第10話 閑話:栞
夜の風が、そっとカーテンを揺らした。
音はしない。
それでも、風が通り抜けるたびに、
部屋の空気がひとつ息をしたように感じる。
私は窓辺に座っていた。
薄い布団の端に腰を下ろし、両膝を抱える。
夜の京都は、静かで優しい。
遠くに灯る街の光が、地面に星を落としたみたいに瞬いている。
「……綺麗だね」
思わず、声に出していた。
誰に言うでもなく。けれど、きっと聞こえている。
隣の部屋の、凪君の耳にも。
京都タワーの白い光が、窓のガラスを淡く照らしていた。
その光の中に手をかざすと、影がゆらゆらと揺れた。
指を動かしても、影の輪郭がすぐに崩れてしまう。
もう、何度やっても、影ははっきりしない。
「……やっぱり、ちょっと薄いね」
笑ってみたけれど、その声は小さく震えた。
私の身体はもう、完全に“この世界のもの”ではなくなっていた。
冷たくもなく、熱くもない。
息を吸っても、肺が膨らむ感覚がない。
それでも、不思議と苦しくはなかった。
むしろ、軽かった。
空気の一部になったような心地よさがあった。
風が頬を撫でる。
そのたびに、心の奥が少しだけ動く。
もう“心臓”なんてものはないはずなのに、
ちゃんと“生きている”と思えた。
――生きている。
それはきっと、凪君がこの世界にいるから。
「凪君、起きてる?」
壁に向かって小さく問いかける。
返事はない。
でも、わかる。
彼はきっと、今、窓の外を見ている。
あの塔の光を見上げて、何かを考えている。
そういう顔が目に浮かぶ。
「今日、楽しかったね」
呟くと、胸の奥がじんと温かくなった。
大阪の笑い声、奈良の木漏れ日、そして京都の夜。
どの瞬間にも、彼がいた。
彼の声、彼の手、彼の笑顔。
それらが私の世界を形づくっていた。
ああ、私は今、確かに幸せなんだ――。
そう思うと、涙が出そうになった。
でも、もう涙は出ない。
泣くという行為を、私はどこかに置いてきてしまったらしい。
「ねぇ、凪君」
壁に背中を預け、声を落とす。
「私ね、怖かったんだ……“死ぬこと”じゃないよ、“いなくなること”が、怖かった」
言葉が宙に溶けていく。
それでも止まらなかった。
心に積もっていたものが、少しずつ零れ落ちていく。
「最初は、どうして私だけこんな目にって思ってた。
病室の白い天井ばかり見て、
世界の音も、匂いも、風も遠くなっていくのが嫌で、
何度も“終わりたい”って思った」
風が頬をなでた。
静かに、やさしく。まるで“もういいよ”って言われたみたいだった。
「でもね、凪君と出会って、全部変わったんだ。
君の声を聞くたびに、世界が少し明るくなったの。
君が話すたび、私の中に風が入ってきた。
君が笑うと、私も笑えるようになった。
だから……怖くなくなったの」
手のひらを胸の上に置く。
鼓動は感じない。
でも、凪君と過ごした時間の音が、心の奥で響いていた。
「ありがとうね、凪君」
ゆっくりと言葉を重ねる。
「私ね、もう少しだけ、このままでいたい。
君と旅をしていたい。
まだ見てない景色がいっぱいある。
だから、もう少しだけ時間をください」
言い終えた瞬間、風が強く吹いた。
カーテンが大きく揺れて、部屋の灯がちらりと揺らめく。
その光の中に、ほんの一瞬だけ――彼の姿が見えた。
隣の部屋の凪君が、
窓の外を見上げて、何かを言っている。
ガラス越しに声は聞こえない。
でも、唇の動きが見える。
――また行こう、栞。
その口の形だけで、意味が伝わった。
私の胸が熱くなった。
何かが溶けて、広がって、世界が一瞬だけ白く光る。
「うん。行こう」
声に出してみる。
けれど、それは彼には届かない。
それでもいい。
この風が代わりに運んでくれる。
彼の頬を撫でる風の中に、私の声を混ぜた。
「また行こう、凪君」
言葉を重ねるたび、身体が少しずつ軽くなっていく。
不思議と悲しくはなかった。
むしろ、嬉しかった。
この世界から消えていくことさえ、
彼と出会った“結果”だと思えたから。
「……ねぇ、凪君」
もう一度、彼に呼びかける。
「ありがとう。私ね、君に会えてよかった。
君と旅ができて、本当に幸せだった。
こんな気持ち、初めてだったよ」
声が震える。
けれど、それは泣いているからじゃない。
心の奥が温かくて、言葉が柔らかくなるからだ。
「私、もうすぐ行くね。
でも、怖くないよ。だって、君が覚えていてくれるから。」
君が私を思い出してくれる限り、私はどこにでもいける」
塔の光がまた一度瞬く。
その光がまるで“頷くように”見えた。
私は静かに微笑んだ。
ノートを開く。
ページの端に書きかけの言葉があった。
その下に、ゆっくりとペンを走らせる。
> 「私は今日も旅をしている。
> 彼と同じ空の下で。
> 風が吹くたび、彼の頬に触れる。
> 光が揺れるたび、彼の心に届くように。」
書き終えると、ペン先がかすかに震えた。
インクが一滴、紙に落ちて滲む。
それが涙のように見えて、
私はそっと指でなぞった。
冷たい。
でも、やさしい。
指先が消えていくような感覚があった。
窓の外を見上げる。
白い塔の光が夜空に溶けている。
風が再び吹き、カーテンが静かに舞った。
その風の中に、自分の身体が少しずつ溶けていくのがわかる。
怖くなかった。
むしろ、懐かしい感覚だった。
まるで長い旅の終わりに、
ようやく帰るべき場所を見つけたような気がした。
「凪君……ありがとう。
君が生きている限り、私はここにいるから。
だから――泣かないでね」
私は静かに目を閉じた。
風が止む。
部屋の中の灯りがゆっくりと落ち着き、
ノートの上で桜の花びらがひとひら舞い落ちた。
どこから入ってきたのだろう。
花びらは、開いたページの上に静かに止まった。
その瞬間、
世界のすべてが、やさしく笑った気がした。
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