第32話 最高の軍師と混沌への備え
E級ダンジョン【棄てられた砦】の周回。
それは神崎隼人にとって、もはやスリリングな冒険ではなく、確実な利益を生み出す一つの「事業」となっていた。
彼は数日間、淡々と、しかし圧倒的な効率で砦のゴブリンたちを「処理」し続けた。
その結果、彼の銀行口座の残高は、彼が裏社会で何か月もかけて稼ぎ出すような金額にまで膨れ上がっていた。
そしてその日も、彼は数時間分の「労働」の成果である数多の魔石をインベントリに詰め込み、慣れた足取りで西新宿のあのガラス張りのビルへと向かっていた。
『関東探索者統括ギルド公認 新宿第一換金所』
もはやこの場所に、彼が最初に感じたような場違いな感覚や息苦しさはなかった。
ここは彼の新たな、そして最も重要な取引先。
彼は堂々と自動ドアをくぐり、まっすぐにカウンターへと向かう。
そして、そこにいたのは彼の期待通りの人物だった。
「いらっしゃいませ。JOKERさん、お待ちしておりました」
艶やかな栗色の髪。大きな知的な瞳。
水瀬雫が、プロフェッショナルの、しかしどこか親しみのこもった柔らかな笑顔で彼を出迎えた。
その「お待ちしておりました」という言葉に、隼人は少しだけ面食らう。
「…あんた、俺が来るって分かってたのか?」
「はい、もちろんです。あなたの配信、いつも欠かさず拝見していますから。今日の周回でインベントリがいっぱいになったのも、ドロップした魔石の数も、大体把握していますよ」
彼女は悪戯っぽくウインクしてみせた。
その言葉に、隼人は改めて、彼女がただのギルド職員ではないことを再認識させられる。
彼女は彼の戦いを誰よりも熱心に見守り、そして分析している最高のファンであり、そして最も信頼できる軍師なのだ。
「さあどうぞ。本日の稼ぎですね」
隼人は無言でインベントリから大量の魔石を取り出し、カウンターのトレイの上に置いた。
雫は手慣れた様子で、それらを鑑定機へとかけていく。
その鑑定を待つわずかな時間。
それは彼らにとって、貴重な雑談の時間だった。
「なあ、水瀬さん」
先に口を開いたのは隼人の方だった。
「ちょっと聞きたいんだが…」
「はい、なんでしょう? ビルドのご相談ですか?」
雫は、まるで彼の心の中を見透かしたかのように微笑んだ。
隼人は少しだけ照れくさそうに頭をかきながら、話し始めた。
「ああ。今、フラスコの構成で少し悩んでてな」
彼は自らのベルトに差した5本のフラスコを指し示す。
「この間、あんたに言われた通りスキルを組んで、E級を周回してるんだが…」
「はい、拝見しています。素晴らしい立ち回りでした。マナ・リーチを活用した、あの無限に続くかのような斬撃による安定した雑魚処理能力と、スマイトと衝撃波を組み合わせた圧倒的な制圧力。そして何より、パリィからのカウンターと回復の流れ…あの【
その手放しの、そして的確すぎる賞賛に、隼人は少しだけ顔を赤らめた。
「…まあ、それはいい。問題はこいつだ」
彼はそう言うと、自らの指にはめられた黒銀の指輪…【
「こいつのHPリジェネが優秀すぎてな。ライフフラスコをほとんど使わなくなった。今ライフを二本積んでるんだが、そのうちの一本は完全に腐ってる。だからそいつをリストラして、別のユーティリティフラスコに変えようと思うんだが…」
彼はそこで一度言葉を区切ると、目の前の信頼できる軍師にその判断を仰いだ。
「何かオススメはあるか?」
その問いかけに、雫の瞳がキラリと輝いた。
それはただの受付嬢の顔ではない。
一人の熟練した探索者としての、そして彼のビルドの可能性に心を躍らせるゲーマーとしての顔だった。
「…そうですね。それはJOKERさんが今後どのようなビルドを目指すのかによります。例えば火力をさらに追求するなら、【硫黄のフラスコ】。機動力を極めるなら【銀のフラスコ】も選択肢としてはアリですね」
彼女の口から淀みなく語られる専門的な知識。
隼人はただ黙って、その言葉に耳を傾けていた。
「ですが…」
彼女はそこで一度言葉を切ると、真剣な眼差しで隼人を見つめた。
