第四章 池の周り(2)
二人は、高台の神社の境内にあるベンチに座り、彼は炭酸飲料を、彼女はミネラルウォーターを口にしていた。半島にある古い神社だったが、海岸から相当な距離のある石段を登る必要があり、彼は息も絶え絶えだった。彼女も肩は上下していたが、表情は涼やかだった。
「……空が高いね……」
彼女は呟いた。筋雲が大きく吹き流された青い空と、朱色の社のコントラストが目に眩しかった。ここまで街を離れると、今までのことが全て幻だったのでは、という思いが強くなる。そして、傍らの彼女さえもが、彼の日常になりつつあった。
境内に人はなかった。
「……あのさ……月曜の朝、どうして僕に声をかけたの?」
思い切って、志音は最初から気になっていたことを聞いた。彼女は空を見上げたまま言った。
「人畜無害そうだったから」
「何それ?……」
過去にも同じように評価されたことのある志音にとっては、愉快ではない回答だった。彼女は彼に向かって微笑んだ。
「嘘よ。誠実そうだった、からかな? 私の話をちゃんと聞いてくれる人でないと、任務を円滑に遂行できないから」
そこで、彼女はミネラルウォーターを飲み干した。
「あと、隣で美女が寝ていても、手を出さないような人だから!」
立ち上がりながら彼女は言った。それが感謝なのか、皮肉なのか、彼女の表情を窺うことはできなかった。彼女は空になったペットボトルをゴミ箱に捨てた。
ふと思いついて、彼は聞いた。
「歴史改変阻止任務は何回目なの?」
「初めてよ」
「初めて?!」
思わず志音は聞き返した。過去の任務の苦労話などを聞こうと思っていたが、質問は全て廃棄処分となった。いや、苦労話ではない。本当に知りたかったのは、過去の任務においても、彼に接するように、彼女は過去人に接するのか……ということだった。
彼の前に戻って来た彼女は、立ったまま、座っている彼の顔を見つめた。
「後はね……なんとなく、知っている人のような気がして……そんな訳ないのにね……」
……知っている人……
「もしかしたら、君の曾おじいさんだったりして」
志音がふざけると、彼女は鼻を鳴らした。
「聖徳太子をあなたの曾おじいさんって呼べるなら、そうかもね」
彼女は社を振り返る。
「お参りしない?」
「ああ」
小銭を取り出しながら、彼は立ち上がった。
賽銭を入れて鈴を鳴らし、二礼、二拍手して頭を下げる。
何を願おうかと迷った彼は、ふと隣の彼女を盗み見た。
手を合わせたアミカナは、一心に祈っていた。高い鼻筋とほっそりした指が触れ合う。長い睫毛に見とれていると、その目が開いたのに驚いて、慌てて彼も手を合わせた。
一礼して下がる。
「……ちゃんとお願いしたの? やり方を指南した割には、バタバタしてたみたいだけど……」
彼女が咎めるように言う。
「大丈夫、大丈夫」
取り繕った彼は、鳥居へと戻りながら、何気なく聞いた。
「……何をお願いしたの?」
彼女は正面を見据えたまま答えた。
「……任務の成功……」
その時だった。
突然、スマートフォンから全国瞬時警報システムの警報音が鳴り響いた。驚いてポケットから取り出す。こんなの、滅多に鳴った試しがないのに……。
「……きっとあれよ……」
慌てる志音とは対照的に、意外な程落ち着いた彼女は、境内から見渡せる半島の対岸を指さしていた。志音の住む街が遠くに見えるはずだったが、そこからは幾筋もの黒い煙が上がっていた。
「11時から、陸軍が球体に直接接触を行うと言っていたわ。きっと、それをきっかけに戦闘が始まったのよ」
急に冷めたような口調で、彼女は言う。
「『神の御業から搾り取ってできた結晶の森を遍く砕き、群がる赤い一つ目のイナゴのはらわたを膠にして、メシアの歩く道を作ろう』……『神の御業から搾り取ってできた結晶の森』は、自然から作られた人工物である街、『赤い一つ目のイナゴ』は、日の丸の付いた日本軍の兵器よ。あの歌は、それらを瓦礫に変えようと言っている……」
淡々と話す彼女の言葉に、志音は耳を疑った。そんな、解読はできていなかったはずでは?!……
「……君は分かってたのか……」
低い声で彼は聞いた。彼女は黙って頷く。彼は歯を食いしばった。
「分かってたなら、警察とか、軍に連絡すれば!……」
抗議する彼を、彼女は鋭く見た。その刺すように冷たい青い視線に、彼はたじろいだ。
「彼らが信じると思うの? 証拠なんて、何一つないのよ」
「……いや、まあ、そうだけど……じゃあ、分かってて、逃げたってこと? ドライブにかこつけて」
そう言われて、彼女は煙の上がる対岸に目をやった。
「残念だけど、私の手持ちの武器では、あいつの火力には対抗できないわ……」
後れ毛を耳にかける。
「……私は、何が何でも任務をやり遂げる必要があるの。今、私とあなたのどっちが欠けても、それは叶わない。だから二人で撤退した」
今朝の彼女は、もうそこにはいなかった。歴史改変阻止者が、戦略を説明していた。
「球体と軍を潰し合わせて、お互いの戦力を削ぐ。その上で、球体を包囲している軍がいなくなれば、私達は逆に近づきやすくなる。これがベストな選択よ……」
そういうと、彼女は沈黙した。
……街の人を犠牲にして……か……
志音は心の中で呟いた。彼女の気持ちは分かるつもりだ。だからそれを口にすることはできない。ただ、研究室の同期達の顔が浮かんだ。彼らは無事なのだろうか?……親友とは呼べないかも知れない。だが、日々の時間を共に過ごしている仲間として、彼らの安否が気にかかった。
