第19話 見えざる壁とセコンドの声

 神崎隼人の挑発的な一言が、ゴブリンの巣の淀んだ空気を切り裂いた。


「ようやく一対一(サシ)だなボス」


 その言葉を玉座に鎮座する【ゴブリン・シャーマン】は正確に理解したのだろう。

 その知性的な瞳が、屈辱と純粋な殺意によって醜く歪む。

 格下の取るに足らないはずだった人間の子供に、ここまで踏み込まれ、あまつさえ見下されたのだ。

 王としてのプライドがそれを許さなかった。


「ギシャアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」


 シャーマンが再び、あの甲高い耳障りな絶叫を上げた。

 それは単なる威嚇ではない。

 絶対的な王が、その配下たちに侵入者の完全なる排除を命じる、呪術的な号令だった。


 その声に呼応し、シャーマンの骨の杖が禍々しい赤い光を放つ。

 光は巣にいる全ての戦闘員ゴブリンたちへと降り注ぎ、彼らの肉体を強制的に狂戦士へと作り変えていく。

 筋肉は異常なまでに膨れ上がり、血管が浮き出る。

 その瞳は理性の光を完全に失い、ただ目の前の敵を破壊するためだけの血のような赤色に染め上がっていた。


 そしてシャーマン自身も、その指先を隼人へと向けた。

 後方支援に徹するつもりなど、毛頭ないらしい。

 指先に次々と高密度の【火球(ファイアボール)】が生成され、時間差をつけた弾幕となって隼人へと襲いかかった。


 強化されたゴブリン兵たちの突撃と、シャーマン自身の魔法による完璧な波状攻撃。

 これこそが、この巣の王が作り上げた必勝のフォーメーションだった。


 数日前、なけなしの装備でここにたどり着いた隼人であれば、この最初の猛攻を防ぎきれず、一瞬で肉塊へと変えられていただろう。


 だが今の隼人は別人だった。


「――お望み通り第二ラウンドと行こうぜ」


 彼は絶望的な戦況を前に、不敵に、そして心の底から楽しそうに笑っていた。

 彼の体は視聴者たちの期待を一身に背負い、まるで水を得た魚のように躍動を始めた。


 新しいブーツがもたらす「移動速度+8%」の恩恵は絶大だった。

 弾丸のように飛んでくる火球の雨を、彼はまるでダンスを踊るかのように、最小限の動きで全て見切っていく。

 紙一重で熱線が彼の頬を掠める。

 だがそれは彼の計算通り。

 彼は死の境界線の上で、完璧に舞っていた。


 そして、その回避の舞のまま彼は、殺到してくるゴブリンの群れへと自らその身を投じた。


「グルアアアッ!」


 一体の強化ゴブリンが、異常な速度で棍棒を振り下ろす。

 以前の隼人であれば、その攻撃を避けるか、あるいは受けるしかなかった。

 だが今の彼には三つ目の選択肢がある。


 シュインッ!


 彼が抜き放った無銘の長剣が銀色の軌跡を描いた。

 これまで彼をあれほどまでに苦しめてきたリーチの短さはもはや存在しない。

 彼はゴブリンの棍棒が自分に届く遥か手前の絶対安全圏から、一方的にその長い切っ先をゴブリンの喉元へと叩き込んだ。


 一閃。

 ゴブリンは、攻撃が届かない理不尽さに驚愕の表情を浮かべる間もなく、光の粒子となって消滅した。


 隼人は止まらない。

 彼はその勢いのまま、長剣をまるで薙刀のように横薙ぎに振るう。

 その一振りは、彼の周囲にいた二体三体のゴブリンをまとめて切り裂き、吹き飛ばした。


 圧倒的。

 あまりにも圧倒的。

 彼の姿はもはや、新人探索者のそれではない。


 それは、数多の死線を乗り越えてきた歴戦の勇士、あるいは全てを計算し尽くし勝利を確信した百戦錬磨のギャンブラー。

 その二つの顔を併せ持つ、新生した「JOKER」がそこにいた。


 視聴者A: つえええええええええ!

