KADAWARI
槇瀬りいこ
第1話ㅤKADAWARI ─ 観測者たちの器
深夜二時。
Aurora Labo のオフィスは、いつもより静かだった。
サーバーラックの排熱が低く唸り、
モニターの白い光だけが輪郭のない影をつくっていた。
「なあ榊」
椅子を傾けた相沢涼の声は、夜に溶ける手前の温度だった。
「なんで最近、お前そんな完璧主義みたいになってんの?」
榊悠司はキーボードから指を離す。
反射で返しそうになり――そのまま止めた。
ひと呼吸、夜より静かに落ちる。
「……なってない」
「なってる。誤差0.0001%も許さない顔してる」
榊は画面から視線だけを浮かせる。
「偏りを観測するには、器が狂ってちゃダメなんだよ」
「器?」
「歪みを拾う器」
一秒、視線が交わる。
榊は言い直した。
「誤差を排除してるんじゃない。誤差を取りこぼさないために、器を歪ませたくないだけだ」
相沢は眉を上げる。
「つまり完璧主義?」
「違う」
「じゃあ何主義?」
「……観測者主義」
「だっっっせぇ」
差し出されたコンビニコーヒーと同時に、笑いが吹き出す。
――
「なあ、覚えてるか」
「何を?」
「会社辞めた日」
時間が、風に押し戻される。
――
大手ゲーム企業の会議室。
二人はまだエース技術者だった。
完璧な設計、バグゼロの納品、最高評価。
だが――
「プレイヤーの誤操作も排除しますか?」
榊の問いに、重役は即答した。
「誤操作は不具合だ。潰せ」
その瞬間、榊の中で何かが折れる音がした。
相沢は立ち上がる勢いで言った。
「誤操作の着地がショートカットになることだってあるのに?
それ全部殺すの?」
重役は冷たく笑う。
「再現性のない奇跡に価値はない」
その日の夕方、二人は辞表を出した。
高架下の影。コンクリートの上に並んだ二つ。
「俺たちで歪んだ世界を作ろう」
相沢が言う。
榊は上を向いたまま笑った。
「歪み専用の器、作るか」
それが Aurora Labo の原点だった。
――
「で?」
相沢が言葉を落とす。
「歪み愛してるくせに、器だけ完璧にしてどうすんの?」
榊はマグカップを指で回す。
「ガタガタの器で水を掬ったらどうなる」
「こぼれる」
「こぼれたのは揺らぎじゃない。ただの損失だ」
沈黙が一段落ちる。
「つまり?」
「揺らぎを掬うには、器は歪んじゃいけない」
「……はぁ〜?ㅤポエムかよ」
「俺はポエムじゃない」
「ポエムだ」
「違う」
「ポエム」
相沢は笑いながらデスクを軽く叩いた。
――
「なあ榊」
「あ?」
「お前さ。完璧じゃねぇよ」
榊が視線だけで返す。
「ただの器バカだ。歪みを愛しすぎて、歪みを守るための柵を作りすぎた男」
榊の口角が、ほんの少し上がる。
「……そうかもな」
相沢はパーカーを掴んで立ち上がった。
「でも安心しろ。お前が器なら」
振り向いて笑う。
「俺はそこに落ちる光だ」
榊は盛大に吹き出す。
「うるせえ。良いセリフ残して帰ろうとすんな」
「残すんだよ。格が違うから」
扉が閉まる。
夜が戻る。
モニターの光だけが榊の横顔を照らす。
「……偏りの器、か」
今度は否定しなかった。
「悪くない」
キーボードが静かに鳴る。
そこにあるのは、歪みを掬うために歪まない背中。
完璧じゃない。
偏りを守りたいだけの姿。
――歪みを掬うため、歪まずに在る男。
その在り方を、榊はまだ名前にしていない。
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