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もしも途中で怒りが冷めたら。私は内心で、そのことを不安に思っていたのだけれど、そんな心配は無用で、怒りはまるで冷めなかった。心臓のあたりがかっかと燃え盛っていて、ずっと頭の中で、馬鹿にされた、許さない、と、その二つの言葉がぐるぐる回っていた。
電車を降り、バスに乗り込み、彼の家の最寄りのバス停で降車してもまだ、怒りは冷めていなかった。うっすらと頭の隅の方で、彼のことを考えた。仕事が休みの土曜日の夜。不倫相手と別れた後、彼は今頃、あの写真の聡明そうなお嬢さんと、顔を見たことはないが美人だと噂に聞いたことはある奥さん相手に、家族サービスなんかしているのだろうか。
もしそれを見たら、千年の恋も冷めるかもしれない。私を抱くときの男の顔ではなく、やにさがった父親然とした彼の顔を見たら、野球中継を見ながら発泡酒を飲むしか芸がなかった自分の父親のことなんか思い出したりして。
千年の恋も、冷める。
それは一種の恐怖だった。だって、彼との関係を失ったら、私にはなにも残らない。親しい友人もいなければ、打ち込める仕事も趣味もない。そんな女に残されているのは、この不倫関係だけ。
情けない、と、そう思うと、その冷たい風のせいで怒りが冷めそうになった。
慌てた私は、ホテルでシャワーを浴びているときのの惨めさや、彼と別れてひとりで夜を越す寂しさ、そして妹を援助していた母親のことを思い返し、怒りの火を再燃させ、かつかつとヒールを鳴らして住宅街を歩き、彼の家の前についた。真っ暗な中に、街灯に照らされた緑色の門柱だけが浮き上がって見える。
私は、怒りの勢いのまま、門柱のインターフォンを押した。
『はい。どちらさまでしょうか。』
応対したのは、落ち着いた低めのおんなの声だった。私はその声に、更に怒りをあおられた。その余裕ぶった声を、めちゃくちゃにしてやりたい。私は幾つもの夜に、何度も彼に抱かれたのだ。
「荻野と申します。旦那さまにはいつもお世話になっております。」
私も、余裕ぶった声を出した。職場で電話を取る時みたいな、余所行きの声。
『主人からお話は伺っております。少々お待ちください。』
おんなの声がそう言って、私は内心ぎょっとした。
このおんなは、私のなにを"伺って”いるというのだろうか。確信していた自分の絶対の優位が、足元から崩れ落ちていく感じがした。
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