夜に囁(ささや)く
戸来十音(とらいとおん)
第1話 現る
「トイレのドアが、いつもいつも感心しているんです。あなたのやり方にね。そのおどろくほど、自然でかんぺきな手腕に。
私なんかにゃ、とても真似できやしない。後には塵一つ、髪の毛一本、指紋一つ、足跡一つ残らない。旦那の手口はまさに、完璧さを絵にかいたようなものでさ。
これには神様も、尻尾を巻いて逃げちゃって、もう二度とちょっかいをだそうなんて、思わんでしょうな。いやまったく、信じられないくらいの、完璧さだ」
と、狐が薮の中から、ボソッとつぶやいた。
いつもは僕は、そんな外野の雑音なんて、とりすまして、知らん顔するんだけど、今回はほっぺたからりゅうと伸びたヒゲが、二、三度ピクピクと動いて、僕の気持ちを代弁してしまった。狐は、(大抵の鼻の長い動物がそうであるように)それを見逃さなかった。薮からさらに一歩踏み出し、上目遣いにこういった。
「それで明日はどっちの方向にあるんですかい? 旦那」
そんなこと僕が知るわけがない。それでも狐に気取られるのがいやだったので、僕はうっすらと濡れた鼻先を、遠くに見える塔のようなものに向けて、軽く突き出した。微かな風に乗ってやってくる臭いが、僕の鼻腔をくすぐった。
「ちょっと旦那。冗談はよしてください。あれが、明日の方向であるもんですかい。あたしをだまそうなんて、そうは問屋がおろさない。十年年早いというもんですぜい」
十年? 僕は何十年も待ち続けたんだ。そこらへんの薮の中で、おこぼれをちょうだいしようと、待ち構えている狐なんかより、しんぼう強く。雨も風も凌いだ、雪でこごえそうになったこともある。人に言えないような、苦労もしている。こんな狐なんかに、油揚をさらわれてたまるものか。
でもこの場を、うまく切り抜けないと、こいつはしつこいぞ。どうすればいい? なかなか名案が、浮かばない。狐は油揚が好きだ。いやこれは迷信だ。狐の好物はなんだっけ? 雑食? 多分肉食だ。でもこいつは言葉をしゃべる。いったいぜんたい、ことばを喋る狐なんてこの世にいるのだろうか? 動物園にはまずいない、いや他の場所にだっていないぞ。じゃあこいつは、いったいぜんたい何なんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます