エピソード 17

 紙が擦れる乾いた音が、部屋にむなしく響く。

 重苦しい沈黙を最初に破ったのは、ファウストだった。


「なぁ……ずっと聞こうと思ってたんだけどよ」


 机の上に積み上げられた書類の山。

 それを呆然と眺めながら、ファウストはぼそりと呟く。


「な、なによ……」


 戸惑うように返すイリス。

 その視線をよそに、ファウストは深いため息を落とした。


「これ……本当に終わるのか?」


 その一言に、イリスの肩がびくりと震えた。

 

「い、いつかは終わるに決まってるでしょ!」


「いや、でもさ。この作業続けて何日経った?」


 朝食を済ませたファウストとイリスは、魔王の間にて絶賛缶詰状態。

 どれくらい時間が過ぎたのか、もう考えたくもない。

 ただひとつハッキリしているのは、仕事が一向に終わらない、という事実だけだった。

 魔王といえば、権力を振りかざして玉座でふんぞり返ってるイメージ。

 だが現実はというと……。


「許可書、承諾書、認可書、届出……はい次」


 ファウストが淡々と読み上げるたびに、イリスはぐったりと机に突っ伏す。

 書類の山から出てくるのは、どれもこれも魔王の直筆サインが必要なものばかり。


「……もう無理っ!」


 とうとうイリスはペンを放り投げた。

 

「私の代わりにサインしてくれたっていいじゃない!」


「ダメに決まってんだろ! 散々言ったよな? “書類が溜まってるから目を通しておけ”って!」


 嫌なことはすべて後回し。

 それがイリスの悪い癖だと、ファウストはとうに熟知していた。

 だからこうならないよう、あれほど口酸っぱく注意してきたというのに。

 結局はこの有様である。

 二人は流れ作業のように、役割を分担していた。

 イリスが書類に目を通してサインを書く。

 ファウストはそれをまとめ、使い魔に託して各種族へ届ける。

 だが、積み上がった書類の山は減るどころか、なぜか増えているようにすら見えた。

 

「“魔界産カボチャ輸出許可申請書”……誰が欲しがるんだよこんなの」


「魔界カボチャは人気なの! スープにすれば絶品なのよ!」


「絶対お前が食いたいだけだろ」


 ファウストは次の書類に手を伸ばし、顔を顰める。


「…………人間界侵入禁止誓約・更新書?」


 その低い声に、イリスはビクリと再び肩を大きく震わせた。


「おい。これ――」

 

 書類の端に目を走らせた瞬間、ファウストの眉間に深い皺が刻まれた。


「期限切れてるじゃねぇか」

 

 イリスは視線を逸らし、机に突っ伏したまま小さく呻いた。

 

「……あ、あのね。これはその……私が魔王になった時に、魔族たちに強制した“誓約書”なの……」


「つまり?」


 ファウストはイリスに誓約書を突き出しながら、問い詰める。


「“勝手に人間界へ侵入するな”っていう取り決め。破ったら重罰ってね」


 ファウストの額に青筋が浮かんだ。


「……それが更新されてなきゃ、魔族を縛る理由がなくなる。つまり、好き勝手に人間界へ行けるってことだな?」


 ファウストは机を拳で叩きつけた。


「人間界に強い執着を持ってる魔人が山ほどいるんだぞ! このままじゃ勝手に侵入する奴が――」


「だ、大丈夫よっ!」


 イリスは慌てて手を振り、必死に取り繕う。


「そ、そもそもこの誓約書が無くたって、人間界へ行く魔法は全部私が制御してあるの! だから勝手にゲートを開けるなんて無理なのよ!」


「…………」


 ファウストの目が細くなり、イリスは視線を泳がせる。


「……少なくとも、理論上は……」


「理論上って何だ!」


「ほ、ほら、あの……例外的にちょっと抜け道が残ってるかもしれないけど、まぁ普通の魔族には見つけられないから安心して!」


「例外的に抜け道!? その時点で安心できるかよ!」


「だ、だから誓約書が切れてても、実質ノーカンっていうか……」


 歯切れが悪くなり、だんだんとイリスの声が小さくなっていく。

 

「……あの、その……実はちょっと、自分でも把握してないルートが……」


「把握してないルート!? 魔王が管理してないゲートがあるってことか!」


「ち、違うのよ! あれは昔の魔王が作った古い魔法陣で……場所もよく分かんないし、たぶん埋まってるはずだから……!」


「“たぶん埋まってる”で済むわけねーだろっ!」


 ファウストが机を叩き、書類の山が揺れる。

 イリスはびくっと肩を竦め、モゴモゴと話す。


「で、でも……今まで誰も使ったことないし……だいたい私が魔王になってからは、勝手にゲートを開いた奴なんて一人もいないんだから……」


「そりゃ誓約書で縛ってたからだろ! それが切れた今、どうなると思ってんだ!」


「……そ、その時は……ファウストが止めればいいんじゃない……?」

 

「俺に丸投げすんじゃねぇよ!」


 イリスは椅子からずり落ち、両手で頭を抱えながら床に転がった。

 

「もーやだぁ! なんで書類のことでこんな怒られるのよーっ!」

 

 ファウストは頭を抱え、深いため息をつく。

 

「もー無理! 疲れたぁーっ!」


「駄々こねてる場合か! 期限切れの書類だって何枚も見つかってんだぞ!」

 

 まさに修羅場。

 疲れたと駄々を捏ねるイリスと、容赦なく叱りつけるファウスト。

 もはやどちらが主でどちらが従者なのか分からなくなる状況が、しばらく続いた。

 やがて、夜行性のドラゴンたちの咆哮が鳴りを潜めた頃。

 げっそりとした顔のイリスが、ようやく魔王の間から這い出してきた。


「も、もう無理……」


「だから言ったろ。仕事は溜めるなって」


 どうにか書類の整理を終えたのだろう。

 二人の頬や手には、黒いインクがべったりと染みついている。


「……お腹すいたぁぁあ!!」

 

「分かった分かった。なんか簡単に食べれる物、作ってやるから少し待て」


 騒ぐイリスを宥めつつ、二人は貯蔵庫へ向かう。

 ファウストが扉に手をかる。

 そして、ギクリと動きを止めた。


「……私、今ね。ガッツリ食べたい気分なんだけど」


 呑気に貯蔵庫の中を覗き込んだイリスの顔が、一瞬で青ざめる。


「え、ちょっ……どういうこと?」


 貯蔵庫の中は、もぬけの殻。

 食材の“しょ”の字すら見当たらない。

 

「作り置きのお菓子くらい……あるでしょ?」


「三日前に夜食で食ったの、お前だろ」


「……あ」


「…………」


「…………」


 顔面蒼白のイリスがファウストに詰め寄る。


「フゥゥウ――――――」


 深呼吸ひとつ。

 ファウストは真っすぐイリスを見据えた。

 

「悪い。朝飯で食材、全部使い切ってたの忘れてた」


「……え?」


「だから――明日まで飯抜きな」


「な、な、な……なんでよぉぉぉぉぉぉおおおっ!!!」


 今のイリスにとって、それは死の宣告に等しかった。

 彼女の悲痛な叫びは、魔王城の隅々まで響き渡った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る