エピソード 20
ファウストとイリスは繁華街から少し離れた裏通りに身を潜めていた。
街のざわめきはまだ遠くで聞こえるが、この一角だけは妙に静かで、二人の声がよく響く。
「ねぇ、私も一緒に人間界に行きたいんだけど」
「駄目だ」
即答するファウスト。
「なんでよ! 私このままだと、お腹が空きすぎて死んじゃうじゃない!」
イリスは両腕をばたつかせ、子供のように駄々をこねる。
その姿はどう見ても「人類を恐怖させた魔王」には見えない。
「腹が減ったからって死ぬ魔王がどこにいるんだよ」
ため息と共に返すファウスト。
ファウストは不貞腐れるイリスを相手にせず、懐から取り出した小瓶を掲げる。
ローザから渡された変身薬だ。
淡い青光を帯びた液体が、月明かりに反射してきらめいた。
「さて……」
迷いなくそれを口に含み、喉奥へと流し込む。
薬液は冷たいのに、飲み下した瞬間に内側から熱がこみ上げ、血管を焼くように広がっていった。
「そもそも、俺が人間界へ向かうだけでもリスクがあるのに、魔王のお前を連れて行ける訳が無いだろ」
「人間界に行ったら絶対に美味しい食べ物食べるんでしょ? 私も食べたい!」
「……そんな余裕ある訳が無いだろ」
いくら説得しても「行きたい」の一点張り。
イリスはまるで聞く耳を持たない。
根負けしたファウストは、深く息を吐き、小瓶をイリスに差し出した。
「ほら、飲め」
「……っ!」
イリスの金色の瞳が輝く。
勝ち取った子供のような顔をして、嬉々として薬を飲み干した。
「いいか? 向こうでは、俺の言う事を絶対に守れよ。あと、面倒事は起こすな」
「っ、絶対に守るわよ! あー、お腹空いたなぁ。向こうで何食べようかなー」
「本当に分かってるんだろうな?」
「分かってるわよ! 魔力だって悟られないように制御するし、人間との接触も控えるから」
イリスは胸を張り、堂々と宣言する。
その頼もしさに一瞬だけ期待しかけるが、次の瞬間「食べ物」の話に戻っていく様子に、ファウストは頭を抱えた。
人族から敵対視されている魔族の王を連れて人間界に行く。
その行為がどんな意味を持つのか。
果たしてイリスは本当に理解しているのか。
ファウストは胃を痛めながら、変身薬の効果が現れるのを待った。
程なくして、ローザから貰った薬が効き始める。
体の奥から熱がこみ上げ、骨が軋むような感覚が走った。
「……あー、あー……」
ファウストの柔らかで甘い声がガサつき、背丈も拳一つ分低くなっていく。
美しいブロンドの髪は褪せるように赤みを帯び、瞳の色も地味な灰色へと変わった。
「何しているのよ」
「声質の変化を確かめてるんだよ」
薬が完全に効き、本来の姿はどこにもない。
変身は成功だ。
だが、ファウストはそこでふとおかしな事に気づいた。
「……なぁ。イリス、お前。ちゃんと薬を飲んだか?」
「え? 飲んだけど……」
ファウストは怪訝に目を細める。
確かに強引に飲ませた記憶がある。
だが、イリスには何の変化も現れていない。
金色の瞳も、赤く艶やかな髪も、そのまま。
嫌な予感がして、過去にイリスとした会話を思い出した。
「そういえば、この前……お前、状態異常は効かないって言ってたっけ?」
「あ……」
イリスは気まずそうに視線を逸らした。
ファウストは額を押さえ、深くため息をついた。
やっぱり、こうなる気がしていた。
魔王故なのか。
自分に状態異常は効かないと自慢げに話していたイリスの姿をふと思い出し、ファウストは何度目か分からない大きなため息をこぼした。
状態異常が効かないということは、変身薬もただの水と同じということ。
「はーーーーーー。……お前はやっぱ留守番だ」
「なんでよっ!」
「なんでって、人間離れした見た目のお前を連れて、食材の調達なんて危険すぎるだろ!」
「変身薬が効かなかったのは、ただのちょっとした事故でしょ? 私はもうお腹が空いて死んじゃいそうなの! こんな状態の主人を残して、アンタだけ人間界で美味しい食べ物を食べるなんて絶対に許さないから!」
「許さないって言ったって……」
イリスは両腕を広げ、ファウストの行く手を塞ぐように立ちはだかる。
こうなったイリスは面倒極まりない。
この状態が暫く続く事を、ファウストは嫌というほど知っている。
変身薬が効かない以上、彼女を連れて行くのは致命的なリスク。
それでも置いていく方が厄介なのだから、選択肢はなかった。
「………………………………っ、分かったから」
長い沈黙の末、ファウストは観念したように答えを絞り出した。
流石のファウストでも、イリスの不機嫌に数日も付き合うのは耐えられなかったのだ。
「本当に、余計な事はするなよ?」
「ふふん、分かってるってば」
イリスは満面の笑みで頷いた。
その無邪気さに、ファウストの頭痛はさらにひどくなるばかりだった。
「はぁー、心配だ…………」
はしゃぐイリスを前に、ファウストは頭を抱えながら人間界に向かう準備を進めた。
ローザから受け取った護符や薬を確認し、荷をまとめる。
小さく肩を落とし、ファウストは最後の確認を終える。
「……行くぞ」
「うんっ!」
どれだけ用心しても、イリスがいれば計算通りにいかないことは分かりきっている。
それでも。
小さく息を吐き、ファウストは決意を固めた。
「胃痛薬、貰っておけばよかった……」
こうして二人は、人間界への潜入へと歩を進めるのだった。
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