エピソード 24

「この銅像に……何かご用ですか?」


 振り返ると、そこには粗末な服をまとった娘が立っていた。


「いや、用ってほどのことはないわ」


 娘は慣れた様子で銅像の周りに生えた雑草を抜き、絡んだ蔦を外し、布切れで石肌を磨き始める。


「あなた、この町の人?」


 イリスが問いかけると、娘は少しだけ言葉をためらってから答えた。


「…………ええ。前までは、この近くで暮らしていました」


「ずいぶん荒れた様子だけど……この町に何があったの?」


 イリスが市場からここまでの荒れ果てた街並みを思い返しながら尋ねると、娘は冷ややかな視線を向けてきた。


「それを知って……あなたは何かしてくださるんですか?」


「それは……」


「この国にはもう、私たちを助けてくれる英雄様なんて――どこにもいないんです」

 

 今にも泣き出しそうな娘は、溜め込んだ思いを振り払うように、黙々と銅像の手入れを続けていた。


「…………英雄。この人について、教えてくれないかな?」


 イリスは娘の隣に腰を下ろし、銅像を見上げる。


「私……この人については、魔族から国を救ったことと、処刑されたことくらいしか知らないんだ」


 娘は手を止め、イリスと同じように銅像を仰ぎ見た。


「ファウスト様は……とてもお優しい方なんです」


 その声は懐かしさに震えながらも、どこか誇らしげだった。


「戦が終わったあと、被害に遭った村や町を巡っては、復興の手伝いをしてくださいました。この町もその一つです。もとは緑豊かで林業の盛んな場所でしたが、魔族に家々を壊され、私たちは途方に暮れていました」


 娘は周囲を見渡し、少し微笑む。


「そんな時、ファウスト様が立ち寄ってくださって……生き残った住民と一緒に家を建て直してくださったんです。今残っている家は、全部ファウスト様の手によって建てられたものなんですよ」


 言葉を重ねるにつれ、娘の目は輝きを増していった。


「おかげで町は少しずつ活気を取り戻しました。けれど……魔族の残党が再び襲ってきて……私は逃げ遅れ、殺されかけたところをファウスト様に救われました」


 娘は胸に手を当て、強く握りしめる。


「だからこの銅像は、私たちが感謝を忘れないために。町を救ってくださった英雄を、決して忘れないために……この町の町長だった父が建てたんです」

 

 大英雄ファウストについて語っていた娘の表情は、次第に陰りを帯び、瞳には再び涙がにじんだ。


「……ファウスト様がこの町を去ってしばらくした頃、とある噂が流れ始めたんです。――ファウスト様は魔族の手先で、国家転覆を企んでいた、と」


 娘は唇を震わせ、悔しさを押し殺すように言葉を続けた。


「最初は誰も信じませんでした。私たちも、父も……。でも、次第にその噂を口にする人が増えていって……やがてこの町自体が、国の恥だと蔑まれるようになったんです。人は離れていき、今では……私ひとりしか残っていません」


「…………だから、こんなに荒れて」


 イリスが呟くと、娘はかすかに首を横に振った。


「人が去っただけじゃありません。この町には――魔族の“巣”があるんです」


「えっ……」


 その言葉に、さすがのイリスも表情を固くする。


「でも……あの戦いで魔族はみんな倒されるか、魔界に戻ったはずじゃ」


 イリスは魔眼を開き、周囲の気配を探った。

 だが、魔力の反応は――何もない。


「……ファウスト様が処刑されたと言われて、しばらく経った頃からです。魔族が、各地で巣を作り始めたと……」


「ファウストが処刑されてから……魔族が増えた?」

 

 娘の話を聞きながら、イリスは思わず眉をひそめた。

 ――そんなはずはない。

 ファウストが処刑された時期といえば、彼を魔界へ連れ込んだ直後。

 その時点でイリスはすでに〈ゲートの魔法〉を禁忌と定め、認めた者以外の使用を禁じていた。

 ならば、魔族が人間界に現れ、増えるなど……本来あり得ないはずだ。


「……どういうことなの?」

 

 思考に沈んでいたイリスは、不意に近づいてくる足音に気づいた。


「おい、イリス。勝手な行動はするなって言ったよな?」


 振り返れば、ギルに扮したファウストが呆れ顔でこちらを見下ろしていた。


「今、この子に英雄ファウストのことを聞いていたの」


「は? 話って……」


 言いかけたファウストの視線が、銅像に向かって止まる。

 自分の姿を模した像を目にした彼は、眉間に深い皺を寄せた。


「面倒なもんを……。早く戻るぞ」


「待って!」


 魔界へ戻ろうとするファウストを、イリスが呼び止める。


「私っ、もう少しこの子から話を聞きたいの」


「……魔族の巣。大英雄ファウストの“呪い”だろ?」


 その言葉に、娘の表情が一変した。


「ファウスト様は、そんなことをなさる方じゃありませんっ!」


 か細い声で話していた娘とは思えぬほど、激しい感情をあらわにしていた。

 

「ファウスト様は、そんなことをされる方ではありません! あなたはファウスト様の何を知って、そんな酷いことを言うんですか!」


「えっ……」


 さすがのファウストも返す言葉を失い、唖然とした表情を浮かべた。


「ファウスト様はお優しい方です! 困っている私たちを助けてくださった! 魔族に殺されかけた私を救ってくださった! あんなに優しい方を悪く言うなんて、私には絶対に許せません!」


 娘の真っ直ぐな言葉に、イリスはニヤリと頬を緩ませ、ファウストの脇腹を肘で突く。


「……だってさ」


「お前は黙ってろ」


 明らかに調子に乗っているイリスから距離を取り、ファウストは娘に歩み寄った。


「……でも、もう大英雄ファウストはいない」


「分かっています。そんなこと……分かってます」


 涙ぐむ娘の姿に、ファウストは深く長いため息をついた。


「……魔族の巣はどこにある?」


「へ?」


「久しぶりにこの町に来たら、魚の種類は減ってるし値段は跳ね上がってる。この町から魚が買えなくなるのは困る」


 ぶっきらぼうに言うファウストの代わりに、イリスが娘へ優しく声をかける。


「私達なら、何とかできるかもしれない」


 その言葉に、娘の顔はぱっと明るさを取り戻した。


「こう見えて、この人――すっごく強いのよ」


「だから、余計なことは言うなって。……その場所に、俺達を案内してくれないか?」


「っ、……はいっ!」


 娘の小さな背中を追いながら、二人は町外れの道を進んだ。

 

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