第32話 私の『至宝』

サイラス邸へ忍び込んだ次の日。

僕は旅立ちに向けて、街の市場で保存食や水筒など、最低限の物資を買い揃えていた。活気のある市場の喧騒が、やけに遠くに聞こえる。

仲間との別れを控え、僕の心は決意と寂しさで揺れ動いていた。


それに、胸の奥に奇妙な違和感が残っていた。

(……あまりに、うまくいきすぎた)

サイラスほどの男が、本当に僕たちのような素人の付け焼き刃の計画で、出し抜けるものだろうか。

考え事をしながら、人通りの少ない路地裏を選んで歩いていた、その時だった。


「やあ、カイ君。旅立ちの支度かね?」


まるで待ち伏せしていたかのように、サイラスが護衛も連れずに一人で姿を現した。僕は即座に身構え、マントの内側にいるコダマをそっと庇う。だが、サイラスは怒っているわけでも、焦っているわけでもない。むしろ、満足げな笑みを浮かべていた。


「見事だったよ。実に面白い余興だった。君は、私の期待を裏らなかった」

「……どういう意味だ」

「言葉通りの意味さ」

サイラスは、まるで美術品を鑑定するかのような目で僕を見ながら、自分の哲学を語り始めた。


「私はね、ただの商人ではない。収集家なのだよ。価値あるものは、それにふさわしい舞台と試練を与えてこそ、真の輝きを放つ。厳重に守られるだけの宝など、道端の石ころと同じだ。君は、私の金庫という『試練』を乗り越え、自らの価値を証明したのだよ」


「そのために」と僕は、握りしめた拳に力を込めた。

「そのために、この街の運河を干上がらせようとしたのか。僕を試すためだけに、街の人たちを苦しめたのか」

僕の問いに、サイラスは心底おかしいというように、喉の奥でくつくつと笑った。

「はは、それは君のうぬぼれだよ。アルメの運河を使えなくしたのは、採掘のついでだよ。行商人が珍しい商品を仕入れに行く時に、行き先で売れるものを持っていくのと同じことだ。だが、その過程で君という『至宝』を見つけられたのは、嬉しい誤算だった」

その言葉に、僕は背筋が凍るのを感じた。


「……わざと、盗ませたのか」

「人聞きの悪いことを言う。私は、君に『挑戦する権利』を与えただけだ」

サイラスは、地図を盗まれたことを、まるで自分の手柄のように語る。

「あの地図は、君への投資であり、次のゲームへの招待状だ。私はね、この世界から『無駄なノイズ』を消し去り、完全な調和――私が愛する静寂――をもたらしたいのだよ。そのための駒が、もっと必要なのだ」


彼は、一歩僕に近づいた。その目は、狂気的なまでの好奇心に輝いていた。

「君のその耳は、不完全だ。苦しみに満ちている。だが、『沈黙の僧院』は、最高の研磨石だ。そこへ行けば、君はその呪いを克服し、真に『価値ある』能力者へと昇華されるかもしれん。あるいは……その静寂に魂を喰われ、美しい空っぽの人形になるかもしれん。どちらに転んでも、私のコレクションとしては、極上の逸品になるだろう」


ぞわり、と全身の肌が粟立った。

この男にとって、僕は壮大なゲームの駒であり、彼の歪んだ美学を満たすための観察対象なのだ。僕が救いを求めてもがく姿も、絶望に打ちひしがれる姿も、すべてを手のひらの上で鑑賞し、楽しもうとしている。

「健闘を祈るよ、私の『至宝』」

サイラスは心底楽しそうに笑うと、僕に背を向けて雑踏の中へと消えていった。


残された僕は、しばらくその場から動けなかった。

敵の想像を絶する悪意と、僕の旅が、すでに敵の筋書きの上に乗ってしまっているという事実に、戦慄していた。

でも、この街に留まることは、サイラスという収集家の鳥かごの中に留まることと同じだ。彼から本当に自由になるためには、そして彼と対等に戦うためには、この街を出て、彼が示した『沈黙の僧院』へ向かい、そこで答えを見つけ、彼を超えるしかない。


彼が示した僕の運命を越えるしかない。


宿屋に戻った僕の顔に、もう迷いはなかった。仲間との別れの寂しさよりも、巨大な運命の鎖に立ち向かうための、鋼のような決意が宿っていた。

(ここに、いたい。このまま、この温かい時間の中に……)

宿屋の窓から、ミーナが厨房を手伝う楽しげな声と、リラがそれに応える穏やかな声が聞こえてくる。僕が生まれて初めて手に入れた、帰りたい場所。

(でも、ダメなんだ)

今の僕のままでは、いつかこの耳が、この幸せを壊してしまうかもしれない。僕はまだ、二人に守られているだけだ。それに、サイラスは知ってしまった。僕のことだけじゃない。リラやミーナのことも。僕がここにいれば、あの男は必ず二人を利用する。僕自身が、この二人に危険を呼び込んでしまう。


(『沈黙の僧院』……)

あそこはもう、僕一人の救いの場所というだけじゃない。そこへ行って、答えを見つけなければ、本当の意味でこの場所を守ることはできない。


僕は、固く拳を握りしめた。この温かい場所に胸を張って「ただいま」と言うために。今は、「いってきます」と言わなければならないんだ。

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