忘れたふりの隣で ~マリーがいた季節~ 

サファイロス

第1話 青の瞳に、忘れた記憶を見た

 あの日、空港で出会ったのは、忘れたい人の面影だった。


 午後の日差しが、空港のガラス壁を淡く透かしていた。


 大阪国際空港の出発ロビーは、旅立つ人々のざわめきで満ちている。


 スーツケースを押す音、アナウンス、潮の香りを含んだ風。


 春の空気はどこか寂しげで、それでいて新しい始まりの匂いをはらんでいた。


 姉を見送るために来ていた俺は、出発ゲートの前に立ち尽くしていた。


 姉は美術大学への進学準備のため、東京へ戻る。


 以前、短期留学でフランスに滞在していた。


 搭乗直前、彼女は笑って振り返った。


ゆう、ちゃんと食べてね。朝も昼も夜も」


「はいはい、子どもじゃないって」


 そう言いながらも、心の奥に小さな穴が開いたような感覚が残った。


 姉が手を振り、ゲートの向こうに消える。


 その瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 “誰かを見送った”ような、もっと深い痛み――理由はわからなかった。


 俺は空港を出て、モノレールのホームへ向かう。


 線路の向こうには、春霞にぼやけた街の輪郭。


 風が吹き抜け、どこかで誰かが紅茶を淹れたような、ほのかな香りが混じっていた。


 ――その香りが、なぜか心を落ち着かせた。


 電車が滑り込み、俺は乗り込む。


 窓際の席に座ったとき、斜め前の座席に一人の女性がいた。


 淡い栗色の髪をハーフアップにまとめ、白いブラウスの襟元には青いペンダント。


 手元のトランクには、どこか見慣れない外国語のタグ。


 そして、視線を上げた瞬間――青い瞳と目が合った。


「Excuse me… ここ、どこですか?」


 たどたどしい日本語。


 けれど、その響きは柔らかくて、少し震えていた。


「ここは……大阪国際空港です。もうすぐ蛍池ですよ」


「……オオサカ。……私、あの空港で降りました。けど……ここがどこか、もう分からないのです」


 彼女は言葉を探すように、口を閉じた。


 眉のあいだに迷いの影が落ちる。


「行く場所、ないんですか?」


「……ない、と思います。何も思い出せなくて……」


 その声には、静かな恐怖が滲んでいた。


 俺は息を飲み、何も言えなかった。


 他人のはずなのに、彼女の不安がどこか他人事とは思えなかった。


 蛍池駅で下車し、外に出ると春の風が頬をなでた。


 駅前のカフェのベンチで、俺たちは向かい合った。


「名前は?」


「マリー……マリーです」


 彼女は少し考えてから答えた。


 “思い出した”というより、“残っていた音を拾った”ような声だった。


 俺はスマホを取り出し、姉にメッセージを送った。


『ちょっと困ったことになった。空港で外国の人が迷ってて、記憶がないって。警察に連れて行くべき?』


 数分後、すぐに返信が返ってきた。


『優が心配してるなら、しばらく様子を見てあげなさい。困ってる人を放っておけないの、あんたの悪い癖だよ。でも、それが優のいいところ。』


 文章の最後に、スタンプの絵文字が添えられていた。


 俺は苦笑しながらスマホを閉じ、目の前の女性――マリーを見た。


 風に髪が揺れ、青い瞳が夕光を映している。


 その瞳に映る空が、なぜか懐かしかった。


「……よかったら、うちに来ますか」


 自分でも驚くほどの早さで言葉が口をついた。


「危ないですし、記憶が戻るまで……しばらく。姉の部屋も空いてるし」


 マリーは驚いたように目を見開いた。


 すぐに微笑み、かすかに首を傾げる。


「……迷惑じゃ、ありませんか?」


「大丈夫です。共同生活は歓迎です」


 そのとき、マリーの頬に夕陽が射し、金色の光が髪を縁取った。


 まるで、過去と未来の境界に立つような姿だった。


「ありがとう。あなた、やさしい人ですね」


 その一言に、なぜか胸がざわめいた。


 “やさしい人ほど、真実を知ったときに壊れてしまうから”


 ――そんな声が、どこか遠くで囁いた気がした。


 こうして、俺とマリーの奇妙な共同生活が始まった。

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