第2話 犬面


※この章には、性的支配・暴力を想起させる描写が含まれます。

登場人物の心の歪みを描く一部として表現されています。苦手な方はご注意ください。


 _______________

 

 物音一つ立てずにスヤスヤと眠っている心美を見つめる。四角い小さなベッドが守ってくれているのだ。

 「少しずつ聞いてくれるようになったのよね」

 まだ手のひらに収まる頭をガラス玉に触れるようにそっと撫でる。

 磨き方次第でこの子の人生が変わる。

 「美しく素直に育つのよ。さぁ笑って」

 

 泡と水が混ざり合うシャカシャカと鳴る音が止む。

 「里美。定位置に弁当がないぞ。寝ている子を見ている暇なんてあるのか?」

 「すみません。心美が泣いたので……」

 キッチンのカウンターに置く決まりのお弁当箱は太一さんが座っているテーブルにポツンとある。

 「泣いたからどうした」

 太一さんは背筋を伸ばし、ゴホンと声を整える仕草をしている。

 「改めて言っておく。僕は今まで通りの生活を送る。里美なら言っている意味がわかるよな」

 「はい。もちろんです」

 お弁当箱を定位置に置き、両手を重ね合わせ頭を下げた。

 「さすが僕の妻だ。あの時、君を拾って正解だったよ」

 「感謝しています」

 

 ──────あの時、私は確かに救われたのだ。


 人生に目的を持てない私は、高校卒業後に父の言う通り、面接を受け無事に合格した。地元では名が知られている酒の卸し店だ。両親にあまり褒めてもらえたことがなかったが、この時だけは金メダルをとったオリンピック選手かのように褒められた。

「これで安心ね。里美は笑顔しか取り柄がないから心配だったのよ」

 母は胸の前で両手を合わせ、少女のようなポーズをしている。

「お父さんの言うことに間違いはないだろ。よかったな里美」

「うん!ありがとう。お父さんとお母さんのおかげだよ。私、頑張るね」

 この時も決して笑顔を忘れなかった。しかし、喜びもつかの間。

 

 ……村田酒屋への就職は私にとって地獄の始まりだったのだ。


 村田修造さんは社長でありながらお酒の配達もしていた。無口な人で感情が読み取りにくい。それとは真逆で奥様の村田百合子さんはいつも明るく太陽のような人だ。

「里美ちゃん、お蕎麦食べにいかない?私のお友達も一緒なんだけど」

「いいんですか?……お邪魔ではないですか?」

「そんな、邪魔なわけないでしょう。私から誘ってるのよ?ほら、私たち子供がいないでしょ。だから娘みたいに思ってるの。里美ちゃんにぜひ、お友達に会ってほしくて」

 請求書を作成しているところを遮ってまで声をかけてくる。

「はい。そう思って頂けて嬉しいです」

「決まり!私、着替えてくるわね」

  事務所はひと続きのフロアだった。コツコツとヒールを鳴らし、奥様は社長室へ入っていった。その背中を見送る。

 カタカタとキーボードを鳴らしていると、サイドブレーキを引く音がし、社長の戻りを告げた。二階へ向かうドスドスと重い足音が近づく。それと同時に身構えてしまう。

「戻った」

 低く聞き取りにくい声が事務所に響き、慌てて返事をした。

「社長、おかえりなさい」

「里美ちゃん、一人かい?」

「いえ、奥様は社長室で着替えていらっしゃいます」

 手を止め笑顔で答えた。

「……百合子、いるのか」

 独り言のつもりだったのだろう。しかし遮る音がない事務所内では私の耳に届いてしまった。社長の目を見ることが出来ずキーボードに視線を戻した。

 コツコツと奥様の足音が聞こえ、見つからないように胸を撫で下ろす。

「あら、おかえりなさい。今から里美ちゃんとランチに行ってくるわね」

「請求書は出来てるのか」

 棘がついた言葉を私に放つ。

「いえ、まだです」

「それは困る。午後一番に請求書を持っていかなければならない」

「明日にしてもらえないわけ?」

 奥様は子猫のような表情をし、甘い声を出す。

「それは、無理だ。仕入れ値段の件でクレームが入り、打ち合わせをしなければならん。里美ちゃんには申し訳ないが請求書を最優先してもらう」

「それ、社長命令ってこと?」

「そうだ」

 奥様は濡れた子猫のように寂しそうな目で私を見る。

「里美ちゃん、ごめんなさいね。私から誘ったのに」

「謝らないでください。また誘ってもらえたら嬉しいです」

 椅子から立ち上がり、大げさに頭を下げた。心とは反対の行動に胸が締め付けられる。

 

 ────二人にしないで。

 本当はそう言いたかった。

 

「百合子は出かけると一時間、二時間じゃ帰ってこないからな」

「お友達を待たせたら申し訳ないわ。私だけごめんなさいね。では、行ってきます」

 コツコツとリズムを奏でるように奥様は出かけて行った。

 ────私は、社長の口端が歪むのを見落とさなかった。


 ……ラン、ララ、ラララン

 さぁ笑って

 ラン、ララ、ラララン

 


