第3話 名乗りボタン練習会と、奉納帳のページ

水曜の朝。

業務フロー改善チームのホワイトボードには、大きくマジックでこう書いてあった。


今日やること

1. 名乗りボタンの社内テスト

2. 「怖くない説明」を作る

3. 旧来フローとの比較資料


琴音がその前に立って、ペンをクルクル回している。


「今日は、“ボタン押すの怖い人”にも来てもらいます」


「そういう人、いるんですか?」

俺が聞くと、


「めちゃくちゃいます」

即答された。


「『ハンコなら押せるけど、ボタンは怖い』って人、多いですよ。『一度押したら取り返しがつかない気がする』って」


「ハンコのほうがよっぽど取り返しつかないですけどね……」


「そうなんですけどね」


琴音は苦笑いして、ホワイトボードの下に小さく付け足した。


4. “怖い”を減らす


紗良がPCを閉じて立ち上がる。


「じゃあ、今日の主役呼んできますね。“押しミスを一番恐れてる人”です」


 



十分後。

会議室に入ってきたのは、きっちりスーツの男性だった。


総務・購買担当の 中村 さん。

書類の束を抱えて、少し緊張した顔をしている。


「えっと……白石くんのところで、なにか新しい“決裁方法”を試すって聞いて」


「ありがとうございます。ちょうど、中村さんの業務で試したかったところです」


俺は椅子を勧めて、画面をつけた。


「まずは、これを見てもらえますか」


画面には、購買申請フォーム。


・申請内容:備品購入(ホワイトボードマーカー)

・金額:5,000円

・申請者:営業一課 などなど。


その下に、例のボタン。


[ 名乗って決裁する ]


「ここを押すと、その人の名前と時間と場所が残ります。ハンコの代わりです」


中村さんは、じっと画面を見つめた。


「……これ、一回押したら戻せない?」


「誤操作なら、一定時間内に“取り消し”ができます。それもログに残りますけど」


琴音が説明を足す。


「“押し間違えたかもしれない”って不安を減らすために、五分以内なら取り消せるようにしました。取り消しも“名乗り”として記録されます」


「取り消しボタンもあるのか……」


中村さんは、安堵と不安が混ざった顔をした。


「でも、やっぱり“押した人の名前が残る”って言われると、ちょっと怖いですね。今までは部長印と課長印が並んでて、その一部だったから」


「そこを変えたいんです」


俺は正直に言った。


「“誰が見たか分からないハンコ並び”をやめて、“この人が見ました”って名前をちゃんと付けたい」


「名前が付くってことは……、“もし何かあったら、まず自分が呼ばれる”ってことですよね」


「はい」


中村さんは、しばらく黙っていた。

ゆいが、そっと資料を一枚出す。


「この図、見てもらえますか」


紙には、二つのフローが描かれている。


左は、旧来の押印フロー。


申請者 → 課長印 → 部長印 → 総務印 → 契約課印 → 完了。


右は、新しいフロー。


申請者 → 名乗りボタン(中身を見る人1人) → 完了。


「左のフロー、ハンコが四つありますよね」


ゆいが指さす。


「でも、“本当に中を読んでる人”って、実は一人じゃないですか?」


中村さんは苦笑した。


「……正直に言うと、そうです。全部きっちり読む時間はないから」


「読んでる人が一人なら、“読んだ人の名前”が残ったほうが、あとから助けてくれる人を見つけやすい。それが“名乗りボタン”の狙いです」


琴音が続ける。


「責任を一人に押し付けるためじゃなくて、“この人に聞けば分かる”を決めておくため」


中村さんは、少しだけ表情を和らげた。


「……“犯人探し”って思ってました」


「よく言われます」


俺は笑った。


「でも、犯人探しは、名前がなくても起きます。“誰がやったんだ”って。だったら最初から“この人がやった”って出しといたほうが、まだマシかなって」


中村さんは、ゆっくりうなずいた。


「じゃあ……一回、押してみましょうか」


 



「最初は、僕じゃなくて中村さん自身でお願いします」


俺はマウスを中村さんに渡す。


「え、いいの? いきなり?」


「いきなりのほうが、現場テストになりますから」


琴音が、そっとアドバイスを添える。


「押す前に、内容を一行声に出して読んでください。“名乗る”前の儀式みたいなものです」


中村さんは小さく咳払いをした。


「えっと……『備品購入(ホワイトボードマーカー) 金額5,000円』」


「はい、どうぞ」


[ 名乗って決裁する ] をクリック。


カチ。


画面右側にログが出る。


[決裁] 中村 明/202X-XX-XX 10:32/端末:会議室A-PC3


中村さんは、その行をじっと見つめた。


「……出ましたね」


「はい。これが、中村さんの“名乗り”です」


俺はログを指さしながら続ける。


「あとから『誰が決めたんだ』って言われたときに、“ここです”って言える。逆に、『これ決めたの自分じゃないです』って言える場合もある」


琴音も補足する。


「“名前が残らない決定”は、後で誰に聞けばいいか分からなくて、みんなのストレスになります。名前が残れば、そこから話が始められます」


中村さんは、ふっと息を吐いた。


「……押した瞬間、ちょっと怖かったですけど。ログを見たら、逆に安心しました」


「よかった」


「この“名乗りボタン”、“押したら終わり”じゃなくて“押したらスタート”って感じですね」


ゆいが嬉しそうに頷く。


「そう言ってもらえると、UI側としては大成功です」


 