 視聴者B: なんだこの動き!本当に同じ人間か!?

 視聴者C: リーチと速度を手に入れたJOKERさん、マジで手が付けられねえ!

 視聴者D: これが…これが俺たちのJOKERだ!


 コメント欄は、彼のあまりにも華麗で、そして力強い進化の姿に熱狂の坩堝と化していた。


 隼人はその賞賛の嵐を、心地よいBGMとして聞きながら、ただ一直線に玉座に座る、ただ一体の敵だけを見据えていた。


 神崎隼人の進軍は凄まじかった。

 だが玉座に座るゴブリン・シャーマンは、ただの飾りの王ではなかった。

 彼は隼人の異常な戦闘能力と、その目的が自分自身であることを正確に理解していた。


 シャーマンは再び甲高い声で配下たちに新たな命令を下した。

 それまでの無秩序な突撃ではない。

 ゴブリンたちは統率の取れた動きで、分厚い「壁」を作り、隼人とシャーマンとの間に立ち塞がったのだ。


 そしてシャーマン自身も、ただ火球を連射するだけではなく、隼人の動きを予測し、その進路を塞ぐように、あるいは回避した先を狙うように、いやらしく、そして知性的に魔法を放ち始めた。


(…チッ、面倒なことを)


 隼人は舌打ちした。

 このままゴブリンの壁に真正面から突っ込んでも、シャーマンに的確な魔法で迎撃されるだけだ。


 彼は即座に戦術を切り替えた。

 無理な深追いはしない。

 彼は持ち前の、そしてさらに強化された移動速度を活かし、ヒット&アウェイ戦法へと移行した。

 それは、彼のギャンブラーとしての真骨頂とも言える、緻密で大胆な立ち回りだった。


 彼はまずゴブリンの壁の最も手薄な箇所へと猛然とダッシュする。

 そして壁を形成するゴブリンを長剣の一振りで一体斬り捨てる。

 壁に一瞬だけ穴が開く。


 彼はその穴からシャーマン本体へ肉薄する。

 シャーマンが驚愕の表情で迎撃の魔法を詠唱しようとする、そのコンマ数秒の隙。

 隼人の長剣がシャーマンのローブを切り裂き、その脇腹に確かな一撃を叩き込んだ。


「ギッ!?」


 シャーマンが初めて苦痛の声を上げた。

 確かな手応え。

 隼人はその一撃の感触に勝利を確信しかけた。

 だが彼は追撃しない。


 彼は一撃を当てると同時に、即座にその場から後方へと大きく跳躍して離脱した。

 彼が元いた場所を直後、シャーマンが放った至近距離の火球が焼き尽くす。


 そして彼は再び距離を取り、シャーマンの魔法を回避しながら、ゴブリンの壁のまた別の手薄な箇所を探す。

 そしてまた一体を斬り伏せ、穴を開け、シャーマンに一撃を与え、離脱する。

 その繰り返し。


 視聴者E: うおおすげえ立ち回り!

 視聴者F: まるで蜂のように刺しては離れる!

 視聴者G: 完璧だ…!ダメージを全く食らってない!


 彼の立ち回りは視聴者たちの目には完璧に映っていた。

 着実に一方的にアドバンテージを稼いでいるように見えた。


 隼人自身もそう信じていた。

 最初のうちは。


 だが彼はすぐに、その致命的な「違和感」に気づき始めた。

 何度シャーマン本体にクリーンヒットを叩き込んでも、何度確かな手応えを感じても、

 視界の隅に表示されているシャーマンのHPバーが一向に減る気配がないのだ。


 斬りつけた瞬間、確かにゲージはわずかに数パーセント減少する。

 だが次のヒット&アウェイを行い、再びシャーマンに斬りかかった時には、なぜかそのゲージはまた満タン近くまで戻ってしまっている。


 まるで、彼の攻撃が無かったことにされているかのように。


(なんだ…?こいつ回復魔法(ヒール)でも使ってんのか?)


