第八章 どうして(1)
突然、地の底から湧き上がるような、幾重にも重なる機械音が響き出して、二人は振り返った。遠くから、赤い目が点々と光る。それは、圧倒的な数となって、暗闇を埋め尽くした。二人は息を飲んだ。急いでわずかな物陰に隠れる。
「……こいつはヤバいね……」
平静を装いながら、志音の顔は引きつっていた。彼女は、そんな彼の横顔を見つめた。
……これ以上は無理だわ……
不意に彼にすがりつくと、彼女は眉根を寄せて、切なげな表情を作った。
「……志音、これで最後かも知れないから……」
青い瞳で彼を見つめる。
「……キスして……」
ゆっくりと瞼を閉じる。唇を近づけた。
……さようなら、志音……
それが再び重ねられる直前、彼は彼女の口元を手で覆った。驚いて彼女は目を見開いた。
「……それはフェアじゃない……」
彼は苦笑する。
「……麻酔ガス、だろ?……」
驚いて彼女は身を引いた。どうして分かったの?……
「例え何一つ覚えていられなくても、僕は最後まで見届けたい……」
彼の宣言に、アミカナは目を瞠った。
やがて苦笑すると、諭すようにゆっくりと言う。
「私には任務がある。私がやるしかない。でも、あなたは巻き込まれただけ。命まで賭ける必要はない……」
そうでしょう?と確認するように、彼女は首を傾げた。
彼を庇いながら、これだけの蜘蛛を相手にするのは至難の技だ。彼がここで眠っていてくれるなら、後は何とか……
「……君の意志は分かった……」
暫くの沈黙の後、彼は無理矢理笑顔を作った。
「……でも。僕から、選択の権利を奪わないで欲しい……」
忍び寄る恐怖に怯えながら、それでも真剣なまなざしで彼は言った。
彼女はハッとした。……選択の権利……それは、ラキシス機関が第一に優先するもの……
……それがあなたの意志なのね……
彼女は俯くと長い息をついた。
「……そうね。ごめんなさい……」
顔を上げた彼女はアトロポスを手渡した。
「失くしたら大変だから、預かっておいて」
スイッチを切り替える。
「銃弾モードにしてある。万が一の時のお守り」
彼女は彼の肩に手を置いた。
「『ひれ伏さぬ民は等しくアラクネの牙の露と消えるであろう』……あいつらは、動くものだけに反応する。じっとしていれば、きっと大丈夫よ」
そう言うと、彼女は優しく微笑む。
「すぐ戻って来るわ。私、強いから」
彼の頬にキスをした彼女は、背中の刀を二本とも引き抜くと、赤い光が渦巻く闇の中へと突進していった。
まずは蜘蛛どもをなるべく志音から引き離す!……その後は……
「……なるようにしかならないわね……」
彼女は呟いた。
* * *
強がってはみたものの、志音の膝の震えは止まらなかった。周囲の物音に過敏になる。遠くからは、激しい金属音が絶え間なく聞こえていた。彼女が蜘蛛を切り裂く音だ。
僕がもっと強かったら、彼女を助けられるかも知れないのに……
託されたアトロポスを力なく構えて、壁によりかかった彼は喘いでいた。
……なんで、僕はこんなにも弱いんだ……
天を仰ぐ。
彼女の言葉が思い返される。
『二度とないからこそ、選択は尊いの。何度もやり直せるのなら、何かを選択しようとする意志に意味はない……』
……そうだ。僕は一体どうしたいんだ?……
『世界を変えていいのは、あなたの意志だけなの……』
僕は、彼女を助けたい!
その意志のために、僕は選択する。二度と戻らない時間の中で……
弱いから助けられないんじゃない。僕は彼女を助けたいんだ! だから強くなる! 強くなるしか、彼女を助けられないんだ!
