 私、まだ眠たかったです!」


 彼女は、目をこすりながら、とてとてとこちらへ歩いてくる。

 その無防備な姿に、俺は少しだけ目のやり場に困る。

 いくら部屋が繋がっているとはいえ、ここは年頃の男女が二人きりの空間だ。

 彼女の警戒心のなさは、俺に対する信頼の証なのか、それとも単に俺を異性として認識していないだけなのか。

 たぶん、後者だろう。


「わあ! いい匂い! 朝ごはん、もう来てるんですね!」


 ひかりさんは、テーブルの上の豪華な食事を見つけると、パァッと表情を輝かせた。


「すごいです! 伊勢海老ですよ、お兄さん! 朝からご馳走ですね!」

「うん、そうだね。……俺はもう、少しもらったから、ひかりさんが食べていいよ」

「えー? 一緒に食べましょうよぅ」


 彼女は不満そうに唇を尖らせるが、すぐに席に着き、スプーンを手に取った。


「いただきます! ……んん~! おいひいです!」


 一口食べた瞬間、彼女の顔がとろけるように緩む。

 見ているこっちまで幸せになりそうな、見事な食べっぷりだ。

 彼女が美味しそうに食べているのを見ると、俺の胃もたれも少しだけ楽になるような気がする。


 彼女が食事を楽しんでいる間、俺はコーヒーを啜りながら、さっきの件を切り出した。


「あのさ、ひかりさん」

「はい? なんですか? もぐもぐ」

「さっき、ステータスを確認したんだけど……レベルが上がってたんだ」

「本当ですか!?」


 ひかりさんが、スプーンを止めて身を乗り出してくる。


「いくつになったんですか? 20くらいですか?」

「いや、35だ」

「35!? すごいです! 一気に上がりましたね!」


 彼女は自分のことのように喜んでくれる。

 その純粋な反応が、俺の卑屈な心を少しだけ解きほぐしてくれる。


「でも……HPもMPも、全然変わってないんだ。初期値のままだよ」

「え……?」


 ひかりさんは、きょとんとした顔になった。


「85のまま、ですか?」

「ああ。1も増えてない」

「うーん……。それは、ちょっと不思議ですね。普通なら、レベルが上がれば基礎ステータスも伸びるはずなんですけど」


 彼女は首を傾げ、難しい顔で考え込んだ。

 そして、ふと思い当たったようにポンと手を打った。


「もしかして、お兄さんの体質が、まだ『探索者』として目覚めきっていないのかもしれません!」

「目覚めてない?」

「はい! 私も最初はそうでした。レベルが上がっても、体が使いこなせなくて、ステータスに反映されないことがあるんです。そういう時は……」


 彼女は、ニヤリと笑った。

 その笑顔に、俺は少しだけ嫌な予感を覚えた。

 それは、あの『戦闘狂』としての顔に近い。


「体を、いじめ抜くんです!」

「……はい?」

「筋肉をつけたり、運動神経を刺激したりして、身体能力を広げてあげるんです! そうすれば、潜在的なステータスが表に出てくるはずです!」


 彼女は、力説する。

 なるほど。

 理屈はわかる。

 RPGとかでも、レベルアップだけじゃなくて、訓練でステータスを上げるシステムはある。

 俺の体が、レベル35という高みに追いついていないだけなのかもしれない。


「じゃあ、筋トレとかすればいいのかな?」

「それもいいですけど、もっと効率的な方法があります!」


 ひかりさんは、目を輝かせて立ち上がった。


「私と、組み手をしましょう!」

「……えっ」


 俺は、持っていたコーヒーカップを取り落としそうになった。

 組み手。

 S級探索者と?

 HP85の俺が?


「ちょ、ちょっと待って。それって、死ぬんじゃ……」

「大丈夫です! 手加減しますから! 私、力のコントロールは得意なんですよ?」


 嘘だ。

 昨日の海割りを見た後で、その言葉を信じろというのは無理がある。

 この人は、『0』か『100』しか知らないピーキーな思考回路の持ち主だ。

 微調整なんて機能は搭載されていない。


「それに、お兄さん。昨日の戦いで思いました」


 ひかりさんの表情が、急に真剣なものに変わった。


「お兄さんは、私にとって一番大切なパートナーです。だから……もしもの時、自分の身を守れるようになってほしいんです。私の防御フィールドだけじゃなくて、お兄さん自身が、危険を回避できるような動きを身につけてくれたら……私、もっと安心できます」


