第16話

俺は、ガンツさんが作ってくれた調理器具の前に立っていた。

これは、ただの道具ではない。

漆黒の包丁は、手に持つだけで不思議な力が湧いてくるようだ。

その刃は、闇を固めたように鈍く光っている。

漆黒の鍋も、負けず劣らずの存在感を放っていた。

どんな強力な火力にも、平然と耐えられそうな頑丈さを感じる。

これは、まさに最強の調理器具だ。


「よし、クマ子。今からお前に、特大のステーキを焼いてやるからな」


俺がそう声をかけると、別館の中庭で待機していたクマ子が嬉しそうに立ち上がった。

『ごしゅじんさま! 本当ですか! わたし、昨日からずっとお腹を空かせて待っていたんです!』

クマ子は大きな体を揺らし、期待に満ちた目をこちらに向けている。

その期待に、全力で応えなければならない。

俺は市場で特別に仕入れてきた、魔物の肉の塊を取り出した。

それは、大人の男が抱えるほどの大きさがある。

普通の包丁では、刃がこぼれてしまいそうな硬い表皮と筋に覆われていた。


「まずは、このやっかいな筋を丁寧に切らないと……」


俺は漆黒の包丁を構え、そっと肉に当ててみた。

力を入れるつもりは、全くなかった。

だが、包丁は自らの重みだけで、肉の塊へと吸い込まれていく。

まるで熱いナイフが、冷たいバターを切るかのようだ。

スッ、スッ、と軽やかな音だけが響く。

あれほど硬く見えた筋も、分厚い骨さえも、すべてが簡単に切れていく。


「おお……! すごい切れ味だ……! ガンツさん、ありがとう!」


俺は、思わず感動の声を上げていた。

この包丁の性能は、俺の想像をはるかに超えている。

これさえあれば、あの硬いガラクの実を砕くのも、朝飯前だろう。

俺たちの食生活と、魔物たちの健康管理が格段に楽になる。


「ルビ! 火力調整の練習を始めるぞ! この鍋を温めてくれるか?」

『はーい! まかせて、ユウ! わたし、もう完璧だもん!』


ルビが、嬉しそうに尻尾を振りながら駆け寄ってきた。

彼女は最近、ガンツさんの指導のおかげで、火力調整が楽しくて仕方ないらしい。

俺が漆黒の鍋を中庭の頑丈な石畳に置くと、ルビは一度、深呼吸をした。

その小さな体に、ドラゴンの力が満ちていく。


『いくよ! さいしょは、とろび! ふー……』


ルビの小さな口から、制御された小さな炎が吐き出された。

それは、鍋の底を優しく撫でるような、完璧な火加減だ。

ガンツさんに鍛えられただけあって、そのコントロールは芸術的ですらある。


「よし、ルビ、本番だ! ステーキを焼くぞ! 最強の強火、お願い!」

『りょうかい! わたしの、さいきょうかえん! ふおおおー!』


ルビが勢いよく炎を噴き出すと、鍋が一瞬で灼熱の温度に達した。

万年ゴケ鉄とオリハルコンで作られた鍋は、ドラゴンの炎を受けても、全く動じない。

むしろ、その熱を喜んでいるようにさえ見える。

俺は、分厚く切り分けた肉を、熱せられた鍋に放り込んだ。


ジュワアアアアアアアッ!


すさまじい音が鳴り響き、肉の焼ける香ばしい匂いが中庭いっぱいに広まった。

その匂いに誘われて、コロとぷるんも、家の中から慌てて飛び出してくる。


『わー! すごくいいにおい! ユウ、ずるい!』

『ユウ、わたしのぶんもある!? もちろん、あるよね!?』

『(ぷるぷる、ぷるるる!)』(←興奮で激しく震えている)


「ははは、もちろん、みんなの分もちゃんとあるぞ」


俺は手際よく肉の両面を焼き、漆黒の包丁で食べやすい一口大に切り分けた。

そして、一番大きな皿に山盛りにしたステーキを、クマ子の前にそっと差し出す。


「さあ、クマ子。お待たせ。すごく熱いから、気をつけて食べろよ」

『は、はい! いただきます!』


クマ子は、緊張した面持ちで目の前のステーキを見つめている。

彼女は、ゆっくりと顔を近づけた。

そして、その大きな口で、山盛りの肉をがぶりと一口で平らげた。

もぐ、もぐ、と大きな顎が数回動く。

次の瞬間、クマ子の大きな目が、カッと見開かれた。


『な……! な……! おいしいいいいいいいいいいいい! な、なにこれ! お肉が! お肉が、口の中で、とろけるんですけど! わたし、こんな美味しいもの、生まれて初めて食べました!』


