21話:度を越えた悪戯 5
「それからよ。わたしと憬ちゃんが共に行動を始めたのは」
状況を聞いて、口を結ぶ。それと同時に、今の今まで追いかけ回していた僕が、心底バカに思えた。
確かに理解していなかったのは僕だった。
ロキがいなければ今頃、黒木はずっと病院から抜け出せなかったことだろう。
「あ、あの、薄」
「……黒木?」
あの無口な黒木が、自分から声を掛けてくれた。
「せ、先生に……助け、求めた、理由」
言葉がもつれて要点が拾えない。
見かねたロキは、重い足取りで立ち上がり浮遊をすると、黒木に近づいた。
「大丈夫よ、憬ちゃん」
優しく背に手のひらを添え、大丈夫、大丈夫と何度も呼びかけ、緊張をほぐしていた。
「薄、先生に助けを求めたのは……ロキの力が、皆に被害を及ぼすと思って」
そこでやっと、黒木の真意を知ることができた。
「いっ、今、思うと! へ……変だよな。誰にも見えないのに」
黒木はそこまで言い終えて、何度か息をつく。
なんだよ。最初から話し合えていれば、何も争うことなんてなかったじゃないか。
東雲さんを巻き込むことも、なかったんだ。
「てふふっ。約束通り、その猫ちゃんの姿を戻してあげるわ」
「本当だな?」
「ええ、このロキちゃんに誓って、嘘偽りはないわよー」
ロキは木の枝が散乱した地面の上で踞る、猫の東雲さんに触れる。
特に念を込めることはなく、その作業は一瞬で終わった。
「はいっ、これで日が昇ったらもとに戻るわ」
その言葉の後に続いて、ロキは手錠を掛けられるような動作で、両腕をくっつけてエールに差し出した。
「でーも」
ロキは調子を崩さずに大きな声で言った。
「憬ちゃんからは離れないからね……」
「だと思いましたのです。このままロキがいなくなっちゃったら、間違いなく黒木憬は……」
エールが言い淀んだ。
だから僕も、問いただす。
「どういうことだよ……?」
「幸。ロキに体を治癒する力なんてないのですよう」
「……つまり?」
わずかに、黒木の呼吸が乱れる音がした。
「黒木憬が元気でいられるのは、果たしてロキの振り撒いた幸福のお陰でしょうか?
ロキを引き離せば、災厄は無に帰しますのです」
そこでやっとのこと、ロキの心情を理解する。
ああ……ロキが黒木に振り撒いたのは災厄。
脳を騙すという、災厄だ。
「黒木憬を丈夫にしてくれる神様が代わりにいれば、別の話ですけど」
「わかった。じゃあ、神能人離で奇跡を起こせば……っ!」
神を憑依して、どうにか黒木を救えないか。エールにそう提案するも、小さな神様は首を横に振る。
「エールの能力はあくまでもその瞬間を幸福に導くためにあるのです」
「憑依が切れた時点で奇跡も消えるってこと?」
「なのです。エールは神様の御霊のほんの一部……なので力も神様には到底、及びません」
エールは申し訳なさそうに、言葉を続ける。
「万能な力なんてこの世に存在しないのです。都合のいい能力にはリスクが伴うものなのです。
リスクのない奇跡を浴びた人間は……いずれ自壊します」
『お役に立てなくて申し訳ないのです』
エールの謝罪に、僕は胸がズキズキと痛む。僕は今まで、神能人離の能力について……これこそ神の与えた奇跡だと、勝手に喜んでいた。
小さな神様の言葉は、能力に溺れ、夢酔いしれかけていた僕を現実へと引き戻す。
「神様は、全てを受け入れ自制できる人間にだけ、力をお与えするのです」
エールが言葉を終える時、僕はロキの方に首を向けた。
あの戯けていた悪戯神が、こちらの方を見ることなく苦悩している。このままロキを放置してもいいのだろうか?
ロキが神に消されてしまうという事実が僕の心を締めつけた。
どうすればいい。僕はどっちを救えばいいんだ。
頭の中がぐるぐると掻き乱され、混乱に頭を抱える。途端、黒木の声が森の中にゆっくりと沈んだ。
「ロキ」
「……憬ちゃん」
黒木はロキに対して、自らの口で告げた。
「もう、いいんだ」
「ダメよ」
黒木の一言が何を示すのか、それを改めて説明しなくとも……この場にいる誰もが理解できた。
「今まで、楽しかった」
「……やめてよ」
聞きたくないと、うずくまって土の上で握り拳を作る。
「ロキに会えて、その数週間だけでも……夢が叶えられた」
「ふざけないでッ!!」
ロキの耳をつんざく大声に動じず、黒木は言葉をやめない。
「ロキは俺に、人間らしい普通の生活というものを教えてくれた」
「違う、違うわ。わたしは憬ちゃんの具合を完治させてあげられない役立たずなの!」
「だから、もういいんだ」
喋り、続けた。
『え?』とロキから悲しげな声が溢れる。
ロキは震えたまま、地面に四肢をついた。これが黒木の選択で、ロキとの唐突な別れとなる。
黒木がロキの背を軽く撫でる。帽子を目深に被る隙間から垣間見えたのは、無感情の中に浮かんだほんの少しの愛情に満ちた眼差しと、ほんの少しの……頬を伝う雫だった。
「エール、だったっけ」
「はい、なのです」
澄んだ空気を胸いっぱいに取り込んで、黒木は自身の言葉を紡いだ。
「――ロキを、よろしく」
黒木から発せられた言葉に、エールは小さな首を二回、縦に振った。
その間も、ロキが何かを発する様子はなかった。
エールが悪戯神の体にそっと触れる。やがて悪戯神は淡い光に包まれた。それはどんどんと膨らんでいく。
――瞬間、目が眩むほどの光が闇夜に煌めき、弾け飛んだ。
あまりの眩しさに、僕は足をよろめかせた。弾けるように飛び散った光の粒子は、星々に負けじと辺りをキラキラと装飾した。
湿った土の匂いが辺りに膨らむ。
「……これで、ロキの力は天庭へとお帰りになったのです」
エールの言葉が、どさりと重々しい音と重なった。
ロキを剥がしたことで、黒木に掛かっていた奇跡が解けたのだ。
「うっ……はぁ、はっ――」
ハッとする。息絶え絶えに胸元を掴んで苦しそうに倒れ込む黒木。僕は慌てて救急車に連絡した。
整備された山道まで、黒木を抱え運ぶ。黒木の手のひらからはべったりと汗が滲み出ていた。
今に消え入りそうなほど、細い息を幾度となく繰り返す黒木を背負い、僕は静かに唇を噛み締める。
奥歯の軋む音が、僕にだけ聞こえた。
木々に反射した赤い点滅が、星明かりを食っていく。
やがてやってきた救急車の担架で運ばれていく様子を、ただ見守っていた。
その夜、僕の耳にこびりついたのは――激しいサイレンだった。
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