第三章 嵐の中の船(2)

彼女は、真剣な表情でテレビを見ていた。画面には、集結中の陸軍の戦闘ヘリや戦車が映し出されている。直接接触に向けた避難指示の地区に、志音の家はぎりぎり含まれていなかった。

「あの、そろそろホテル帰る?」

少しそわそわしながら、彼は聞いた。時計は既に23時を回っていた。一度生返事をしてから、彼女は驚いて顔を上げる。

「え? 昨日からここで寝泊まりしてるんですけど」

彼は肩をすくめた。

「僕はいいって言ってないから……」

「それは、私をほっぽって志音が寝てたからでしょう?」

彼女は口を尖らした。

「それは悪かったけど……。でも、やっぱ良くないよ」

彼の言葉に、彼女はすがるような顔つきになった。

「マジで追い出すつもり? 冷たすぎる!」

ため息をついた彼は、下から睨み上げるように卑猥な笑みを浮かべた。

「……襲われても知らないぞ……」

精一杯強がった態度を取ったつもりだったが、腰からアトロポスを取り出した彼女の方が一枚上手だった。不敵に笑う。

「……そん時は撃ち殺す……。さあ、どうする?」

「……じゃあ、僕は床で……」

「ん! お利口さん!」

彼女は彼の頭を左手でくしゃくしゃと撫でた。

その時、ニュースが、昨日のドローンの襲撃で亡くなった人々の氏名を紹介し始めた。彼女はハッとしてテレビを振り返る。次々に読み上げられる氏名。アトロポスを持つ彼女の右手が、次第に力なく下がっていった。志音からは彼女の表情は見えなかったが、ポニーテールが微かに揺れている気がした。勘違いかも知れない。自分の心の弱さを、勝手に彼女に投影しているだけかも知れない。自分だったら、耐え難い苦痛だと思うからだ。

「……君は、やれるだけのことをやったよ……」

わざとらしいセリフだと思いながら、それでも彼は声をかけた。

「……そう、私は選択した。……その時の全力で……」

彼女は呟いた。

「……だけど……」

長く息をつく。

「……やっぱ辛いね……」

振り向くと、彼女は悲しそうに微笑んだ。青い瞳には深い影が落ちていた。

 ……こんな時、自分ならどう慰められたいだろう……。選択を誤った、辛い、と嘆くのは簡単だった。感情の赴くままに流されればいい。だが、それを食い止めるために抗ったことはなかった。彼女も、彼が持つのと同じ気持ち――いや、彼の悩みのレベルとはまるで違ったが――でいるのに、それを慰める術を持たない自分が歯がゆかった。何故、こんなにも自分はダメなんだ……そう落ち込みかけて、心を奮い立たせる。自分のことはいい。今は彼女を支えなければ!

「……違う選択をした時の結果なんて分からないよ。今より良くなる保証もない」

明るい感じで志音は言った。

「今の選択がベストだった。これは、言い訳とかじゃなくて、事実そうなんだと思う……」

ハッとしたように彼女は目を瞠った。黙ったまま、彼を見つめる。

彼女の中で、何かが崩れる様な雰囲気を、彼は感じた――ような気がした。泣き出すのではないかと思って、志音は慌てて付け加えた。

「……知らんけど」

彼女の顔が一気に曇る。彼女は、左手の甲で、彼の胸をゆっくりと叩いた。

「……知らんのに言うな……」

そう言うと、彼女はふらりと廊下に出た。

「シャワー借りるね!」

背中でそう言って、ふと立ち止まると部屋の中に戻る。右手に持ったままのアトロポスをベッドの上に置くと、彼女は志音の胸に指を突き付けた。

「盗るなよ!」


* * *


志音は、床の上の毛布に寝転びながら、ベッドの上を見上げた。そこにはアミカナが寝ているはずだったが、ベッドの縁の陰に隠れて、彼女の姿を見ることはできなかった。何度目かの彼女のため息を聞く。昨日引き起こしてしまった惨事への後悔か、歌の解読が進まないことへの焦りか、とにかく、何かが彼女を悩ませていることは間違いなかった。

「……眠れないの?……」

意を決して、彼は聞いた。

「ごめん、起こしちゃった?」

一瞬の沈黙の後、ベッドの縁の向こうから彼女が言う。

「いや……僕も眠れなくて……」

言いながら、この後どう声をかけようかと、彼は必死に思案した。

「……そう言えば……アミカナの住んでいる世界って、どんな感じなの?……」

言ってしまってから、あまりに漠然とした質問に、彼は心の中で舌打ちした。

「どんな感じか……そうね……」

彼女は寝返りを打ったようだった。

「この世界と、そんなに変わらないわ。技術は進歩しても、人はいがみ合ったり、裏切ったり、陥れたり……命を奪ったり……」

あまりに包み隠すことのない彼女の答えに、彼は苦笑した。

「……それは……希望がなくなるなぁ……」

「それが人の選択なら、受け入れるしかないわ……」

抑揚のない声で、彼女は言った。それは、諦めのようにも聞こえた。

不意に、ベッドの縁から、彼に向かって彼女は顔を出した。部屋の暗闇に、彼女の青い瞳がぼんやりと光っているように見えた。

「あなたは? あなたは、あなたの世界をどう思っているの?」

「どうって……」

視線に耐えられずに目を逸らすと、彼は天井を見つめた。

「僕は……あんまり好きじゃないかな?……いや……」

密かに奥歯を噛み締める。

「僕が好きじゃないのは、この世界に馴染めない自分自身かもね……」

「馴染めない?……」

「馴染めないというのも違うかな?……この世界を回していくような何かにはなれないような自分が、好きじゃない」

彼は彼女の方を見た。

「だから、君は凄いと思う」

青い視線の強さに、再び目を逸らしたくなったが、彼はグッとこらえた。

「歴史の改変を阻止するために、たった一人でこの世界に来て、あの球体と戦おうとしているんだから……。僕には絶対に真似できない……。でも……」

見えるかどうか分からなかったが、ぎこちないながらも、彼は微笑もうとした。

「何かの縁で、こうして出会ったわけだから、もし君の力になれるなら、嬉しいと思ってる……」

それは、彼の精一杯の慰めの言葉であった。こんな言葉で慰められるとも思わなかったが、それでも、何も言わないわけにはいかなかった。

青い瞳は、彼を見つめたままだった。彼女がどんな表情をしたのかは分からなかった。

「……まあ、君にとっては、未開で非力な原始人かも知れないけど……」

彼が自虐的に笑うと、彼女はベッドの縁の向こうに消えた。

「……そんなことはないわ。凄く助かってる……」

そう言って、彼女は長い息をついた。それは、少しだけ震えているように感じた。

「……ごめんね。ありがとう……」

ブランケットを口に当てたのか、少しくぐもった感じで彼女は答えた。

「……うん……」

曖昧に返事をしながら、彼は彼女に背を向けた。ベッドとは反対側の机の上で、アトロポスが鈍く光っているのが見えた。襲われたらどうするんだ……そう思いながら、彼は目を閉じた。初めて会った時の明るさが、彼女に戻ることを祈りながら……。

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