 隼人はヒット&アウェイを繰り返しながら、シャーマンの動きをさらに注意深く観察した。

 だが回復魔法を使っているような詠唱も、緑色の光のエフェクトも一切見られない。


 それは、これまでの全ての経験とも違う、あまりにも理不尽な「ルール」だった。

 このままではこちらのチップ(体力と集中力)が先に尽きる。


 視聴者A: なんでダメージ通らないんだ!?

 視聴者B: ボスのHPがリセットされてるように見えるぞ…

 視聴者C: JOKERさん明らかに焦ってる…まずいぞこのままじゃ…


 コメント欄も、その不可解な現象に困惑と焦りの声で埋め尽くされていた。


 その混沌としたコメントの中に、ふと一つ、これまでとは毛色の違う冷静な指摘が投じられた。


 ユーザーネーム「元ギルドマン@戦士一筋」と名乗る人物からのコメントだった。


 元ギルドマン@戦士一筋: 「JOKER、ダメだ!攻撃の間隔が空きすぎてる!それでは奴の『アレ』を剥がせない!」


 その一言は、まるで暗闇に灯された一つの松明のようだった。

 そのコメントに他の経験豊富な視聴者たちが次々と連鎖するように反応し始めた。


 ベテランシーカー: 「↑そう、それだ!相手は魔法使いだ!俺たちが前に話したもう一つの護り…【魔力の外套】を持ってるんだ!」

 ハクスラ廃人: 「そうか!エナジーシールドか!忘れてた!」

 ベテランシーカー: 「JOKERさんよく聞いてくれ!魔法使いはHPとは別に【エナジーシールド】っていう自己回復するバリアを持ってるんだ!」

 ハクスラ廃人: 「そのシールドがある限り本体のHPには1ダメージも通らない!そして一番厄介なのはその回復能力だ!」

 元ギルドマン@戦士一筋: 「10秒以上ダメージを与えない時間を作ると、シールドは一瞬で全回復しちまうぞ!お前が今やってるヒット&アウェイは、奴に回復の時間を与えているだけだ!」


 エナジーシールド。10秒で全回復。


 そのキーワードが、隼人の網膜を、そして脳を貫いた。

 瞬間、彼の頭の中で全てのピースが一つの形へとはまった。


 これまでの全ての謎が氷解していく。

 なぜシャーマンはあれほど巧みに距離を取ろうとしたのか。

 なぜ配下のゴブリンを壁として利用したのか。


 それは全て、この「10秒」という時間を稼ぐためだったのだ。

 俺がヒット&アウェイで距離を取っているわずか数秒の間、

 ゴブリンの壁を切り崩しているわずか数秒の間、

 その合計10秒というインターバルが、奴の「見えない壁」を完全に再生させていたのだ。


 敵の強さの正体は、HPの回復能力ではない。

 この自己回復する魔力の外套。

 それこそが、このボスの核心的なギミックだったのだ。


「…エナジーシールド…!」


 隼人の口から、驚愕と、そして何よりも謎が解けたことへの歓喜の声が漏れた。


「そういうカラクリか!」


 そうだ、これだ。

 これこそがギャンブルだ。

 相手のイカサマのタネを見抜き、そのルールを逆手に取って勝利を掴む。


 彼の全身から、先ほどまでの焦りが嘘のように消え去っていた。

 彼の瞳に再び、あの獰猛で全てを楽しんでいるかのようなギャンブラーの光が戻ってきた。


 敵の正体は見切った。

 ならばあとは、どうやってこのテーブルをひっくり返すか。


 答えはもう出ている。

 神崎隼人は、ARカメラの向こうにいる数千人の「セコンド」たちに向かってニヤリと笑いかけた。

 それは彼の心からの感謝と信頼の笑みだった。


「なるほどな…サンキュ、お前ら。最高のセコンドだぜ」


 彼はそう呟くと、その構えを大きく変えた。

 これまでの回避と離脱を重視した軽やかな構えではない。

 両足を大地にどっしりと根付け、腰を深く落とす。

 長剣を両手で力強く握りしめる。


 それは、全ての攻撃をその身に受けることを覚悟した、重戦士の構えだった。


 視聴者D: おお!?構えが変わった!

