航海  物語要素「航海と帰還/嘘をつくと代償を払う」

村に着いたのは、潮の香りが強い朝だった。


「第八区画・波音村」という看板の前で、わたしは立ち止まった。遠くで波の音がして、カモメが鳴いていた。


「海だ」


わたしは呟いた。海を見るのは久しぶりだった。


村の中心に向かって歩いていると、広場で人だかりができていた。中心に、日焼けした老人が立っていた。長い白髭を生やして、古い船乗りの帽子をかぶっていた。


「そして、嵐の中を三日三晩進んだんだ。波は船よりも高く、風は帆を引き裂こうとした。だが、わしは諦めなかった」


老人の声は力強かった。村人たちは興味深そうに聞いていた。


「そして、ついに伝説の島に辿り着いたのだ。そこには、まだ誰も見たことのない植物が......」


わたしは人だかりの後ろに立って、聞いていた。


「いいなぁ」


冒険の話は楽しかった。博士も昔、冒険の話をしてくれた。


老人の話が終わると、村人たちは拍手をした。でも、何人かは顔を見合わせていた。信じていないような表情だった。


老人が一人になると、わたしは近づいた。


「こんにちは。わたしは、写真を撮る仕事をしているロボットです」


老人は驚いた顔をした。それから、笑った。


「ロボットか。珍しいな。わしはヴォーンだ。この村の船乗りだ」


「船乗り、いいなぁ」


わたしは首からぶら下げたカメラを見せた。


「写真、撮ってもいいですか?」


「構わんよ。でも、わしのような老いぼれを撮って、何になる?」


「ヴォーンさんは、かっこいいです」


ヴォーンは照れくさそうに笑った。


「じゃあ、撮ってくれ。伝説の船乗りヴォーンをな」


わたしはカメラを構えた。でも、シャッターを切る前に、誰かがヴォーンを呼んだ。


「おじいちゃん!」


若い女性が走ってきた。長い黒髪を三つ編みにして、エプロンをつけていた。


「アイラ、どうした?」


「また広場で話をしてたの? お昼ご飯だって言ったでしょう」


アイラはヴォーンの腕を取った。ヴォーンは少し困った顔をした。


「すまんな、ロボット。また後でな」


二人は去っていった。アイラがヴォーンに何か小声で話していた。ヴォーンは黙って頷いていた。


その日の午後、わたしは海岸を散歩した。


砂浜には古い船が何隻か引き上げられていた。もう使われていないようだった。でも、一隻だけ、まだ手入れされている船があった。船体には「海鳥号」という名前が書いてあった。