 彼女の瞳が真っ直ぐに俺を射抜く。

 そこにあるのは、純粋な心配と願いだ。

 俺を守りたい。

 その気持ちが痛いほど伝わってくる。


 確かに、その通りだ。

 俺はいつまでも、彼女の背中に隠れているわけにはいかない。

 ポーションを飲むだけの『バッテリー』でいいと思っていた時期もあったが、戦場に出れば、俺自身が標的になることもある。

 昨日のように、船が揺れて転倒したり、破片が飛んできたりするだけで、俺のHPは簡単に尽きる。

 少しでも、生存率を上げる努力は必要だ。


「……わかった。やろう」


 俺は覚悟を決めて頷いた。


「やった! さすが、お兄さんです!」


 ひかりさんは、パァッと笑顔に戻り、バンザイをした。


「じゃあ、ご飯を食べたら、すぐに始めましょう! このマンションの中に、居住者専用のトレーニングルームがあるんです! 貸し切りにしちゃいましょう!」


 彼女の行動力は、相変わらず凄まじい。

 俺は、残りのコーヒーを一気に飲み干し、来たるべき『しごき』に備えて気合を入れた。



 マンションの低層階にあるトレーニングルーム。

 そこは、俺が知っている『ジム』とは、次元の違う空間だった。

 広さは、体育館並み。

 並んでいるマシンは、どれも最新鋭のデジタル制御式で、使い方がさっぱりわからない。

 プールもあるし、酸素カプセルまで完備されている。

 もちろん、俺たち以外の利用者はいない。

 入り口には、例のごとく黒服のギルド職員が立哨しており、「ごゆっくりどうぞ」と無機質な笑顔で送り出してくれた。


「さあ、お兄さん! まずは準備運動です!」


 ジャージ姿に着替えたひかりさんが、元気よくマットの上で跳ねる。

 俺も、ギルド支給のスポーツウェアに着替えて、彼女の隣に立った。

 鏡に映る二人の姿。

 しなやかで引き締まった肢体を持つ美少女と、もやしっ子のようなひょろひょろの男。

 あまりにも残酷な対比だ。


「イチ、ニッ! サン、シッ!」


 ひかりさんの号令に合わせて、ストレッチを始める。

 彼女の体は、驚くほど柔らかい。

 前屈すれば、ぺたりと上半身が床につくし、開脚も180度余裕だ。

 対する俺は、膝まで手が届くのがやっとで、あちこちの関節が悲鳴を上げている。


「お兄さん、硬いですねぇ。これじゃあ、敵の攻撃をかわせませんよ?」

「うぐぐ……。これでも、必死なんだよ……」


 ひかりさんは、苦笑しながら俺の背中に乗り、グイグイと押してくる。


「痛い! 痛い痛い! 折れる! 背骨が折れる!」

「大丈夫です! これくらいじゃ折れません! ほら、息を吐いてー!」


 彼女の容赦ない柔軟指導により、俺の体はミシミシと音を立てて悲鳴を上げた。

 これは訓練ではない。拷問だ。


 準備運動だけで息絶え絶えになった俺を、ひかりさんは広いマットの中央へと立たせた。


「じゃあ、実践練習です! 私が攻撃しますから、お兄さんはそれを避けてください!」

「えっ、マジで?」

「マジです! 武器は使いません。素手で、軽く行きますから!」


 軽く、と言われても。

 S級の『軽く』が、一般人の『致死量』であることを、俺は嫌というほど知っている。


「構えてください、お兄さん!」


 ひかりさんが、ボクシングのような構えを取る。

 その瞬間、彼女の纏う空気が変わった。

 昨日の戦場で見せた、あの鋭い気配。

 獲物を狙う猛獣のような圧力が肌を刺す。


「い、行きますよっ!」


 シュッ!


 彼女の姿がブレた。

 速い。

 次の瞬間には、俺の目の前に彼女の拳が迫っていた。


「うわっ!?」


 俺は無様に尻餅をついて、後ろへ転がった。

 彼女の拳は、俺の鼻先数センチでピタリと止まっていた。

 風圧だけで、前髪が巻き上げられる。


「お兄さん! 目をつぶっちゃダメです! 敵を見ないと!」

「む、無理だよ! 速すぎて見えないって!」

「見えなくても、気配を感じるんです! 『来る!』って思ったら、体を動かす! それだけです!」


 それができれば苦労はしない。

 だが、ひかりさんは手を緩めてはくれない。


「もう一回! 立ち上がってください!」


 俺は震える足で立ち上がる。

 それからの一時間は、地獄だった。

 ひかりさんのパンチやキックを、ひたすら避ける。

 避けるというか、余裕がない俺は、腰を抜かしながらも無様に逃げる。

 彼女は楽しそうにステップを踏みながら、俺を追い回す。

 まるで、弱ったネズミを嗜虐的に追いかける猫のようだ。


「ほらほら! 右です! 次は左!」

「はぁ、はぁ……!もう!勘弁して……!」


 俺の肺は破裂寸前だ。

 汗が滝のように流れる。

 足が重い。けれど、身体は動いていた。

 何かヤバいものから生存本能が逃げようとする。今の俺にあるのは、ただそれだけだった。


「ラストです! 私の本気、少しだけ出しますよ!」


 ひかりさんが、ニヤリと笑った。

 彼女の体に、青白い魔力がうっすらと纏わりつく。


「えっ、ちょっ……!」


 ドンッ!


