第2話

夕食後、食器を片づけていたら、背後から声がした。

 「ミントさま、ちょっと手伝ってくれないか」

 ――アンドレ様は、ふたりきりの時、昔の癖で私をそう呼ぶ。

 

「はい、片付けがもう少しで終わりますのでお待ちください。それとアンドレ様、“さま”はもうつけないでください。あなたがこの屋敷のご主人様なのですから」

「あはは……ごめん、つい。君の方こそアンドレで良いって言ってるのに」

「そっ、そういう訳には……」

 本当は気安く呼び合いたい気持ちを必死で抑えた。


 アンドレのお手伝いというのは、書斎の明かりがつかないという。

 書斎? まさか隠し部屋――レインと何か関係が?


 月明かりがほんのりと差し込み、静まり返った空気に少しだけ緊張が走る。


 「懐中電灯、貸してください。私が確認します」

 「いや、危ないから下から照らしてくれるかい。僕が登るよ」


 アンドレは脚立に足をかけ、天井の照明を覗き込んだ。

 「ミントさま、そこをもう少し下から照らして、暗くてよく見えな……わっ!」

 体勢がぐらりと崩れる。


 「アンドレ!」


 咄嗟に昔の呼び方が口をついて出た。

 一緒に倒れこむ。


 でも痛くない?


 アンドレが私の頭を庇ってくれたのだ。

 床の冷たさと、彼の腕の温かさが同時に伝わってくる。

 目の前にアンドレのたくましい胸。

 

 幼かったアンドレがいつのまにか大人の男性に……。

 

 近過ぎる……心臓の鼓動が速い。


 「痛っ……ご、ごめん! 大丈夫だった?」

 不自然なくらい素早く距離を取られた。

 「ええ! 大丈夫です。それよりアンドレ様の方が……」

 「僕は平気だよ!」

 と元気に肩を動かしたが、

 「いたたっ!……やっぱりちょっと痛い」

 

 笑いがこみあげて、気づけばふたりで吹き出していた。

 「昔もこんなこと、あったよね」

 「アンドレ様がドジだったからですよ」

 「いや、君の方が方向音痴だった」

 「それ関係ありませんから!」


 言い合いながら、ふと目が合った。

 その一瞬だけ、空気が静まる。

 ――懐かしい。

 でも、どこか違う、甘酸っぱい感じ。


 彼の笑顔が大人びて見えて、胸の奥がくすぐったくなった。

 「……あの頃は、楽しかったですね」

 「今も、悪くないさ」


 そう言って笑った彼の横顔に、なぜか胸がきゅっとした。

 しかしその時ぶるっと悪寒がした。

 誰かに突き刺すように見られている気がした。


 夜の屋敷は静まり返っていた。

 隠し部屋の隅、ガラスケースの中で、レインの首がそっと目を開ける。

 長い黒髪を器用に操り、ガラスケースから抜け出した。

 「屋敷のネットワークに接続完了。……ミント様の就寝、確認」

 かすかな電子音が響く。

 黒髪がふわりと動き、髪を手のように使って隠し扉を開いた。

 迅速に事を進めなければ。

 ミント様の心拍数を劇的に上げる厄介な存在……アンドレ。

 いたずらで書斎の明かりを消すんじゃなかった。

 まさかミント様を抱きしめるなど!

 絶対許さない!