「これが、ヴォーンさんの船かな」


わたしは船に近づいた。


「違うわ」


声がして、振り向くと、アイラが立っていた。


「その船は、おじいちゃんの船じゃない」


「じゃあ、誰の?」


「もう、いない人の」


アイラは船を見つめた。


「おじいちゃんの船は、もう十年前に沈んだの」


わたしは驚いた。


「沈んだ?」


「ええ。おじいちゃんが最後の航海に出た時、嵐に遭って、船が壊れたの。おじいちゃんは運良く助かったけど、船は沈んだわ」


アイラは砂浜に座った。わたしも隣に座った。


「それ以来、おじいちゃんは航海に出ていないの。でも、村の人たちには『航海から帰ってきた』って嘘をついているのよ」


「どうして?」


「恥ずかしいからだと思う。船乗りとして、最後の航海が失敗だったって認めたくないのよ」


アイラは悲しそうに笑った。


「でも、嘘をついてから、おじいちゃんは変わったわ。昔はもっと明るくて、本当の冒険の話をしてくれたのに。今は作り話ばかり」


わたしは波を見た。


「博士が言ってました。『嘘は心の牢屋だ』って」


「そうね。おじいちゃんは、自分の嘘に閉じ込められているわ」


二人で黙って波を見ていた。


夕方、わたしはヴォーンの家を訪ねた。


ヴォーンは縁側に座って、海を見ていた。


「やあ、ロボット」


「こんにちは」


わたしは隣に座った。


「海を見ているんですか?」


「ああ。もう十年以上、こうして見ているだけだ」


ヴォーンの声は、朝とは違って、疲れていた。


「航海、したくないんですか?」


ヴォーンは黙った。しばらくして、小さく答えた。


「したいさ。でも、もうできない」


「どうして?」


「船がない。金もない。それに......」


ヴォーンは自分の手を見た。


「勇気もない」


わたしは首を傾げた。


「勇気?」


「最後の航海で、わしは失敗した。嵐に負けて、船を失った。それ以来、わしは怖くて海に出られないんだ」


ヴォーンは苦笑した。


「情けない船乗りだろう? だから、嘘をついた。『成功した航海だった』と。『伝説の島に行った』と」


「でも、それは......」


わたしは言葉に詰まった。何と言えばいいのかわからなかった。


「嘘をついた代償は大きかった」


ヴォーンは海を見つめた。


「嘘をつき始めてから、わしは本当の海の匂いを忘れてしまった。本当の波の音も聞こえなくなった。海はすぐそこにあるのに、わしの心からは遠くなってしまったんだ」


わたしは悲しくなった。


「ヴォーンさん」


「なんだ?」


「博士が言ってました。『間違いは、やり直すためにある』って」


ヴォーンは笑った。


「やり直す? どうやって?」


「本当のことを、話せばいいんじゃないですか?」


「今さら?」


「今だからです」


わたしは立ち上がった。


「村の人に、本当のこと、話しましょう」


ヴォーンは戸惑った顔をした。でも、その目に、小さな光が灯った。


翌日、村の広場に人が集まった。


ヴォーンが話をするというので、村人たちが集まってきた。アイラもいた。わたしもいた。


ヴォーンは広場の中央に立った。いつもの船乗りの帽子をかぶっていた。でも、表情は違った。


「みんな、聞いてくれ」


ヴォーンの声は震えていた。


「わしは、長い間、嘘をついていた」


村人たちがざわついた。


「十年前、わしは最後の航海に出た。でも、成功しなかった。嵐に遭って、船を失って、命からがら帰ってきたんだ」


「その後、わしは恥ずかしくて本当のことが言えなかった。だから、作り話をした。『成功した航海だった』と。『伝説の島に行った』と」


ヴォーンは頭を下げた。


「すまなかった。わしは臆病者だ」


広場は静まり返った。


わたしは心配になった。村人たちが怒るんじゃないかと思った。


でも、村の老人の一人が前に出てきた。


「ヴォーン、顔を上げろ」


ヴォーンが顔を上げると、老人は笑っていた。


「わしらは、最初から知っていたよ」


「え?」


「お前の船が沈んだこと、嵐に遭ったこと、全部な。この村は小さいんだ。秘密なんてない」


別の村人も言った。


「でも、お前が話をするのは楽しかったから、聞いていたんだ」


「そうだ、そうだ」


村人たちが笑った。


ヴォーンは目を丸くした。


「じゃあ、わしの話は......」


「作り話だって、わかってたさ。でも、いい話だった」


アイラが祖父に駆け寄った。


「おじいちゃん」


二人は抱き合った。


わたしは嬉しくなった。カメラを構えた。この瞬間を撮らなければと思った。


でも、シャッターを切ろうとした時、カメラのレンズが曇っていることに気づいた。潮風のせいだった。


「あっ」


わたしは慌ててレンズを拭いた。でも、その間に、村人たちはヴォーンを囲んで、話し始めてしまった。


「今度は、本当の話を聞かせてくれよ」


「ああ。本当の話をしよう」


ヴォーンは笑った。本当の笑顔だった。


わたしはレンズを拭き終えたが、もう決定的な瞬間は過ぎていた。


「ああ......」


わたしは落ち込んだ。


でも、その時、ヴォーンが言った。


「なあ、みんな。わしはもう一度、航海に出たい」


村人たちが驚いた。


「本当か?」


「ああ。今度こそ、本当の航海だ。失敗するかもしれない。でも、それでもいい」


村の若者が言った。


「じゃあ、手伝うよ。船を直すの」


「わしもだ」


「わしも」


次々と村人が手を挙げた。


アイラは涙を流していた。


わたしはカメラを構えた。でも、わざと少し待った。


ヴォーンが村人たちに囲まれて、笑っている。


その時、海から風が吹いた。ヴォーンの帽子が飛ばされそうになった。ヴォーンはとっさに帽子を押さえた。


わたしはその瞬間を撮った。


写真がゆっくりと現像された。


そこには、帽子を押さえながら笑うヴォーンと、彼を囲む村人たちと、そして背景の海が写っていた。


「いいなぁ」


わたしは呟いた。


ヴォーンに写真を見せた。


「これ、あげます」


ヴォーンは写真を受け取った。じっと見つめた。


「ありがとう。これは、わしの新しい出発の写真だ」


「新しい出発?」


「ああ。わしは嘘から解放された。これから、本当の航海をする」


ヴォーンは海を見た。その目には、もう迷いがなかった。


数日後、わたしは村を出ることにした。


ヴォーンとアイラが見送りに来た。海岸では、村人たちが古い船を修理していた。


「元気でな、ロボット」


「はい。ヴォーンさんも」


「わしの航海が終わったら、また会えるかもしれんな」


「会いたいです」


アイラが言った。


「おじいちゃんの本当の冒険の写真、撮ってあげてね」


「はい」


わたしは頷いた。


次の村に向かう道を歩きながら、わたしは振り返った。


ヴォーンは海を見つめていた。もう怖がっていないようだった。


「いいなぁ」


わたしは呟いた。


航海と帰還。


でも、本当に大切なのは、どこに行ったかじゃない。


正直に生きることだ。


嘘は心を閉じ込める。真実は心を解放する。


博士が言ってた。


「遠くへ行くことよりも、正直に歩くことの方が難しい」って。


ヴォーンは、ようやく正直に歩き始めた。


それが、本当の航海なんだ。


道端で、カモメが鳴いていた。


わたしはカメラを見た。フィルムはあと二枚だった。


でも、それでいい。


次の村で、また「いいなぁ」を見つければいい。


「博士、見てますか?」


わたしは空に向かって言った。


「わたし、いいものを撮れました」


風が優しく吹いて、潮の香りを運んできた。


わたしは笑顔になって、また歩き始めた。


海は遠くなったけれど、心の中には、ヴォーンの笑顔と、村人たちの温かさと、海の音が残っていた。


それを抱えて、わたしは次の村へ。


終わりのない旅を、続けていく。


おわり



## 使用したトロープ(物語要素)

1. **「航海と帰還」**

2. **「嘘をつくと代償を払う」**

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