クマ子は、中庭に響き渡るほどの声で絶叫した。

その凄まじい声は、アリストンの町中に響いたかもしれない。

クマ子は、興奮のあまりその場をぐるぐると回り始めた。

巨体が動くたびに、地面がわずかに揺れている。


「ははは、よかった。気に入ってくれたみたいだな」

「それも、ガンツさんの鍋と、ルビの火加減のおかげだ」

『ちがいます! ごしゅじんさまの腕です!』

『ごしゅじんさまは……最高のネイリストであり、世界一のシェフです!』


クマ子は、嬉しさのあまり、大きな瞳から涙を流して俺を褒めたたえた。

いや、俺は本当にただ焼いただけなんだが。

ルビ、コロ、ぷるんも、自分たちの分のステーキ(小さめに切ったやつ)を夢中で食べている。


『んー! このお肉、いつもよりずっとやわらかい!』

『おいしいね、ルビ! ユウは天才だね!』

『(ぷるぷる! おかわり!)』


みんなが満足そうに食べてくれると、俺も飼育員として鼻が高い。

やっぱり、質の良い食事は、健康な生活の基本だ。


その日の午後。

俺は、次の仕事を探すために、一人でギルドを訪れていた。

ルビとコロは、ステーキを食べて満足したのか、別館でぐっすり昼寝をしている。

クマ子は、中庭でうっとりと、ガンツさんに磨いてもらった自分の爪を眺めていた。

俺がギルドの建物に入ると、冒険者たちが「あ、来たぞ」とささやきながら道をあける。

もう、この反応にも、すっかり慣れてしまった。


「こんにちは、ドリンさん。今日も何か、仕事はありますか?」


俺が執務室を訪ねると、ドリンさんは大きなため息をついた。

彼の机の上には、胃薬らしき小瓶が、昨日よりも明らかに増えている。


「……ユウ殿か。おはよう。……お主の『子供たち』は、今日は一緒ではないのか?」

「あ、みんなは別館で留守番です。ステーキでお腹がいっぱいで、寝てしまいました」

「……ステーキ、か」


ドリンさんが、またどこか遠い目をした。

彼は壁に貼られた無数の依頼書を、じっと見つめている。


「うーむ。Fランクのお主には、少し早いかもしれんが……」

「これしか、今のところ『素材採取』の依頼が残ってなくてな」


ドリンさんが指差したのは、Bランクと書かれた依頼書だった。

「『グリフォンの卵の殻』を採取してほしい、という依頼だ」


「グリフォン、ですか?」


俺は、動物園で飼育していたワシやタカの姿を思い出した。

猛禽類は、本当に格好いいんだよな。


「そうだ。非常に凶暴で、空を自由に飛ぶ魔物だ。巣は険しい岩山にある」

「普通の冒険者では、巣に近づくことすら難しい」

「ドリンさん、Bランクなんて、俺には無理ですよ」


俺がそう正直に言うと、ドリンさんは困った顔をした。

「そうなんだがな……。実は、この依頼、ガンツのじいさんからなんだ」

「え? ガンツさんから?」

「ああ。ルビ殿の炎を見て、何か新しい合金のアイデアが浮かんだらしい」

「その合金を作るのに、どうしてもグリフォンの卵の殻が、触媒として必要だそうだ」

「『ユウなら、なんとかするだろう』と、ガンツのじいさんが、無茶を言ってきてな……」


「なるほど。ガンツさんの頼みなら、断れませんね」


俺は、あの偏屈だが腕は確かな鍛冶屋の、嬉しそうな顔を思い出した。

彼には、調理器具やクマ子の爪のことで、大きな世話になった恩がある。


「でも、グリフォンか……。卵の殻って、カルシウムが豊富なんですよ」

「動物園では、砕いて鳥の餌に混ぜたりしてましたね」

「栄養満点なんだ」


「……お主、グリフォンを前にして、餌の心配をしているのか?」

「はい。野生の子たちは、ちゃんと栄養が取れているか、少し心配です」

「分かりました、ドリンさん。その依頼、引き受けます!」

「グリフォンさんたちの、健康診断もしてきますね!」


俺が元気よくそう宣言すると、ドリンさんは、ついに机に突っ伏してしまった。

「……もう、知らん……。勝手にしてくれ……」


ドリンさんの弱々しい声に見送られ、俺はギルドを後にした。

周りの冒険者たちが、俺を信じられないという目で見ている。


「おい、マジかよ。あのFランク、今度はBランク依頼を受ける気か?」

「しかも、相手は空の王者グリフォンだぞ」

「死にに行くようなものだ。無謀すぎるにもほどがある」


俺はそんな声に構わず、足早に別館へと急いだ。

野生のグリフォンに会える。

楽しみだな。

飼育員として、血が騒ぐというものだ。


「ルビ、コロ、ぷるん! 起きろ!」

「ピクニックに行くぞ! 楽しい山登りだ!」


俺がそう大声で叫ぶと、三匹は嬉しそうに飛び起きた。

俺たちは、グリフォンが住むという岩山へ向かって、元気に出発したのだった。

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