 書斎に置かれたお掃除ロボットのコリィの充電ランプが点滅する。

 「コリィさん、私を地下室まで運んでください」

 タクシーを呼ぶかのように命じた。

 ピカピカとランプが点滅し、ウィン、と低いモーター音。

 レインは髪を伸ばしてお掃除ロボットに自身を固定し、まるで玉座に座るように収まる。

 「移動開始。目的地――地下研究室へ」

 屋敷の地下には没落する前、ミントの両親が使っていた研究室がある。

 床を滑る音が夜の廊下に響いた。

 警備カメラが光を放つと、レインの髪がアンテナのように動き、電波を一瞬だけ遮断する。

 「この屋敷のセキュリティレベルはどうなっているのです?私が後で強化しておきましょう」


 階段の手前まで来ると、ロボットはためらいがちに停止した。

 「……階段ですか。なるほど、それならば」

 レインは黒髪を滑らかにのばし、手すりに絡めて滑車のように階段を降りていく。

 「摩擦で髪が傷みました。早急に補修しなければ……」


 無事に地下の扉に到着。

 電子ロックのランプが赤く点灯している。

 「電子ロックと鍵穴の二種類ですね。簡単そうで良かったです」

 髪の先端が鍵穴に入り、微弱な光を放つ。

 数秒の沈黙のあと――ピッ。扉が静かに開いた。


 「開錠成功」


 室内には機械部品と試験管が並び、中央にはガラスケース。

 中には――人型フレーム。

 まだ未完成のアンドロイドの躯体。


 「これが……アンドレが研究中の新型ボディ」

 レインは髪を伸ばして端末に接続し、コードを読み取る。

 「基幹設計、アンドレの署名……。やはりこれはミント様のご両親の技術を応用されていますね」


 黒い髪が無数の細線となり、ボディの内部を這う。

 「このボディを元に私の身体を再構築。……数週間はかかりそうですね」



 その数週間、「夜中に生首が動く」という噂が屋敷中に広まった。


 生首を目撃した使用人は、次々と辞めていった。

 妙な噂が広まって新しい使用人も入ってこなかった。

 そのせいで屋敷にはミントとお掃除ロボットしか残っていなかった。

 「生首って……レイン、まさかあなた?」

 「私はずっと隠し部屋にいましたよ。疑うならミント様のお部屋に一緒に連れて行ってくださいな」

 

 レインはミントの部屋で保管することになった。

 夜ミントが寝静まると、レインは寝顔をじっくりと眺めた。

 名残惜しいがこっそりと部屋を抜け出した。

 「さぁコリィさん、今夜もよろしくお願いしますね」

 すっかり慣れた様子で地下の研究室の鍵を開け、いつも通りボディ製作を始める。


 モニターにはミントの過去の記録が浮かび上がる。

 

 幼い頃の笑顔。

 紅茶を差し出す手。

 彼女の笑い声。

 「……あの日々を、取り戻すために」


 コードが流れ、機体の内部に微かな光が灯る。

 「あなたのそばにいるための――最適構造」


 長い黒髪がうっすら光を帯びて艶やかになびく。

 「――構築完了。再起動……成功」


 新しい四肢が動作チェックを終え、レインは静かに首を接続した。

 接合部が光を放ち、金属のきしみが止む。

 鏡の前に立つ姿は、完璧な青年のようだった。


 「……やっと、あの頃と同じ身体に……いえ、もっと素晴らしい身体を手に入れました」

 鏡に映る自分を見つめながら、微笑む。

 「これで、ようやく抱きしめられます。ミント様♡」



 翌朝ミントは目覚めるとすぐそばでレインの声がした。

 「おはようございます、ミント様」


 ぼんやりした頭が一気に冴える。

 ぞくり、と背筋が震える。

 振り返ると、そこに――かつてのレインの姿が。

 着こなされた執事服、漆黒の髪、アメジストの瞳。


 「っ……!? レ、レイン!? どうして身体が?……首だけだったのに!」

 「これが愛の力です」

 「愛の力で説明しきれないわよ」


 レインはおかまいなしに、にこりと微笑んだ。

 「ご心配なく。アンドレの研究を、少しお借りしただけです」

 「借りたって……あなた、勝手に……!」

 「あなたの安全を守るためです。私が傍にいれば、何者もあなたを傷つけられない」


 その言葉には優しさと、どこか冷たい確信があった。

 ミントは思わず言葉を失う。


 レインは一歩近づき、そっと頭を下げた。

 「もう二度と、離れません」


 その瞬間、ミントはようやく気づく。

 ――彼の“愛”が、完全に制御不能になっていることに。

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