ノスタルジアの処女~約束を反故にされた彼女は新たな恋に全てを賭ける~

舞夢宜人

第1話 未完のノスタルジーと、衝動の予感


 十二月に入ってすぐ、俺、朝比奈 翔は、鳴瀬 結衣に彼氏ができたという噂を耳にした。


 それは、五時間目の終わり、移動教室を控えた慌ただしい教室の隅でのことだった。俺はいつも通り、次の授業の準備をするでもなく、窓の外の灰色の空を眺めていた。教室の空気は、期末試験と間近に迫った冬休み、そしてその先にある卒業という名の「終わり」への諦念で、わずかに澱んでいた。


「聞いた? 鳴瀬さん、隣のクラスの篠原と付き合いだしたって」

「マジで? ああ、あのスポーツ推薦の。やっぱ美男美女カップルかよ」


 無神経なクラスメイトの会話が、俺の耳に突き刺さった。まるで、冷たい針で鼓膜を直接刺されたような、鋭い痛みを伴う情報だった。俺は反射的に息を止め、気配を消す。俺がここにいることなど、彼らは気づいてもいないだろう。俺はクラスにおいて、そういう存在だった。いてもいなくても変わらない、空気のような存在。「モテない側の人間」という、自らが規定した安全な檻の中から、世界を眺めているだけの、卑屈な傍観者だ。


 鳴瀬 結衣。


 その名前が持つ響きだけで、俺の心臓は、まるで十年前の錆びたブランコのように、ぎい、と鈍い音を立てて軋んだ。彼女は、俺にとって「可能性」そのものだった。同じクラスになったこの一年、俺は何度、彼女の横顔を盗み見たか分からない。茶色く染められたボブが揺れる様も、ふとした瞬間に授業が退屈そうに窓の外を見る目も、俺にとっては全てが眩しかった。それは、俺が決して手の届かない「聖域」に対する、一方的な礼拝に近かった。


 だが、俺は一度として彼女に話しかけたことがない。挨拶さえ、まともに交わしたことは皆無だ。俺のような人間が彼女にアプローチするなど、それは許されない背徳行為に等しいと、勝手にそう思い込んでいた。彼女の隣に立つべきなのは、篠原 陸斗のような、俺とは正反対の「モテる側の人間」なのだと。世界はいつも、そうやって残酷なまでの正解を、俺が行動を起こす前に示してくる。篠原 陸斗。彼が持つであろう、俺にはない全て。屈託のない笑顔、スポーツで鍛えられた体、仲間たちの中心にいる存在感。それら全てが、俺の卑屈さを際立たせるための当て馬のように思えた。


 噂は、事実という名のナイフとなり、俺の胸に深く突き刺さった。高校三年生、クリスマスの足音が街に響き始めるにはまだ少し早い、師\|$走の初旬。人生における「可能性に満ちていたあの頃」の、最後の扉が音もなく、目の前で静かに閉じられたのを感じた。


「……終わったな、俺の高校生活」


 チャイムが鳴り、生徒たちが一斉に教室を出ていく。その喧騒の中で、俺は机に俯せになった。埃っぽい窓際に置かれた俺の机は、教室の隅の、まるで世界の果てのような場所だった。誰にも聞かれないように、自虐的な独り言を呟く。


 目の前で閉じられたのは、鳴瀬 結衣という名の、最後の可能性だった。


 激しい後悔が、胃液のように込み上げてくる。なぜ、行動しなかったのか。なぜ、玉砕覚悟で口説くことすらしなかったのか。あの時、勇気を振り絞っていれば、たとえ無様に振られたとしても、この鈍い痛みよりはマシだったはずだ。遅すぎた、と自責の念に苛まれる。その激しい後悔は、何も行動しなかった卑屈な自分自身への、最も痛烈で、しかし誰にも理解されることのない罰だった。


 もしもあの時、という仮定が、頭の中を埋め尽くす。

 もしもあの時、春のクラス替えで隣の席になっていれば。当たり障りのない天気の話から始めて、少しずつ共通の話題を探し、連絡先を交換し、夏休みには一緒に花火大会に行けたかもしれない。

 もしもあの時、体育祭で同じチームになっていれば。必死に走る俺の姿を見て、彼女が少しだけ見直してくれたかもしれない。

 もしもあの時、落とした消しゴムを拾ってやった、あの瞬間に。ただ無言で渡すのではなく、何か気の利いた一言でも言えていれば。「テスト勉強、大変だね」と、それだけでも言えていれば。


 だが、その全ては、俺が選択しなかった未来だ。俺は常に、拒絶されることを恐れ、傷つくことから逃げ、安全な傍観者であり続けた。その結果が、これだ。


 俯せた顔の先に、机に彫られた小さな落書きが見える。意味のない、いつ誰が彫ったかも分からない傷。まるで、今の俺の心のようだった。冷たいニスが塗られた木の感触が、頬に俺の体温とは異なる冷たさを伝えてくる。


 ノスタルジーが俺を襲う。それは、甘酸っぱい思い出などでは断じてない。可能性に満ちていたはずの三年間で、結局何も成し遂げず、誰とも深く関わろうとせず、ただ空気として存在し続けた自分への、強烈な嫌悪感だ。「学生時代を遠く懐かしむ」には、俺のそれはあまりにも空虚で、未完すぎた。


 「選択しなかった未来」への強い郷愁と、それに伴う自己への嫌悪が、深く胸を締め付けた。鳴瀬 結衣が誰と付き合おうが、本来の俺には何の関係もないはずだ。それなのに、この喪失感はなんだろうか。まるで、自分が所有していた何かを奪われたかのような、理不尽な痛み。


 俺は彼女の何でもないくせに。


 がらんとした教室に、俺は一人、取り残される。移動教室に向かう生徒たちの足音も、もう遠く聞こえない。暖房が切れたのか、窓から差し込む十二月の光は力を失い、教室の空気はゆっくりと冷えていく。次の授業に向かう気力も湧かない。


 ただ、噂が事実でないことを祈るような、あるいは、いっそ事実であってくれと願うような、矛盾した感情の中で、俺はひたすらに自分の卑屈さを呪った。事実であってくれと願うのは、そうすれば俺は「彼女が彼氏持ちになったから諦めた」という、惨めなエクスキューズ(言い訳)を手に入れられるからだ。自分の勇気のなさを、運命のせいにできるからだ。


 鳴瀬 結衣と篠原 陸斗。その二人が並んで歩く姿を想像する。きっと、お似合いなのだろう。俺の入り込む隙間など、最初から一ミリも存在しなかったのだ。


 俺はゆっくりと顔を上げた。窓の外の空は、相変わらず鉛色に曇っていた。まるで、俺の未来そのものを暗示しているかのように。


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