石畳に眠る鐘の夢 街角のスズメ2
街角のスズメ
第1章 沈黙の塔
鐘は、まだ鳴らない。
夜明け前のシエナは、まるで息を止めたように静かだった。
霧が街を包み、レンガ色の屋根をやさしく濡らしている。
その下で、無数の石畳が眠っている。
何百年も前の足音を抱えたまま、
夢の続きを見ているかのように。
わたし――ピッコロは、カンポ広場の上空を旋回していた。
冷たい風が羽をかすめるたびに、
鐘楼の尖塔が薄い靄を切り裂いて顔を出す。
街の中心、マンジャの塔。
その上にあるはずの鐘は、今は沈黙していた。
沈黙。
それはこの街の、もっとも古い言葉だ。
勝利の鐘も、祈りの鐘も、ある夜を境に止まったまま。
代わりに響くのは、石の下を流れる地下水の音。
ゆっくりとした鼓動のように、街を支えている。
わたしは塔の窓枠に止まり、
下を見下ろした。
薄闇の中、一本の道がカンポ広場から伸びている。
その道を、一人の女性が歩いていた。
白いスカーフ。
風がそれを揺らすたび、
まるで朝の光を先取りしているように見えた。
彼女の名は、クララ。
鐘の修復師。
だが彼女自身は――鐘の音を聞いたことがない。
生まれつき耳が聞こえないのだ。
それでも、彼女は鐘を直す。
「音は、目で見るものだ」と笑いながら。
彼女の指は、音の代わりに“振動”を読む。
割れた金属の傷、共鳴の癖、
そして“記憶の震え”までも。
彼女が今向かっているのは、
街外れの古い修道院。
そこには、一度も鳴らされたことのない鐘が眠っているという。
「沈黙の鐘」と呼ばれるそれを、
クララは修復しに行く。
塔の下から、もうひとつの足音。
男の影が路地を横切った。
コートの裾を風が掴み、
彼は帽子を深くかぶる。
ルーチョ――古文書修復士。
かつて教会の財務記録を扱っていたが、
ある“罪”を理由に職を追われた男。
今はクララの助手として、彼女の旅に同行している。
彼の背中には、音を拒んだ過去がある。
だからこそ、聞こえない彼女と並んで歩けるのかもしれない。
わたしは風に乗って二人を追った。
霧の中、街が少しずつ光を取り戻していく。
パン屋の煙突から白い煙が上がり、
オリーブ油の香りが石畳に染み込んでいく。
その香りの奥に、
古い鉄の匂い――鐘の金属の記憶が混ざっていた。
丘の上に修道院が見える。
蔦に覆われた鐘楼、ひび割れた十字架。
クララは立ち止まり、
霧の中からそっと手を伸ばした。
風が鳴る。
鐘ではない。
それでも、彼女の指先が震える。
ルーチョは指で小さく合図を作った。
「感じる?」という仕草。
クララは微笑み、指先で“はい”と返した。
彼女はそのまま両手を胸の前で組み、
ゆっくりと動かした。
手話の形が月光に照らされる。
「――鳴ると思う。きっと。」
声はなかった。
けれど、その動きは確かに“言葉”だった。
わたしはその笑顔を覚えた。
この街に新しい音が戻るのを、
風の上から見届けようと。
霧の向こうで、
鐘楼の影がゆっくりと動いた。
沈黙の塔が、
長い夢から目を覚まそうとしていた。
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