転生特典は世界がうるさくなる耳でした 〜正直、これって『呪い』じゃない？〜

第1話 ギリギリセーフ

分かれ道があった。

一方は、荷馬車が作ったであろう轍が残る、なだらかな街道。もう一方は、ごつごつした岩肌が剥き出しになった、乾いた渓谷への入り口。

街道を進めば、半日もかからず次の村に着くだろう。村の宿に泊まれば、暖かい寝台とまともな飯にありつける。

でも、僕は迷わず渓谷の方へ足を踏み入れた。

何故って、そっちの方が静かだから。

村は街ほどはうるさくないけど、夜の宿屋の食堂は、やっぱり人が集まる場所だ。酒が入った陽気な声や、旅人たちの疲れたため息が混ざり合った、あの独特の喧騒はごめん被りたい。目指している大きな街に着くまでは、無駄な消耗はしたくない。僕にとっては、暖かい寝台よりも、静かな野宿の方がずっと価値があった。

（急がば回れ、だ。急いでないけどね）

そんなどうでもいい独り言を頭に浮かべ、僕は乾いた岩を踏みしめた。

しばらくは、穏やかな旅だった。両側を切り立った崖に挟まれ、空が四角く切り取られている。風は崖と崖の間を通り抜ける時、少しだけ楽しそうな音を立てていた。

分かれ道から半刻ほど歩いた。

半刻というのは一時間くらいの事だ。前世の時間単位で言えばね。

風の音が、不意に変わった。さっきまでの陽気な囁きが、低い唸り声になった。

《……湿った土の匂い……上流……重い水の塊……》

風の『声』を言葉にすればそう言っていた。風が運んでくるのは、事実の断片だけだ。気まぐれで、当てにならないことも多い。

でも、今回の声は、やけに生々しかった。背筋を、ひやりとした汗が伝う。僕は足を速めた。

道もまた、悲鳴を上げていた。

足元の石ころが、過去にここを転がり落ちていった仲間たちの記憶を、絶え間なく僕に伝えてくる。

《……激しい流れ……削られる……砕ける……流される……》

風の『声』や道の『声』を言葉にするなんて、僕の事を随分詩人だと思ったかもしれないけど、それは違う。僕には聞こえてしまうんだ。普通の人には聞こえない『声』が。

頭がおかしいと思われるかもしれない。それには反論できない。だって、自分自身としては、おかしくないと思っていてもおかしい人なんていくらでもいるでしょ。

ともかく、僕には風の『声』や、道の『声』が聞こえる。そしてその声は緊急事態を伝えている。

鉄砲水が来る。

僕は走りながら、必死に周囲を見回した。崖を上までよじ登るのは不可能だ。どこか、どこか流れを避けられる場所はないのか。

パニックになりそうな頭で、僕は崖の記憶に意識を集中させた。この土地が覚えている、過去の水の記憶を必死に探る。

すると、無数の水の記憶の中に、奇妙な空白地帯があることに気づいた。一点だけ、激しい流れに洗われたことのない場所。

《……獣の足跡……慌てて……壁を登る……長く留まっていた匂い……》

《……ここはいつも乾いている……》

見つけた！

この谷にいた獣たちが、鉄砲水が来るたびに、いつも避難していた場所に違いない。

僕はその『乾いた記憶』が示す一点を目指し、力を振り絞って走った。

それは、崖の中腹にぽっかりと口を開けた、小さな窪みだった。

僕が転がり込むように中に飛び込んだ、まさにその瞬間。轟音と共に、濁流が渓谷を飲み込んだ。

（危なかったぁ……ギリギリセーフ……）

巨大な獣が咆哮するように、水が岩を砕き、木々をなぎ倒していく。

僕は息を殺し、その圧倒的な破壊の光景を、洞穴の暗がりから呆然と見つめていた。

嫌な記憶が蘇ってくる。

僕がこちらの世界で育った故郷を逃げ出さざるを得なかった事件。あの時も濁流が全てを薙ぎ払って行った。

この耳が捉える、他の人には聞こえない『声』。その声が故郷を救うヒントを囁いた。僕はそれを鵜呑みにし、たいして考えることもなくその知識を使った。そしてその結果……

いや、そのことを思い出すのはやめておこう。

この耳は悪いことばかりじゃない。

今だって、僕は、この耳のおかげで生きのびている。

この耳がなかったら、今頃は鉄砲水に飲み込まれて、あちこちに身体をぶつけてぐちゃぐちゃになっていたかもしれない。入り込んできた水のせいで泥まみれになってるけどね。問題無し。

やがて、濁流が完全に過ぎ去った渓谷に、静寂が戻ってきた。

ゆっくりと立ち上がる。泥まみれの服が重かった。