「もし私がJOKERさんの立場なら。E級、D級と、さらに上のステージを目指すという前提でお話しさせていただくなら…私がお勧めするのは、たった一つだけです」
「…なんだ?」
「少し防御寄りの考え方になってしまうんですけど…」
彼女はそう前置きをすると、その答えを告げた。
「――【アメジストのフラスコ】ですね」
「…効果は?」
「混沌(カオス)耐性を、一時的に大幅に上昇させます」
「混沌耐性…」
「はい。JOKERさん、E級以上のダンジョンで本当に探索者の命を奪うのは、派手な物理攻撃や魔法攻撃ではないんです」
雫の声のトーンが変わる。
それは、幾多の仲間の死を目の当たりにしてきたであろう経験者だけが持つことのできる、重い響きだった。
「本当に恐ろしいのは、防具の耐性では防ぎきれない特殊なダメージ。じわじわとHPを削り、ライフフラスコの使用を強制させられる混沌属性の継続ダメージ(DoT)…。その代表格が『毒』なんです」
(…なるほどな。俺はまだ、このテーブルのハウスルールすら完全に理解していなかったというわけか)
隼人は雫の言葉に、自らの慢心を自覚し、襟を正した。
「もちろん、装備で混沌耐性を稼ぐこともできます。JOKERさんもフリーマーケットをご覧になったなら、もうお分かりでしょう?」
彼女は苦笑いを浮かべた。
「混沌耐性が少しでも付いた装備は、例外なく目玉が飛び出るような値段がします。トップランカーたちが血眼になって探し求めていますから」
「なぜそこまでして彼らが混沌耐性装備を欲しがるのか。それは、装備で耐性を確保できれば、貴重なフラスコのスロットを一つ別の火力やユーティリティフラスコに回すことができるからです。つまり、装備の混沌耐性の価値とは、“フラスコのスロットを一つ金で買う”のと同義なんです」
そのあまりにも合理的で的確な解説。
隼人は、この世界の経済の仕組みとトップランカーたちの思考回路を、また一つ深く理解した。
「だからこそ、JOKERさん。今のあなたにとって最もコストパフォーマンスが高く、そして最も賢明な選択は、この**【アメジストのフラスコ】**で来るべき混沌の脅威に備えること。私はそう思います」
雫のその完璧なプレゼンテーション。
それは隼人の心に、深くそして重く響いた。
その時、鑑定の終了を告げる電子音が鳴り響いた。
雫がモニターを確認し、笑顔で告げる。
「お待たせいたしました。本日の買い取り価格、合計で8万3千円になります」
「…なるほどな。面白い。よく分かった」
隼人は雫に深く頷いた。
「次のターゲットは、そのアメジストのフラスコとやらに決まりだ」
彼の瞳には、もはや迷いはない。
新たな、そして明確な目標が定まった。
「ありがとうございます、水瀬さん。あんたは最高の軍師だ」
彼が初めて、彼女を苗字で呼んだ。
そして初めて、ストレートな感謝と賞賛の言葉を口にした。
その言葉に、雫の頬がほんのりと赤く染まった。
(…軍師? ただ当たり前のことを言っただけなのに…でも、この人に、JOKERさんに認められた…?)
驚きと戸惑い、そして純粋な喜びが入り混じった感情が、彼女の胸を満たす。
「そ、そんな…! 私はただ、ギルド職員として当たり前のアドバイスをしただけで…!」
慌てて俯く彼女の、そのあまりにも初々しい反応。
隼人はその姿に、思わず口元を緩ませた。
この関係は悪くないと。
彼は換金した現金を受け取ると、彼女に背を向けた。
「じゃあな。また来る」
「は、はい! お待ちしております!」
隼人は自動ドアを抜け、再び雑踏の中へと消えていく。
その背中を見送りながら、雫はしばらくの間その場で動けずにいた。
彼女の心臓は、これまでにないほど高く、そして速く脈打っていた。
それはただのファンとしての興奮ではない。
一人の女性としての、確かなときめき。
彼女はまだその感情の正体に気づいてはいなかった。
ただ、彼の次なる戦いが、そして彼の次なる成長が楽しみで仕方がない。
その純粋な思いだけが、彼女の心を支配していた。
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