エピソード 15
ファウストが魔界に来てから、すでに数ヶ月が経った。
魔界特有の魔力にもようやく体が慣れ始はじめ、少しずつではあるが魔法を扱えるようになり、不自由のない時間を過ごしている。
「……どうせ、まだアイツは起きてないだろ」
ファウストは呆れたように肩をすくめながら、城内に並ぶ燭台に次々と火を灯していく。
ふと視線を窓辺へ向け、魔界の風景を眺める。
魔界は常に暗闇に覆われ、血に塗られたように赤い月が空高く不気味に浮かんでいた。
地を歩くのは、人の姿から大きくかけ離れた魔人や魔獣。
さらに上空では、ドラゴンたちが群れを成して飛び交っている。
荒れ果てた広大な荒野には、各種族の縄張りとなる領地が点在する。
その中央に広がるのが、魔界の心臓部とも呼ばれている繁華街。
そこはサキュバス族とインキュバス族が仕切り、常に喧騒と欲望に満ちていた。
繁華街から山を一つ超えた先には、鬱蒼とした森が広がっている。
そこは天空の覇者、ドラゴンたちの棲み処であった。
そして、その森の奥深くに、魔王イリスが住まう魔王城がある。
「住めば案外、普通なんだよな……」
慣れというのは恐ろしいもので、気づけば魔界での暮らしもすっかり板についてしまっていた。
ただ、一つだけ面倒な事があるとするのなれば、魔王イリス·イェルムヴァレーンの従者として、彼女の身の回りの世話をする事だ。
「風呂の準備でもするか……」
ファウストは火が灯った燭台を手に、ぼんやりと照らされた廊下を進み、浴場へと向かう。
「おいっ、イリス! いつまで寝てんだっ!」
風呂の支度を終え、ファウストは自分の部屋に籠るイリスに声をかけ続けた。
しかし、返事は無い。
「チッ……」
ドゴォッ――!
痺れを切らしたファウストは勢いよく部屋の扉を蹴破った。
「イリス! そろそろ起きないと、朝食抜きにするぞ!」
部屋に踏み込むと、部屋の中心に据えられた大きなベッドから、すやすやと気持ちの良さそうな寝息が聞こえてくる。
その寝息を聞いたファウストは、再び舌打ちをする。
「ッ……チッ」
ファウストの存在に気づいていないのか、イリスは目を覚ます気配がない。
「ったく……」
ファウストは悪態をつきながら、床に脱ぎ散らかされたドレスやネックレスなどの装飾品を拾い上げていく。
イリスがここまで起きないのには理由があった。
昨夜、魔界の各地域を牛耳る種族長達との食事会がこの魔王城で開かれた。
魔王であるイリスはもちろん、従者のファウストも同席をしたが、会の空気は最悪だった。
縄張り意識の高い族長たちが一堂に会すのだから当然だが、それ以上に、息苦しいほどの威圧感が場を支配していた。
『三欠の魔王』
イリスは、そう呼ばれている。
本人が語ろうとしないためファウストも深くは詮索しなかったが、いい意味ではないことだけは明らかだった。
種族長と顔を合わせるのを嫌うイリスは、食事会の間ずっと不機嫌で、早々に席を立つと部屋に閉じこもり不貞寝を決め込み、今に至るのだ。
「アンタの身支度はいつも時間がかかるんだから、いい加減起きてくれ」
「………………」
ベッドの中で蹲るイリスに再び声をかけるも、返事はない。
「ったく、誰が片付けると思ってんだよ……」
そうぼやいた時、イリスがむくりと起き上がった。
そしてファウストを一瞥し、ぽつりと呟いく。
「………お腹、空いた」
さすがのファウストも、ため息しか出なかった。
「はぁ……。準備しておくから、その間に湯に浸かってこいよ」
「カリカリに焼いた肉の塩漬けと、野菜のスープが食べたい」
「……分かったよ、ご希望通りに用意しておくから」
「あと、甘い物……」
「っ、分かったから。早く行ってこい」
イリスはそれだけ言うと、何も纏っていない身体にシーツをくるりと巻き浴場へと向った。
自分が魔界に来る前まではどんな生活をしていたのか。