 床を蹴る音と共に、彼女が消えた。

 いや、消えたように見えただけだ。

 超高速の移動。

 俺の背後。


「ここです!」


 振り返る間もなく、背中に衝撃が走った。

 ドンッ!

 彼女の掌底だ。

 絶対、手加減されているはずなのに、トラックに撥ねられたような衝撃。

 俺の体は宙を舞い、数メートル先のマットに顔から突っ込んだ。


「ぐふっ……!」


 目の前が真っ白になる。

 動けない。

 指一本動かせない。

 俺のHPは、間違いなく1まで減っているに違いない。


「ああっ! お兄さん!? ごめんなさい、やりすぎちゃいました!?」


 ひかりさんが慌てて駆け寄ってくる。

 俺の体を抱き起こし、膝枕の状態にする。


「だ、大丈夫ですか!? 意識ありますか!?」

「……あ、ああ……。なんとか……」


 俺はかすれた声で答えた。

 彼女の顔が近い。

 汗ばんだ肌と、甘い香りが鼻をくすぐる。

 心配そうに潤んだ碧い瞳が、俺を覗き込んでいる。


「よかったぁ……。ごめんなさい、楽しくなっちゃって、つい……」


 彼女は申し訳なさそうに眉を寄せる。

 そして、タオルで俺の顔の汗を優しく拭ってくれた。


「……でも、お兄さん。最後の方、動きが良くなってましたよ!」

「そ、そうかな……?」

「はい! 私の動きに、目が慣れてきたみたいです! これなら、すぐに強くなれますよ!」


 彼女は嬉しそうに笑う。

 その笑顔を見ていると、全身の痛みも少し和らぐような気がした。


「……ありがとう、ひかりさん」


 俺は、素直に礼を言った。

 こんな、何の取り柄もない俺のために、ここまで一生懸命になってくれる。

 その気持ちが、何よりも嬉しかった。


「えへへ。どういたしまして! ……あ、そうだ」


 ひかりさんは、何かを思いついたように、俺の耳元に顔を寄せた。


「頑張ったご褒美に……お膝枕してあげますね」

「えっ」


 彼女はそのまま、俺の頭を太ももの上で撫で始めた。

 柔らかい感触。

 心臓の音が聞こえてきそうな距離。

 これ、訓練の一環なのか?

 それとも、ただのイチャイチャなのか?


(……まあ、役得ってことでいいか)


 俺は抵抗する気力もなく、そのまま彼女の温もりに身を委ねた。

 窓の外には、平和な東京の空が広がっていた。


 こうして、俺たちの特訓は幕を閉じた。

 もちろん、ステータス画面の数字は、ピクリとも動いていなかったが。



 その後、俺たちはシャワーを浴びてセーフハウスに戻った。

 体はボロボロだが、気分は悪くない。

 心地よい疲労感と共に、ソファに沈み込む。


「お兄さん、お水どうぞ」


 ひかりさんが、ミネラルウォーターのボトルを渡してくれる。

 気が利くパートナーだ。


「ありがとう」


 俺が一口飲んだところで、インターフォンが鳴った。

 このタイミング。

 昼食のデリバリーか、それともギルドからの新たな指令か。

 どちらにしても、ろくなことではないだろう。


「私が開けますね!」


 ひかりさんが、パタパタと玄関へ向かう。

 俺は、のんびりと水を飲みながら、モニターを眺めた。


 そこに映っていたのは、見知らぬ女性だった。

 いや、見知らぬ、ではない。

 どこかで見たことがあるような……。


 つばの広い、避暑地のお嬢様がかぶるような白い女優帽。

 そして、体のしなやかなラインを強調する、高級ブランドのノースリーブワンピース。足元には、凶器になりそうなほどヒールの高いサンダル。

 どこからどう見ても、これから銀座の高級ブティックを荒らしに行くセレブか、あるいはパパラッチの目を逃れてお忍びデートに向かう大物女優の休日スタイルだ。


「えっと、どちら様ですか?」


 ひかりさんが、怪訝そうに尋ねる。

 すると、女性はサングラスをずらし、インターフォンのカメラに向かって不敵に笑った。


「私だ。開けろ」


 その声。

 そして、燃えるような赤い瞳。


 ブフォッ!!


 俺は、飲んでいた水を盛大に吹き出した。


「レ、レイナさん!?」


 ひかりさんも驚きの声を上げる。

 そう、そこに立っていたのは、『紅蓮の戦姫』こと緋咲レイナだった。

 なぜ、ここに?

 しかも、あんな格好で?


 俺の胃が、条件反射のようにキリリと痛み出した。

 平和な日常は、やはり長くは続かないらしい。

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