……自動攻撃機は、アトロポスを原子崩壊モードで立ち上げた時に反応する……
百貨店の屋上での出来事を思い出した。そして、彼女が触れたスイッチも覚えている。
彼は、彼女が去った方向とは反対に走り出し、球体の陰へと回った。少し距離を取ってから、振り返ってアトロポスを構える。
彼は、アトロポスを原子崩壊モードで起動した。重低音が響き始める。
「……さあ、来いよ……」
震えながら、それでも微笑んで彼は呟いた。
遠くに聞こえていた機械音が一瞬止み、そして次第に大きくなる。土砂に埋もれていない球体の右下の円弧の向こうに、赤い目が点々と光り出す。
「そう……そっからしか来れないよな……」
彼は銃口をその円弧に向けた。唸りの周波数が上がっていく。一番前を走る蜘蛛の赤い三つ目がグルグル回っていた。発射音が響き、耳元を針がかすめる。
……まだまだ!……
迫りくる蜘蛛の足が跳ね上げる砂が、頬に当たった。
「よ~し、全部食われちまえ!」
彼は引き金を引いた。
* * *
絶えず彼女に襲い掛かっていた蜘蛛の集団が、急に動きを止めた。仲間の死骸を蹴飛ばしながら、慌てたように闇の中に消えていく。
アミカナは、先端の折れた刀を地面に突き刺して、ふらふらと立ち上がった。あちこちの人工皮膚が切り裂かれ、銀色のフレームが覗いている。
「……何?……急に?……」
何故、攻撃を止めたのだろうか?……
……志音、あなたまさか!……
最悪の状況に気付いて、彼女は青ざめた。蜘蛛を引き付けるために、彼は……
……原子崩壊モードで起動したのね!……
呟くより早く、彼女は彼に向かって駆け出していた。
その時、行く手に巨大な緑色の閃光が見えた。前から瓦礫交じりの突風を浴びた彼女は、続いて、消失点に吹き込む後ろからの風に体を煽られた。
球体は、四分の一余りが吹き飛んで――いや、正確には齧り取られていた。彼が十分引き付けて撃ったのか、残っている蜘蛛はわずかだった。それらを背後から切り裂きながら、彼女は彼の下へと走る。
そこで、衝撃の事態に、アミカナは思わず立ち竦んだ。アトロポスを手にした志音の腹部に、蜘蛛の針が深々と突き刺さり、それが彼を壁に磔にしていた。
「志音?!」
叫んで駆け出した彼女だったが、量子頭脳からの信号の激しい乱れに、三歩も走らぬうちに足がもつれ、膝を付いた。それでも、刀を投げ捨て、四つん這いのまま彼の下へと擦り寄る。
彼は薄目を開けて彼女に微笑んだ。
「なんてこと!」
彼にすがるように針の刺さる傷口まで手を上げるが、そこからどうにもすることができず、ただただ指先を震わせた。
「……僕は大丈夫だ……そんなに痛くないし……」
「大丈夫なわけないでしょ!」
彼女は取り乱して叫ぶ。
どうしよう……どうしよう……どうしよう……
何も考えられない。息が激しく乱れる。
「……針を引き抜いてくれ。君と一緒にメシアを倒しに行かなきゃ……」
「抜いたらダメよ! 血が……」
その時だった。
彼女の青い瞳が大きく見開かれた。
……何?……
呼吸が止まる。
世界がぐるぐると回るような感覚に襲われて、思わず尻もちをつくと、そのまま後ずさる。
……何なの?……
苦しいのに、息ができない。気が狂っていくような気がした。両手でゆっくりと頭を抱える。頭の中に指を突っ込んで搔きむしりたい。
……何なのよ?……
突然、弾けたように志音へと近づいた彼女は、彼の腹に刺さった針を渾身の力を込めて一気に引き抜いた。勢いでそれを後ろに投げ捨てる。転がっていく金属音の中、彼は磔から解放されてその場にくず折れた。その彼の腹の傷口からは血が流れ出すことはなく、代わりに中で小さな紫色の火花が弾けていた。
「……嘘でしょ?……どうして……」
全身の震えが止まらない。脳が理解することを拒絶している。
志音も、アミカナと同じアンドロイドだった……
* * *
自分の腹の傷口から覗く火花に、彼は微笑んだ。
「……そんな気はしてた……」
衝撃の事実を知っても、志音は取り乱さなかった。
「……あの蜘蛛達は、僕を捕まえて、球体の中に引き込んだんだ……。そして、多分僕は複製され、機械の方は球体の外に捨てられた。きっと、失踪人の捜索のような厄介事を避けるためだ……」
天を仰ぐと、彼は顔を歪めた。
「だから……メシアは僕だ。いや、僕のオリジナルだ」
何を言っているのか、アミカナには分からなかった。志音がアンドロイド……志音がアンドロイド……
「どうして……」
彼女は呟いた。
「どうして!」
声を張り上げる。
「どうして! どうして!」
泣けない彼女には、髪を振り乱して叫ぶしか術がなかった。
「どうしてあなたがアンドロイドに!」
嘆きの声が漏れる。
「……あなたなら、あなたなら……」
そういうと、苦悶に歪む表情で、彼女は彼の頬に手を添えた。
「もしかしたら、私のことを覚えていてくれると思ったのに……例え、偽時間の中での出来事が何一つなかったことになったとしても……あの花言葉が名前の由来のあなたなら……何でも覚えられるあなたなら……。それが、私のほんの小さな希望だったのに……」
俯いて歯を食いしばる。
そう、球体を破壊して、全てが巻き戻ったとしても、志音なら、彼女のことを微かにでも覚えていてくれるのではないか……そう思っていた。科学的根拠はない。それは祈りに近かった。しかし、偽時間の中で過ごした彼はオリジナルではない。未来から転送されたアンドロイドだ。アンドロイドが消え去れば、彼女との記憶は完全に失われる。オリジナルが見聞きした訳ではないのだから、オリジナルが覚えているはずがないのだ。そして、任務遂行のため、未来から転送されたものは、偽時間の間に全て粉砕する必要があった。
「……どうして、あなたは……私が消し去るべき存在になってしまっているの……」
深すぎる絶望の淵に突き落とされた彼女は、すがるように彼を見つめた。
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