第30話 ただの商人じゃない

夕暮れ時、僕は宿に戻った。

戸口で心配そうに待ち構えていたリラとミーナに、僕は小さく、しかし力強く頷く。

「……うまくいったよ」

その一言で、張り詰めていた空気が一気に和らぎ、三人の間に安堵の笑顔が広がった。

「やったー! さすがカイ兄ちゃん!」


宿屋の窓から外を見ると、運河の水位が目に見えて上がっていくのが分かる。港の方からは、活気を取り戻した船乗りたちの歓声が、風に乗って微かに聞こえてきた。街が、息を吹き返し始めていた。


ミーナが厨房からとっておきの木苺のパイとジュースを運んできて、四人だけのささやかな祝宴が始まった。こんがりと焼けたパイの甘い香りが、部屋中に広がる。

ミーナは僕たちのためにパイを切り分け、それからポケットを探って、キラキラした小さな真鍮の歯車を取り出した。

「はい、コダマちゃんも、特別だよ!」

テーブルに置かれた歯車を小さな手で転がし始めたコダマを見ながらパイを口に運んだ。

僕が手に入れた、生まれて初めての『仲間との勝利』の味だった。


その温かい雰囲気は、宿屋の扉が開けられたことで唐突に断ち切られた。


ガヤガヤとしていた宿屋のホールが、水を打ったように静まり返る。すべての視線が、入り口に立つ男に注がれていた。サイラスだった。

彼は怒りの表情すら浮かべず、むしろ愉悦を湛えた静かな笑みで、二人の屈強な護衛と共にまっすぐ僕たちのテーブルへと歩いてくる。その存在感だけで、宿屋全体の空気が凍りついた。


サイラスはリラとミーナを一瞥もせず、僕の目だけを見て言った。

「見事な手際だった。私の計画を、これほど静かに、そして鮮やかに覆すとは。君のその耳は、まこと至宝だな」


その声は、負けた男のものではなく、面白い玩具を見つけた収集家のそれだった。

僕が警戒心を最大に高める中、サイラスは身を屈め、囁くように続けた。

「だが、君の真の目的は、この街を救うことではあるまい? 君が探しているのは……静かな場所。違うかね?」


その言葉に、僕は息をのんだ。サイラスは僕の動揺を見て、確信を持って言葉を重ねる。

「『沈黙の僧院』。私は、その場所を知っている。君が血眼になって探している、『霧降りの谷』へと続く、古い地図でな」


「……!」


なぜ、この男がそれを。僕の表情を読んで、サイラスは楽しげに笑う。

「だが、君は私の邪魔をした。それをくれてやる義理はない」

彼は立ち上がり、僕を見下ろすと、冷酷な笑みを浮かべた。

「私の屋敷は、アルメで最も堅牢だ。地図は、その奥深くにある金庫の中。欲しければ……奪いに来るがいい。その耳が、岩の声だけでなく、錠前の声も聞けるのか、試させてくれ」

「面白い余興を期待しているよ」

その言葉を残し、サイラスは嵐のように去っていく。


宿屋には、重い沈黙だけが残された。

(あの人は何を言っているんだ……盗みに来いっていってるのか? 確かに『沈黙の僧院』への地図は欲しいけど……)


「カイ、罠よ。わざとあなたを誘い込んでいるんだわ」

最初に口を開いたのは、リラだった。

「そうだよ! あんな奴の言うこと、聞いちゃダメだよ!」

ミーナも同意する。

リラは腕を組み、考え込む。

「でも、おかしいわね。ただの罠なら、もっと静かに仕掛けるはず。自分の切り札をわざわざ教えて、盗みに来いなんて……。まるで、自分のコレクションを自慢して、その価値を確かめたいみたい。それに、あなたを試すことで、あなたの能力の限界を知ろうとしているのかもしれないわ」

リラの言葉に、僕はハッとした。港で会った時の、あの値踏みするような目を思い出した。


「……試してるんだ、僕を」

僕が呟く。

「リラの言う通りだよ。あの人は、ただの商人じゃない。珍しいものを集める収集家なんだ。声を吸う石も、そして……僕のこの能力も、あの人にとってはコレクションの一つなんだ。だから、自分のコレクションにふさわしいかどうか、僕の価値を試しているんだよ。僕を、自分の手のひらの上で踊らせて、楽しもうとしているんだ」

僕の推測に、リラとミーナは息をのむ。

敵の目的が、僕たちの想像以上に個人的で、冒涜的であることに気づいたからだ。

「だけど、あの男の言っていた『地図』、それは僕には必要なものなんだ。僕の呪いを解くための鍵なんだ」


(……罠だと分かってる。でも、僕はもう逃げないと決めたんだ。僕の呪いの答えが、あの男の懐にあるのなら、たとえそれが悪魔の手の中だろうと、奪い取るしかない。僕を『モノ』として見ている、あの男の思い通りになんて、絶対にならない)


僕は二人に向き直り、静かに言った。

「行くよ。僕が、盗み出す」


「一人でなんて、ダメだよ!」

ミーナが叫ぶ。

「私も行く!」

僕は、その言葉に力なく首を振った。

「ありがとう、ミーナ。でも、君を危険な目には遭わせられない」

二人の間で、リラが静かに口を開いた。

「待って、二人とも。カイの言う通りよ、ミーナを直接危険な場所には行かせられない。でも、カイ、あなた一人で行せるわけにもいかないわ。これはもう、あなただけの問題じゃない。だから、こうしましょう」

リラは、僕とミーナの目を真っ直ぐに見つめた。

「潜入するのは、あなた一人。でも、その計画を立て、あなたを外から支えるのは、私。そしてミーナは、これまで通り、街の中から安全な場所で私たちに必要な情報を集めてくれる。これなら、三人で戦えるでしょ?」

一人で背負うのでも、仲間を危険に晒すのでもない、第三の道。

僕の瞳に宿る決意を見て、二人の表情もまた、覚悟を決めたものへと変わっていくのだった。

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