まさかイリスがここまで生活力が低いとは思わず、あの日イリスに着いていくと決めた選択は間違いだったのではないのかと、ファウストは七割方本気で後悔をし始めていた。
「………………やっぱ、選択を間違えたよな」
再び深いため息を吐いたファウストは、脱ぎ散らかされたドレスを抱えながらイリスの部屋を後にし厨房へと向った。
イリスは簡単に「これが食べたい」とリクエストを出してくるが、その要求は魔界ではかなり高レベルなものだった。
「えっと……肉の塩漬けと野菜のスープ。甘い物はどうするか……」
魔界育ちのイリスは、人間界の食事も魔界の食事も平気で口にできる。
だが、ファウストは生まれも育ちも人間界。
魔界の食材は身体が受け付けなかった。
そのためイリスがファウストのために貯蔵庫を用意し、人間界から仕入れた食材を保管していた。
もっとも、今ではすっかり貯蔵庫の中はイリスの好物ばかりで埋まってしまっているのだが。
「昨日の食事会でだいぶ食材が減ったな……」
肉も魚も野菜もが底をつきかけ、貯蔵庫は寂しいばかりだ。
「……変身薬、貰いに行かないとな」
そう呟きつつ、ファウストは朝食に必要な食材を取り出し、調理に取りかかった。
ファウストはそもそも、食への興味を完全に失っていた。
人間界で長年、劣悪な環境に身を置いていたせいで、栄養さえ取れればいいと割り切っていたのだ。
だがイリスの従者となり、彼女のために料理を作るようになってからは違う。
初めてイリスに振舞った料理は、とても食べられる代物ではなかった。
『こんな物を、魔王であるこの私に食べろだなんて冗談じゃない!』
……なら、お前が作れよ。
喉元まで出かかった言葉を飲み込み、ファウストは機嫌を損ねたイリスをなんとか宥めた。
そこから従者としての「料理特訓」が始まったのだ。
魔界に来て、初めての仕事が料理を学ぶ事だなんてファウストは思いもしなかった。
だが努力の末、今やイリスはもちろん、他種族の長たちすら唸らせるほどの腕前となった。
手際のよさ、下拵えの確かさ、丁寧な味付けと美しい盛り付け。
文句のつけようがない料理を作れるまでに成長した。
そして今では厨房に立つことが、ファウストにとって唯一心安らぐ時間となっている。
「さてと。肉に添えるソースはフルーツを使った甘いものと濃い味の二種類にして……付け合せは茹で野菜、スープは……」
「ファウストーーーッ! こっちに来てぇぇえっ!」
朝食の献立を考えながら食材の下拵えをしていると、浴場からイリスの声が響き渡った。
どうやら、ファウストを呼ぶために拡張魔法を使ったらしい。
だがその声は城内どころか、城を囲む大地や木々までも揺らすほどに拡散していた。
カタカタカタッ――――。
窓ガラスや棚が小刻みに震え出す。
「っ、あの馬鹿っ!」
ファウストの耳から、どろりと血が流れ落ちた。
イリスにとっては、「ちょっと声を大きくした」程度なのだろう。
だが、桁外れの魔力を持つイリスが魔法を使えば、日常魔法すら容易に攻撃魔法へと変貌する。
その声を直に浴びたファウストの鼓膜は、容赦なく破れていた。
「ただの拡張魔法でこの威力かよ……。いつになったら加減ってもんを覚えるんだ」
イリスは魔力の調整が壊滅的に苦手だ。
本人は「ほんの僅かな魔力」と思って放っているのだが、実際には全てが極大魔法。
街一つ吹き飛ばす威力を持ってしまう。
従者となって以来、ファウストは「力を抑えろ」「加減を学べ」「魔力の調整をしろ」と口酸っぱくして言い続けてきた。
それでも改善の兆しは、未だ見られない。
ファウストは破れた鼓膜が再生し、耳の奥の詰まりが抜けるのを待つ。
そして重い足取りでイリスの待つ浴場へと向かった。
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