沈黙のういザード
サファイロス
第1話 春の朝と、雨上がりの憂
風呂上がりの
テーブルの上には、朝の光に照らされた湯気と香りが立ちのぼる料理がずらり。
春の気配が、部屋いっぱいに広がっていた。
「おはよ、
「おはよう、憂ちゃん。ちょうど出来たところよ。朝から元気そうで何よりね」
葉月は白いノースリーブのブラウスに、深いグリーンのプリーツスカートを合わせ、
その上から淡いベージュのエプロンをきゅっと結んでいた。
胸元には小さなレースの縁取りがあり、上品さと家庭的な柔らかさが同居している。
ふと動くたび、エプロンのリボンが軽やかに揺れ、
まるで彼女自身の落ち着いた所作を映しているようだった。
清楚で飾らないのに、どこか明るくて前向きな雰囲気をまとう。
軽やかに結ばれたポニーテールがふわりと揺れ、
笑顔に合わせて髪先まで楽しげに跳ねる。
食卓の真ん中には、焼き鮭、卵焼き、菜の花のおひたし、
わかめと豆腐の味噌汁、そして小鉢に盛られた筍の佃煮。
「葉月姉、これ……筍の佃煮?」
「ええ、おばあちゃん直伝の一品よ。
春の恵みを無駄にしたくなくて、あたしなりに腕をふるったの」
憂は右手で箸をつまみ、筍の佃煮を口に運ぶ。
しゃくっとした歯ざわりのあと、甘辛い味がじんわり広がった。
「……んー、おいしい! ご飯が止まらなくなる」
そう言うやいなや、憂は茶碗を抱えて白米をかきこむ。
「ちょ、もうそんなに? 味噌汁もまだあるのに」
「だってこれ、ご飯泥棒すぎるんだもん」
夢中でおかわりをよそい、筍の佃煮をのせる。
口に入れるたびに目を細め、楽しげに「んんっ!」と声を漏らす憂に、
葉月は少し眉を上げ、微笑む。
「おばあちゃんが聞いたら喜ぶでしょうね。
……とはいえ、もう少し味わって食べるのが礼儀ってものよ」
「わかってるけど、おいしいんだもん!」
次は鮭。皮ごとぱりっと割って頬張ると、思わず「んーっ、うまっ!」。
「卵焼きも……甘い、でもご飯と最高!」
「憂ちゃん、まるで食べ盛りの男子高校生みたいね」
「だって朝から元気じゃないと、学校で頑張れないもん!」
食卓の料理はみるみる減っていき、
葉月はやや誇らしげに、でもどこか嬉しそうに微笑んでいた。
満腹になった憂は、やっと箸を置く。
「ねぇ、こういう朝ごはんって……安心するね」
「当然よ。春の朝は、心身ともに整えて臨むべきよ。
元気でいれば、中学校でも恥ずかしい思いはしないでしょう?」
「……うん!」
窓の外では庭の梅が散りはじめ、柔らかな風がカーテンを揺らす。
ふたりの食卓には、静かで、でも確かな温もりが満ちていた。
玄関先に立つ憂の前で、葉月は胸を張り、大きな紙袋をひらひら揺らした。
袋の隙間から覗くのは、ずっしりとした三段重箱。
「見なさい、今日のお弁当よ。私特製、筍の佃煮入り。春らしさも抜かりなく仕上げたわ」
「……ありがと。助かる」
憂が紙袋を両手で受け取ると、その重さに少し腕が沈む。
胸中には感謝と同時に、ある予感が浮かんだ。
(……この得意げな顔、絶対何か要求してくる)
案の定、葉月は小首をかしげ、瞳を潤ませる。声もどこか乙女めいている。
「それじゃあ……“行ってきますのキッス”。一瞬でいいのよ、ほ~ら、ちょこんって」
「……却下!!」
憂は迷わず切り捨てる。
葉月は一瞬肩を落としたが、すぐに瞳を輝かせて身を乗り出した。
「ではせめて、ハグだけでも許してくれない? もちろん軽く、儀式のようにね」
「……ほんと、しつこいなぁ」
憂はため息をつく。
「ふふっ、さすが話のわかる妹ちゃん。では、失礼して――」
葉月はふわりと抱きつく。
力加減は絶妙で、憂の背中をそっと包み込むように温かく抱き寄せた。
香るシャンプーと柔らかな体温に、憂は自然と肩の力を抜く。
「ん……こういうの、悪くないでしょ?」
葉月の声は少し高飛車さを残しつつも、柔らかく憂の心に染み渡る。
憂は小さく息を吐き、肩の力を預ける。
抱きしめられる短い時間は、ただのハグではなく、心を満たすひとときになった。
そして葉月はさっと手を離し、真面目な顔で制服を整える。
「スカーフが曲がっているわ。立ちなさい、じっとして」
「はい、これで完璧。せっかく可愛いんだから、きちんとして行きなさい」
憂は頬をかきながら靴を履き直し、玄関の扉を開けて外の光に足を踏み出す。
「行ってきます」
背中を見送る葉月は柔らかな笑みを浮かべ手を振る――
戸が閉まった途端、くすくすと笑い、空気を支配するような高飛車ぶりを覗かせた。
「ふふ、今日も最高の香りだったわ……ふんふん♪」
憂は肩をすくめ、「……やっぱり変態だな、葉月姉」と小声で呟く。
だが、そんな姉が少しだけ愛おしいことも、否定できなかった。
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