半島のどこかから、サイレンが鳴り出した。立ち尽くす二人の上に降り注ぐ。対岸では、一つまた一つと黒煙が増えていく。
目が覚めても、姫は消えなかった。だが、日常は着実に削られていく。このおとぎ話の結末がどこに向かうのか、志音には分かるはずもなかった……
* * *
志音の街で起きた球体との戦闘で、付近の交通は完全に麻痺していた。渋滞に巻き込まれた二人は、深夜、ようやくサービスエリアの駐車場へと辿り着いた。
「ごめん、明日はちゃんと手段を考えるよ」
「気にしないで。非常時だし」
シートを倒して、二人は車の天井を眺めていた。
「本当に何も食べないの? 朝も昼もサプリだったと思うけど……」
彼が聞くと、彼女は目を閉じた。
「ご心配なく。この世界の食べ物は、進化した未来人の口には合わないの……」
「どうだか。この間のファミレスでは、興味津々だったくせに……」
彼がからかうと、無言で小さなパンチが飛んできた。
「ちょっと?! 痛いよ」
「さあ……。バチが当たったんじゃない……」
彼の抗議に、彼女はとぼけてみせた。
「……志音、あなたの夢は何なの?」
不意に彼女が聞く。面食らって、彼は窓の外を見た。休憩所の明かりが煌々とついてた。
「大したもんじゃない。ちっぽけな夢さ」
「夢に大きいも小さいもないわ。夢は夢よ」
彼女は彼の方を見た。彼女に半分背を向けながら、彼は苦笑した。
「僕は、小さい時から飛行機が作りたかった。あんな巨大なものが空を飛んでるってのも凄いけど、空気を掴んでる感じがして、凄いと思った」
「掴む?」
彼女は眉を顰め、彼は頷いた。
「フラップがさ、翼の縁から出てきて垂れ下がるんだ。しかも結構大きく。あれを見てると、空気に乗ってるんじゃなく、空気を掴んでるんだ、そんな気がして……。そういう、ダイナミックな機械を作りたいと思った……」
そこで、彼は一旦言葉を切った。
「……だけど、色々と選択を間違えてね。今は随分遠いところにいる……」
「あなた、一度見聞きしたものは完璧に覚えられるんでしょ? なら、試験なんかも簡単だと思うけど……」
彼女の素朴な問いに、彼は振り向いて苦笑した。
「……見たのと同じ問題ならね。少しでもアレンジが加わると、分からなくなる。メタクニームの歌と一緒さ。同じように歌えるけど、意味は分からない」
そう言うと彼は遠くを見つめた。
「正解するためには、覚えるだけじゃダメだ。理解しないと……」
彼女は優しく微笑みかけた。
「こんな時に、私が言えた義理じゃないけど、人生はいつだって道半ばよ。生きている限り、可能性は常にある。頑張って……」
「……ああ……ありがとう……」
浮かない感じで、彼は天井に視線を戻した。何かを察したのか、彼女も天井を見る。
「頑張ってって言葉、好きじゃないのね?」
やがて、彼女は言った。彼は苦笑した。
「悪気がないのは分かってる。でも、今だって頑張ってるのに、まだまだ足りない、と言われているような気がして……ね……」
彼女は殊更長い息をついた。微かに微笑む。
「分かるけど……ちょっと青いかな?」
「……青い?……」
思わず彼女の方を見る。彼女も彼を見た。青い瞳が間近にあった。休憩所の明かりを反射して、彼を射抜くように光る。
「あなたに励ましの言葉をかけてくれる人がいる、それだけで嬉しいことじゃない……」
そう言うと、目を伏せた彼女の右手の人差し指が円を描き出した。
「そうね……。池の周りには、綺麗な花が沢山咲いているのに、あなたはいつも泥で濁った池に潜ってる。足のつかない池じゃない。水面から顔を出して辺りを見るかどうかは、あなた次第なんじゃない?」
もう一度、青い瞳が向けられた。彼は言葉に詰まった。世界を狭めているのは、自分自身ということか……。沈黙が流れる。駐車場を行き来する車のエンジン音が、微かに聞こえていた。
「ま、私も人のことは言えないか……」
やがて、彼女は窓の外を見た。彼女の側は漆黒の闇だった。窓ガラスに、彼女の顔がぼんやりと映る。
「……アミカナには、何か夢はあるの?」
苦い思いに駆られながら、彼は聞いてみた。
「う~ん……私の夢は……今この瞬間かな……」
「それは……任務の成功とか?」
彼の言葉に苦笑する。
「お願いはしたけど、それは夢じゃない……。仕事」
彼女は一度息をついた。
「こうして、アミカナとして過ごしている、全部……」
呟くように、彼女は言った。
「だから……別にどうなってもいいの。全部夢の中の出来事だから……」
志音は困惑した。今この瞬間が、夢の中の出来事とは……。この見知らぬ世界での驚きや喜びが、彼女にとっての夢なのだろう……そう思うことにした。おとぎ話では、いつだって主人公が美しい姫に恋をする。逆はないのだ……。だが、どうしてそれを寂しげに言うのだろう?……
「ちょっと寒いね……」
彼女は彼に背を向けると、シートの上で胎児のように丸くなった。彼は、そっと自分の上着を彼女に掛けた。彼に触れられて、彼女は一瞬僅かに身を固くしたが、払いのけるようなことはしなかった。
「……ありがとう……」
肩口の彼の上着を握り締める。
「……ほんと、嫌になる……」
彼女は呟いた。
「何が?」
彼は聞いたが、彼女はそれには答えなかった。窓に映る彼女の顔からも、その意味を窺い知ることはできなかった。
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