 また、唄わなければならない。


「里美。行こう」

 私の髪の毛を撫で、ナメクジのようにまとわりつく。キーボードから指を離すことができない。

「せ、請求書を作らないと……」

「言わなくても里美なら分かってるだろ。二人きりになる口実だったってことぐらい。俺にわざわざ言わせないでくれよ。ほら、行こう」

 社長の腕がナメクジのように右腕をヌルッと持ち上げ、そのままピタリと身体をくっつけている。

「行くぞ。返事は?」

「……」

「返事!」

「はい。行きます」

 抵抗することなく足を動かしながら、給水場に『塩』があったかなと変な妄想をした。

 社長は身体が離れないように背中でドアを押し開ける。

「今日は、自分でボタンを外してごらん」

「……」

「ほら、早く。俺の言うことが聞けないのかい?それは、残念だ。お父さんとお母さんが涙を流してしまうだろうなぁ」

「わかりました」

「教えた通りにやってごらん。里美なら出来る」

 もう、私の身体もナメクジだ。


 ……ラン、ララ、ラララン

 さぁ笑って

 ラン、ララ、ラララン


 

「そう。その笑顔もたまらないな」

 まとわりつく視線を受け止めながらボタンに手をかける。

 一つずつゆっくりと外されていく丸い形をしたものは、次第に三角に見え、触れる度にチクリと角が刺さる錯覚に陥っていく。

 それはきっと、私の心なのだ。

 

 全てのボタンが外れ、ナメクジが露わになる。テーブルの上に置かれているペン立てが塩の入った瓶に見えてしまう。

「とても綺麗だ。こっちにおいで」

 

 脚の付け根でさらに大きなナメクジがうごめく。

 

 喉元で酸が揺れているが、私はまた唄う。

 


 ……ラン、ララ、ラララン

 さぁ笑って

 ラン、ララ、ラララン

 


 大きく脈を打つ塊の前に膝をついたその瞬間、ガチャと金属音が響く。

 そして空気が止まる。

 

「しゃ、社長!何をしてるんですか」

 

 

 ────大声を出したその人は『本条太一』であった。


 この状況で、もう言い訳は通用しない。ナメクジは塩をかけられたように小さくなっていく。それでも社長の威厳を守ろうとする姿が滑稽だ。

「ノックもしないで失礼な奴だな!」

 カチャカチャとベルトの金具が鳴る。

「村田社長。僕は誰にも言いません。ただし、一つだけ条件があります」

 太一は眉を動かさず淡々と告げ、スーツの上着を私にそっと掛けた。重みだけが肩に残る。

「条件だと?上から物を言える立場なのか?たかが営業のくせに」

「そうですか。困るのは村田社長だと思われますが……」

 後に、取引先の誰もが彼の名刺を見ただけで声の調子を変えるのを知った。

「わかりました。では村田社長から直々に解約の申し出があったと社に伝えます」

 小さくなったはずのナメクジは懲りることなく、太一にヌルッと近づく。

「そ、それは勘弁してくれ。君の条件を聞くとするよ」

「正しいご判断、感謝いたします」

 丁寧に頭を下げ、条件を提示した。

「事務員さんのお名前は?」

 私に質問していると理解するまでに数秒を要した。

「あ、里美です」

 この時ですら私は笑顔を忘れなかった。太一はコクリと頷く。

「では、本日付で、里美さんは当社管理下に移ります。異論はないですね。村田社長」


 太一に促され、社長室を出た。

 「荷物をまとめてもらえますか」

 事務的な言葉に頷く。

 デスクに戻り、機械的にバッグへ一つずつ入れる。予想外の展開についていけず、ブリキのおもちゃのように、ぎこちない動きをしてしまう。

 入り口で腕時計にチラチラと視線を走らせている太一の舌打ちが、何度か耳に入ってくる。

 「里美さん。あなたはとても辛い経験をしてしまいましたね。今日、僕がここに来なかったら……と想像してみてください」

 ブリキおもちゃのネジが止まる。

 「手を止めずにお願いします」

 口元に手を近づけ、ゴホンと声を整える。

 「里美さんに一つ伝えておきます。僕は自分のペースを乱されることが嫌いです。忘れないでくださいね」

 「わかりました」

 返事はしたものの、未だ状況を飲み込めない私は相変わらずネジが止まったままだ。

 「理解していないのに、返事をしたんですか」

 「ご、ごめんなさい」


 ────救われたはずなのに。

 また私は唄わなければならない。


  ……ラン、ララ、ラララン

 さぁ笑って

 ラン、ララ、ラララン

 


「お待たせしました」

 「素敵な笑顔をしますね。さぁ、僕と一緒に行きましょう」


  終わりは始まりだったのだ。

 

 ────おばあちゃん。わたし、上手に笑えてる?


 

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