名乗りボタン練習会は、そのあとも続いた。


・若手社員:「これ、自分の名前が残るって気持ちいいですね」

・中堅社員:「“部長のハンコ待ち”しなくていいなら、早く広めてほしい」

・管理職:「“俺の名前が全部に載るのは嫌だ”っていう気持ちもあります」


そのたびに、琴音と紗良とゆいが、

一つ一つ説明し、人の感情をほどいていく。


「全部に載る必要はありません。“本当に見て決めた案件だけ”にしてください」

「上長承認が必要な案件は、名乗りボタンを二つに分けます。“チェック用名乗り”と“最終名乗り”です」

「“判子がないと不安”って人には、ログ画面を印刷して渡してもいいです」


夕方には、ホワイトボードが感想と課題で埋まっていた。


・押す前に内容を読む習慣づけ

・取り消し理由のテンプレを用意する

・「犯人探しではない」説明文をどこかに入れる


「“犯人探しじゃない”って、何回も言ったほうがいいですね」

琴音。


「“困ったときに助けてくれる人を決める”って言い換えましょう」

紗良。


「ボタンの横に、小さい文章付けます」

ゆい。


※ここで名乗るのは、

 “困ったときに聞かれる最初の人”になるためです。


「これ、いいですね」


俺はその文章を見てうなずいた。


(“責任を押し付けるため”じゃなくて、“最初に相談される人になるため”)


旧会社の全印一致とは、正反対だ。


 



同じ頃、旧本社・六階 契約課「中央押印窓口」。


蛍光灯の白は相変わらず強く、

カウンターの上には今日も紙の山ができている。


判谷 朱丸は、朱肉のふたをそっと開けた。

インク面の赤を、指先でほんの少しだけ撫でて確かめる。


「さあ、小さき紙たちよ。今日も巡礼の時間だ」


カウンターの横、棚の中段。

黒いバインダーが三冊並んでいる。


背表紙には、それぞれ太い筆で、


【奉納帳 一】【奉納帳 二】【奉納帳 三】


と書かれていた。


判谷は「一」を取り出し、ページをめくる。

びっしりと並ぶ押印の痕。

誰が、どの案件に、どの順番で押したか——

赤い線が矢印になって図になっている。


「……ここだな。営業三課、A社契約」


指先でその朱線をなぞりながら、

彼は自分の記憶をたぐるように目を細めた。


(誰が最初に来た? 午前の光だったか、午後の光だったか……)


うまく出てこない。

顔も、声も、霧がかかったみたいにぼやける。

それでも、奉納帳の朱線だけははっきりしている。


「ポンの痕が、今日の我を繋ぐ」


小さくそうつぶやいて、

彼はそっとページを閉じた。


——ここ数年、

「その日、誰が何を持ってきたか」が

ところどころ抜け落ちていることを、

本人が一番よく分かっていた。


だからこそ、残す。

押して、線を引いて、順番を書き残す。

それが、自分の外付けの記憶だ。


「次——営業一課」


差し出された紙を受け取る。

緊張した若手の声が乗っている。


「この稟議書、そんな大したものじゃないんですけど……」


「“大したことない”と呼ばれる紙ほど、あとで揉める」


判谷は淡々と言う。


一本目の印で、左上にポン。

二本目の印で、右上にポン。

三本目で、部長の分を代行してポン。


最後に、例の一本。


【全印一致】


「秘儀——全印一致ッ!!」


ドンッ。


大きな朱丸が、今日も一つ増えた。


彼はその紙を奉納帳の横に置き、

どのページに朱線を引くかを検討する。


どの案件が、どの順番で。

誰の名の印が、いくつ重なったか。


(これを失えば、我は今日のことをどこまで覚えていられる?)


一瞬だけ、不安がよぎる。

すぐにそれを、儀式の手順で上書きする。


紙を揃える。

端をトントンと揃え、

奉納帳の空いている行に朱線を一本引く。


「ポン、ポン、ポン……よし。今日も我の世界は、朱でつながっている」


カウンターの上で、印鑑ケースのふたが静かに閉じられる。


全印一致の音は、

まだこの階だけのものだ。


——彼はまだ知らない。

 別のビルの別の階で、

 小さなカチの音が、静かに増え始めていることを。


そして、そのカチのログが、

いつか自分の奉納帳よりも説得力を持つ日が来ることも。


そして、そのカチのログが、

いつか自分の奉納帳よりも説得力を持つ日が来ることも。

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