第48話 ー エリナの記憶
ーー《ルーベント・北区 祖母の家》
油皿の火が、壁の影をゆっくり揺らしている。
炎が伸びたり縮んだりするたび、時間が少しだけ巻き戻って、また進む。
私の毎日は、あの揺れに合わせて息をしている。
◆
十歳のとき。
庭の石畳に、父が白い粉で円を描いた。
「今日はこの円から出ないこと。それが約束だ。」
太い声に、いつもの笑いが混じる。
私は頷き、背丈ほどの木剣を両手で握る。
踏み込む。
打つ。
弾かれる。
ふらつく。
木と木がぶつかる乾いた音が、いつも上から降ってきて、私の音はいつだって下から跳ね返るだけ。
たった一太刀でいい。
どこでもいい。
袖でも、髪でも、空気でも。――刃先が震えて、視界が滲んだ。
「うっ……!」
鼻の奥が熱くなる。
悔しい。
膝が勝手に揺れて、円から足が出る。
木剣が下がった瞬間、涙がぼとぼとこぼれた。
縁側で見ていた母が、すっと立ち上がった。
「こら、いじめないの。」
父は慌てて手を振る。
「ははははっ、すまない。エリナが余りにも真剣だったもので。」
母は笑いながら私の額の汗を拭き、手を包む。
「悔しいのは、とても良いことよ。悔しさは、次の一太刀に乗せられるの。」
父が円の横に、もうひとつ小さな印を足で刻んだ。
「どうやったら届くか、考えてごらん。」
私はその言葉を呑みこんで、胸の真ん中に沈めた。
◆
十五歳の春。
ルーベントの門の前は、いつも通りうるさかった。
屋台の声、鍛冶の槌の音、冒険者の笑い声。
学校でできた友達と武芸の話をして、帰り道は柵の影を飛び越えながら歩いた。
私は毎日、少しずつ積み上げていった。
父と母の背中に、いつか届くために。
その夜、家の卓に、黒い封蝋の封書が置かれた。《深淵探索局》の紋章。
父がそれを開けて、眉間に皺を寄せた。
「断った。」と父は短く言う。
母は「そうね。」と同じ長さで返した。
リスクの高い依頼だという。
深層に連なる連隊攻略。
帰らない可能性——そんな言葉が食卓に並んだ。
私は言葉の形を知っていても、重さは知らなかった。
頭の中で薄い紙が震えるみたいに意味が揺れる。
一週間後、同じ封蝋がもう一度届いた。
夜更け。
台所の隅で、水の音に紛れるように、二人の声が交わる。
「……あの人には貸しがある。」
母の声には、私の知らない堅さがあった。
「分かってる。」
父は短く笑った。
「……断れば住み難くなるだろう。」
翌朝、父はいつものように私の髪をわしわし撫で、母は乱れを丁寧に結び直した。
二人は小さなことで言い合い、すぐに笑って、最後は同時に言った。
「行ってくる。」
「行ってきます。」
母の唇が頬に落ちる。
母の白い指がひらりと揺れ、2人の背が扉の影に飲み込まれた。
◆
待つという事には忍耐力がいる。
祖母の家の柱時計が、私を待たせるのが上手であることを、初めて知った。
一週間。
門の影が伸びる角度で時間を測った。
二週間。
影が石畳の割れ目に届く瞬間を合図に掃き掃除をした。
三週間。
友達の笑い声が遠くなる。
四週間目。
私は祖母の茶碗の欠けを指で撫でて、ひんやりした感触で、内側の熱をなだめた。
玄関を叩く音が、秋の雨より硬く響いた。
扉を開けると、鎧の継ぎ目から湿り気の匂いが上がる。
兵士が二人。
姿勢を整え、目を伏せ、言葉の前に書状を取り出す。
「……遺憾ながら。」
その一語の手前で、私は祖母の背に回っていた。
祖母の背は想像よりも小さく、固かった。
「中央ギルド《深淵探索局》は、ルーベントダンジョン深層攻略に参加した第七隊の帰還不能を確認。生存者なし。全滅と認定。」
言葉は丁寧で、丁寧すぎて、怒る場所がどこにもなかった。
私の膝が、音を立てて床に落ちる。
庭で木剣を落としたときと同じ音が、家の中で大きくなった。
泣こうとした。
泣けるはずだった。
15歳の私は思いの外、その事実を信じたくなかったらしい。
目の奥は熱い。
喉はからから。
砂を飲むみたいな咳。
ただ涙は、どこにもいなかった。
泣いたら全てを諦めてしまうような気がして……。
祖母の手が私の手を探し当て、指が絡む。
絡んだ指の間で、私の脈だけが生き物みたいに騒いでいる。
兵士は礼を尽くし、扉は静かに閉まった。
閉まる音が、心の中のどこかにひびを入れて、そのひびが音もなく広がった。
その時ーー母の言葉が脳内で再生される。
「良い?これはママの好きな言葉。」
ーー『つらい時は、元気いっぱいモヤモヤ吹っ飛ばせ!!』ーー
「エリナは頑張れる子って信じてるわ。」
私はその言葉通り、笑顔を作って明るく振る舞い始めた。
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