 視聴者E: まさか…突っ込む気か!?あんな数のゴブリンに!


 そのまさかだった。

 隼人は、もうヒット&アウェイをしない。

 彼はあえて、殺到してくる強化ゴブリンたちの攻撃を、その全身で受け止めることを選んだのだ。

 HPが多少削られることを覚悟の上で。


 彼はただひたすらに前へ。

 玉座に座るシャーマンただ一体を目指して突進を開始した。


 彼の目的はもはや敵の殲滅ではない。

 ただ一つ。「――10秒間の猶予を絶対に与えないこと」


「グアアアッ!」


 一体のゴブリンが棍棒を振り下ろす。

 隼人はそれを避けない。

 左腕の【万象の守りパンデモニウム・ガード】で無造作に受け止める。

 衝撃が腕を痺れさせる。

 だが構わない。


 彼はその勢いのまま前進し、すれ違いざまに長剣の一振りでそのゴブリンを切り裂いた。

 別のゴブリンの槍が彼の脇腹を掠める。

【焼け焦げた胸当て】が悲鳴のような音を立てる。

 彼のHPバーが確かに削れていく。


 だが彼は止まらない。

 殺到するゴブリンたちを長剣でなぎ払いながら、その剣先が、あるいは剣が起こす風圧が常にシャーマン本体にも届くよう、絶え間なく牽制の斬撃を浴びせ続けた。

 一秒たりとも、攻撃の手を緩めない。

 シールドに回復の時間を与えない。


 それはあまりにも無謀で、あまりにも狂的な戦術だった。

 だがそれこそが、スキルを持たない彼が、このイカサマテーブルを打ち破る唯一の「回答」だった。


 シャーマンの顔に、初めて焦りの色が見え始めた。

 回復する間もなく、その身を覆う見えない壁が少しずつ、しかし確実に削られていく。

 彼は後方へと下がりながら、必死に火球を連射する。


 だが今の隼人には、もはやそれはただの鬱陶しい羽虫の攻撃でしかなかった。


 そしてついに、その瞬間が訪れた。


 隼人が前方のゴブリンの首を刎ね飛ばし、シャーマンとの間に一瞬の直線距離を作り出したその時。

 彼はその好機を逃さず、限界を超えた速度で踏み込み、長剣を渾身の突きとして繰り出した。

【筋力10】の全てを乗せた一撃。


 その切っ先がシャーマンの体を覆っていた青白いオーラに触れた。

 パリンッ――まるで薄いガラスが砕け散るかのような甲高い音が洞窟に響き渡った。


 シャーマンの体を守っていた見えざる壁…【エナジーシールド】が、完全に砕け散ったのだ。


「ギッ!?」


 シャーマンが、これまでとは質の違う本物の苦痛の声を上げた。

 シールドを失い、その脆弱な本体が剥き出しになる。


 隼人はその千載一遇の好機を見逃すはずがなかった。

 前方に大きく踏み込み、渾身の力を込めた長剣の斬撃を、シャーマンのがら空きになった胴体へと叩き込む。


 ザシュッ――生々しい肉を断つ感触。

 シャーマンのHPバーが、これまでの数パーセントの減少とは比較にならないほど、一気にその三分の一を削り取られた。


「ビンゴだ」


 隼人は血を滴らせる長剣を構え、獰猛に笑った。


「ようやくお前の化けの皮を剥がしてやったぜ」


 見えざる壁を突破した。

 周囲にはまだ数多くのゴブリンたちがうごめいている。

 だがもはや関係ない。


 彼の瞳には、目の前で傷を押さえ、憎悪と恐怖に顔を歪ませる、ただ一体の「ボス」の姿しか映っていなかった。


 本当の意味でのボスとの一騎打ちが、今、始まろうとしていた。

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