4話 眠る王と、呼ばれない名
ミナリーは、怖がって身を縮めるように、トリスの髪の中で小さく震えていた。
アセルの家には、はっきりと“魔王”の気配が漂っていたからだ。
こっそりと後をつけてきた二人。
裏庭に身を潜め。
家の中から漏れてくる声に、耳を澄ませていた。
え……勇者が、もう一人?
魔王がいる?
何を、聞いてしまったんだ――。
トリスの頭は、すっかりこんがらがっていた。
落ち着いたのは、アセルやエリザたちが家を出てからだ。
「これって……意味、わからないよ、ミナリーちゃんは、わかる?」
わかるはずないと思う。
それでもトリスは、声に出すことで、少しだけ呼吸を取り戻していた。
「あたしは……魔王だってことは、わかるよ」
ミナリーは、小さくそう言った。
「どうしてかは、わからないけど……本当に、わかるの」
ミナリー自身にも、理由はわかっていないのだ。
ただ――
目を覚ました時から胸に残っていた違和感。
その正体が、今ようやく、形になっただけなのだと。
「どうしよう? アセルさんを追いかけようか?」
トリスはそう言ってミナリーに視線を向けた。
だが、返事を期待していたわけではなかった。
けれど――
ミナリーは、迷いなく答えた。
「魔王は、いるのに……魔物はいないのは、もう一人の勇者のおかげなのかな?」
トリスは、どこかで思っていた。
あの勇者は――本物ではない、と。
それに……。
もし、魔物のいない世界に、魔王だけがいたなら。
おかしすぎて、もうわけがわからない。
そう考えた瞬間、
胸の奥から、理由のわからない興味が湧き上がってきた。
「……いいこと、思いついたよ」
トリスはそう言って、
エリザたちが去っていった方角を見た。
宮殿へ向かう道だった。
トリスは、バルコニーへと壁をよじ登った。
その身のこなしは、まるで重さを忘れたみたいだった。
あるいは――
ミナリーが、どこかで引っ張っているのかもしれない。
鍵は掛かっていなかった。
拍子抜けするほど、室内へは簡単に入れてしまう。
――宮殿の中に足を踏み入れるのは、これが初めてだった。
「誰もいないみたいだね」
そう言ったミナリーは、足元も周囲も見ていなかった。
視線は高く、天井いっぱいに広がる絵画に吸い寄せられている。
そこには、精霊の姿をした者たちが描かれていた。
人と戯れ、あるいは戯れられているともつかない距離感で、笑みを浮かべている。
ミナリーは、その中を目でなぞっている。
自分と似た輪郭をした精霊を、無意識に探しているようだった。
トリスには確信はない。
あるのは、森の道なき道で何度も頼ってきた、言葉にできない感覚だけだ。
「……たぶん、図書室の近くかな。少し、情報がほしいね」
声を落とし、足音を殺す。
この宮殿は、静かすぎる場所ほど、何かを隠している。
廊下には、初めて目にするほど立派な絨毯が敷かれていた。
踏めば沈み、戻りが遅い。
かえって足音を立ててしまいそうで緊張する。
カ、チャ。
音は小さい。
だが、静けさが大きすぎた。
体を滑り込ませた先は、光のない部屋だった。
棚が、壁ではなく“林”のように立ち並んでいる。
本の匂いがする。
乾いた紙と、古い革と、誰かの時間。
――図書室だ。
「勇者さんの話はこの辺りかしら? 聖なる印よ」
背表紙に書かれたそれは、一番目立つ棚に置かれていた。
金の装丁は新しく、埃がない。
中を見てみれば、誰でも一回は聞いたことのある英雄譚だった。
「きっと個人の書斎がいいよね。上で探そうか?」
周囲の静寂に怯えながらも、二人は階段を上がった。
廊下を探っていくうちに、離れに厳重に守られた扉を見つけた。
どうしても気になったが、その重厚さが躊躇わせる。
何と言っても、そこは王家の紋章が刻まれた特別な空間だった。
一度は引き返そうとしたトリスだった。
だが、ミナリーの呟きが足を止めさせた。
「なんだか……今にも死んじゃいそうな人の匂いがするよ」
「まさか王様! じゃないよね?」
他に思い当たる人物などいない。
ミナリーは「あたしにわかる訳ないでしょ」と首を振る。
「そうだね、確かめてみよう」
覚悟を決めて扉を開けたが、中に人の気配はなかった。
罠も、鍵さえも掛かっていない。
ミナリーの嗅覚に導かれ、いくつもの空室を通り抜けた先に、その寝室はあった。
天蓋付きの寝台に横たわる男は、想像よりもずっと小さく、脆そうに見えた。
呼吸は浅く、音すらない。
ミナリーはトリスの目を見て深く頷く。
男の顔のそばへ飛び、掌をかざした。
その指の間から、わずかな水が一滴だけ零れ落ちる。
男の目が開き、こちらを見た。
「おお、やっぱり盗賊どのであったか。ワシも目が悪くなったのか、近頃、誰が誰だかわからんしの……」
トリスは、返すべき言葉が見つからなかった。
「魔物が蔓延るというのに、勇者殿はいつ来てくれるのだ? 彼女なら、何とかしてくれるはずなのに……」
彼女……?
言葉だけが、妙に遅れて耳に残る。
王の意識は混濁しているのだろうか。
「エリザ……さんのこと、ですか?」
問いかけに王は答えず。
「……勇者じゃ、とにかく盗賊殿、早くみんなを集めてくれ」
差し出された革袋は、拍子抜けするほど軽かった。
中身はほとんど空に近い。
「早く……平和な国を見たいものじゃ」
そのまま、王は再び深い眠りに落ちてしまった。
トリスは、すべてを理解することはできなかった。
「……あたし、魔王なんて大嫌い」
ミナリーが、苦々しく言う。
「だけど――あのエリザって言う勇者さんには、興味が湧いてきちゃったかも」
トリスの胸の奥が、ひやりとした。
それは、声に出すのを避けていた考えと、同じだったからだ。
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