5話 聖印静かに動く

“結界”を守る動物たちがいる――

そんな噂話は、今では子どもでも知っている現実になっていた。


トリスが子どもたちを救った、あの村。

先端を鋭く削った大木で組まれた外壁が張り巡らされている。

篝火は一日中、絶えることがない。

そうやって、不安な気持ちを押さえている。


それでも、村人たちの心をいちばん静めてくれる物がある。

先祖の代から作り続けられてきた、関節の動く手作りの木人形――

家ごとに必ず置かれる、小さなお守りだった。


トリスが町へ戻り、真っ青な顔で母に伝えた、その出来事。

「そんなこと、ある訳ないでしょ」

などと、笑って一蹴するトリスの母ではなかった。


この町の行商隊にとっては、辺境の者たちとの交易が生命線――

山の方だけではないが、それが途絶えるような話は、まさに大打撃だった。


次の日には、町じゅうに兵士たちがあふれかえっていた。

帰らない兵士たちが、ああなったことを知ったのか――

それとも、これから知るのか。


「家にいろ、外に出るな」――そんなふざけた通達が、怒号のように飛び交う。

そんなことを、守る者などいるはずもなかった。


そのあとすぐに、聞いたこともない音楽が、町のはずれから聞こえてきた。

――音と共に傷ひとつない鎧をまとった、”騎士”が姿をあらわした。


勇者教の紋章――巨大な聖印が、マントいっぱいに描かれている。

たとえこんな辺境の町でも、それを見るや否や、地面に膝をつく者が大勢いた。

続いて、同じ紋を背負った音楽隊が通る。

楽器の銀の装飾が陽に反射し、ひときわ眩しい。


そのたびに、町の人々はさらに頭を深く垂れた。

まるでもう、問題が解決したかのように。


そこには、トリスのように若い者でさえいる――

いや、遊び半分か、あるいは周囲に倣っただけかもしれない。

それでも年寄りたちに交ざり、同じように額を地面すれすれまで下げていた。


ただ、トリスは知っている。

たしかに彼らは“騎士”と呼ばれている。

でも、この髭だらけの男も、元をたどればただの冒険者だ。


依頼を受けて報酬を得る――それだけの職業だ。

わざわざ地面に頭をこすりつける必要など、どこにもなかった。


それに――“あの中”にいるアセルのことを、奴らは知っているのだろうか……。


以前、山に入った調査隊のエレンスが、きっと報告を上げただろう。

だが、トリスが怪我から回復し、アセルに剣術を習いはじめるまでには――

長い時間がかかっていた。


そして、ようやくトリスが町へ帰ってきて、ほんの数日。

あの“結界”が生まれたのは、そのすぐ後のことだった。


それが偶然だったのか、トリスにはわからない。

あれから入れなくなった山が、日に日に不吉になっていく。

谷を通る風は重く、山肌は遠目にも黒ずんだように見えた。


――あそこに、アセルがいる。

知りたいことが沢山ある。

確かめたいことも、すごく話したかった。

だが、山道は閉ざされ、近づくほどに獣の気配が濃くなる。


そして目の前を行進する勇者教の列。

白々しい威厳をまとった聖印の光景は、どうにも受け入れがたい。

彼らには近づきたくなかった。

胡散臭さだけじゃなく、自分でもわからない何かがあった。


……どうしたら。

この状況をどうにかできるとしたら、アーサーただ一人しかいなかった。


長年、山を行き来し、アセルとも不思議なほど馬が合っていた。

虹の種のことも――あれの“本当の性質”も――

アーサーだけは、半ば知っていたように思う。


そして、あの人は言ったのだ。

「これが引退前の、最後の仕事だ」と。


笑っていたのに、どこか覚悟を滲ませた目で。

そのまま、西方の紛争地帯へ向かい――

消息を絶った。


そして今、トリスは、彼の行方を追う決意を固めていた。

こうなれば一刻も早くと、町中で準備を進めていた。


そのときだった。

周囲から影が差し込むように、勇者教の騎士たちが立ちふさがった。


「君が、トリス君かい?」

声は思っていたよりも若い。

むしろ、柔らかささえある。


「トリスですけど……何か用ですか?」

緊張と、それに混じるわずかな期待――

“今の自分はどこまで通用するのか”

トリスは、わざと不良じみた声音で返した。


「いや、少しお話を伺いたくてね。――君が最近、山に入っていたと聞いている」


……やっぱり、あの調査隊のことか?

だけど、彼には何も話していないし、あれは、ただの仕返しだ。

そうか――急に自分が変わったように見えて、驚いているのか。

いや、違う。

きっとアセルに怯えているだけだ。


……どうすればいい。

戦いで負けないためには、まず相手の出方を見る――

それが要だと、アセルに教わった。

そうだ。

ここで焦っては駄目だ。

落ち着け、と自分に言い聞かせ、トリスは小さく息を吐いた。


「ええ、あの山には、いくつか小さな集落がありますからね。私たちは、その人たちと商いをしているんです。……あれは、早くどうにかなりませんか?」

もちろん、あの“結界”だのと言われている場所に住んでいるのはアセルだけだ。

だが “あの辺りの山” という言い方なら、どこを指しても間違いではない。


「ふふ……どうやら、アーサー君が言っていた話とは少し違うのかな?」


その名が出た瞬間、トリスの心臓が大きく跳ねた。

アーサーを知っていても不思議ではない、が。

騎士のまっすぐな視線が、まるで「こちらはすべて把握している」

――そう、告げているように思えてならなかった。


「アーサーさんをご存じなんですか? 西地区で行方不明なんです」


「もちろん。わたしら勇者教の者は皆、心配していますよ。――なにせ、わたしの“親友”でもありますからね」


その言い方が妙に引っかかった。

ヒゲに隠れた口元が、ニタァ……と歪んだように見える。


トリスの呼吸が浅くなる。

この男は、まるで何もかも知っている――そう思わせる何かがあった。

それは単なる表情ではなく、

“こちらの想像をはるかに超えた力を持つ者” の余裕に見えた。


「安心しなさい。アーサー君の行方は――そのうち、わかりますよ」


そう言い残して騎士は踵を返した。

ただの挨拶のように聞こえるのに、背筋が凍るほどの予感が残った。


トリスはしばらく動けなかった。

山、アセル、それにアーサー――

すべてが、いやな形でつながり始めている。

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