第48話 ー エリナの記憶


ーー《ルーベント・北区 祖母の家》


油皿の火が、壁の影をゆっくり揺らしている。


炎が伸びたり縮んだりするたび、時間が少しだけ巻き戻って、また進む。


私の毎日は、あの揺れに合わせて息をしている。



十歳のとき。


庭の石畳に、父が白い粉で円を描いた。


「今日はこの円から出ないこと。それが約束だ。」


太い声に、いつもの笑いが混じる。


私は頷き、背丈ほどの木剣を両手で握る。


踏み込む。

打つ。

弾かれる。

ふらつく。


木と木がぶつかる乾いた音が、いつも上から降ってきて、私の音はいつだって下から跳ね返るだけ。


たった一太刀でいい。


どこでもいい。


袖でも、髪でも、空気でも。――刃先が震えて、視界が滲んだ。


「うっ……!」


鼻の奥が熱くなる。


悔しい。


膝が勝手に揺れて、円から足が出る。


木剣が下がった瞬間、涙がぼとぼとこぼれた。


縁側で見ていた母が、すっと立ち上がった。


「こら、いじめないの。」


父は慌てて手を振る。


「ははははっ、すまない。エリナが余りにも真剣だったもので。」


母は笑いながら私の額の汗を拭き、手を包む。


「悔しいのは、とても良いことよ。悔しさは、次の一太刀に乗せられるの。」


父が円の横に、もうひとつ小さな印を足で刻んだ。


「どうやったら届くか、考えてごらん。」


私はその言葉を呑みこんで、胸の真ん中に沈めた。



十五歳の春。


ルーベントの門の前は、いつも通りうるさかった。


屋台の声、鍛冶の槌の音、冒険者の笑い声。


学校でできた友達と武芸の話をして、帰り道は柵の影を飛び越えながら歩いた。


私は毎日、少しずつ積み上げていった。


父と母の背中に、いつか届くために。


その夜、家の卓に、黒い封蝋の封書が置かれた。《深淵探索局》の紋章。


父がそれを開けて、眉間に皺を寄せた。


「断った。」と父は短く言う。


母は「そうね。」と同じ長さで返した。


リスクの高い依頼だという。


深層に連なる連隊攻略。


帰らない可能性——そんな言葉が食卓に並んだ。


私は言葉の形を知っていても、重さは知らなかった。


頭の中で薄い紙が震えるみたいに意味が揺れる。


一週間後、同じ封蝋がもう一度届いた。


夜更け。


台所の隅で、水の音に紛れるように、二人の声が交わる。


「……あの人には貸しがある。」


母の声には、私の知らない堅さがあった。


「分かってる。」


父は短く笑った。


「……断れば住み難くなるだろう。」


翌朝、父はいつものように私の髪をわしわし撫で、母は乱れを丁寧に結び直した。


二人は小さなことで言い合い、すぐに笑って、最後は同時に言った。


「行ってくる。」

「行ってきます。」


母の唇が頬に落ちる。


母の白い指がひらりと揺れ、2人の背が扉の影に飲み込まれた。



待つという事には忍耐力がいる。


祖母の家の柱時計が、私を待たせるのが上手であることを、初めて知った。


一週間。

門の影が伸びる角度で時間を測った。


二週間。

影が石畳の割れ目に届く瞬間を合図に掃き掃除をした。


三週間。

友達の笑い声が遠くなる。


四週間目。

私は祖母の茶碗の欠けを指で撫でて、ひんやりした感触で、内側の熱をなだめた。


玄関を叩く音が、秋の雨より硬く響いた。


扉を開けると、鎧の継ぎ目から湿り気の匂いが上がる。


兵士が二人。


姿勢を整え、目を伏せ、言葉の前に書状を取り出す。


「……遺憾ながら。」


その一語の手前で、私は祖母の背に回っていた。


祖母の背は想像よりも小さく、固かった。


「中央ギルド《深淵探索局》は、ルーベントダンジョン深層攻略に参加した第七隊の帰還不能を確認。生存者なし。全滅と認定。」


言葉は丁寧で、丁寧すぎて、怒る場所がどこにもなかった。


私の膝が、音を立てて床に落ちる。


庭で木剣を落としたときと同じ音が、家の中で大きくなった。


泣こうとした。


泣けるはずだった。


15歳の私は思いの外、その事実を信じたくなかったらしい。


目の奥は熱い。


喉はからから。


砂を飲むみたいな咳。


ただ涙は、どこにもいなかった。


泣いたら全てを諦めてしまうような気がして……。


祖母の手が私の手を探し当て、指が絡む。


絡んだ指の間で、私の脈だけが生き物みたいに騒いでいる。


兵士は礼を尽くし、扉は静かに閉まった。


閉まる音が、心の中のどこかにひびを入れて、そのひびが音もなく広がった。


その時ーー母の言葉が脳内で再生される。


「良い?これはママの好きな言葉。」


ーー『つらい時は、元気いっぱいモヤモヤ吹っ飛ばせ!!』ーー


「エリナは頑張れる子って信じてるわ。」


私はその言葉通り、笑顔を作って明るく振る舞い始めた。


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